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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第一章 黒衣隊の篝火 5

創作「刃皇紀」

 篝火が消え、黒衣隊が残らず立ち去った後で、ファジルは茂みから這い出した。葉叢の蔭から見た光景が、無限に繰り返される悪趣味な芝居のように、強張った眼裏から消えてくれない。呪刀を納めた黒衣隊士の冷え切った瞳。硬い軍靴の先でジェリハスの頬を蹴り、乱暴に生死を確かめる軍務官の嘲笑。血塗れの躰を担架に横たえ、闇の奥へ運ばれていく父の戦友の姿を、黙って見送ることしか出来ない己の惰弱。息を殺して我が身を守り抜くことしか考えられず、総てが終わった後で漸く葉叢を脱け出すなんて、此れほど無様な話はない。だが、他にどうすることも出来なかった。余りにも血腥い暴力の臭気に圧倒されて、叫び出したくなる衝動を堪えるだけで、安物の理性は貧血を起こしかけていたのだ。

 夜明けの光が、山間の樹林を薄紅色に染め始めていた。拾い上げた篝火の燃え滓に滲む温もりに、あれは紛れもない現実であったことを思い知らされる。

(どうすればいいんだ)

 考えても答えの出ない問いだと分かっていた。然し、住み慣れた陋屋に火を放たれ、今では地上で唯一の身寄りとなった父親を拉致された後で、平然と村へ戻ることなど出来ない。どんなに平静を装ったところで、如何なる退却も許されない領域へ足を踏み入れてしまった事実から、眼を背ける訳にはいかないのだ。だが、どうしたらいいのだろう。誰に助けを求めれば、この不条理な窮状を覆し、負け犬の汚名を返上することが出来るのであろうか。

 そのとき葉叢の騒めく不自然な音が聞こえ、ファジルは思わず間抜けな悲鳴を上げて背後を振り返った。盛りを過ぎて散った花々や折れた枝葉に塗れた外套を手で払いながら、軍刀を帯びた男が黙って此方を見凝めていた。村の人間でないことは、その風体から一目で知れる。先刻の悪夢が瞬く間に脳裡を占拠し、迫り上がる恐懼と逃げ出すことへの良心の呵責が鬩ぎ合って、結果的に彼はその場から一歩も動けなかった。

「無事で良かったな」

 男はファジルの顔を見据えて穏やかな声で言った。

「黒衣隊は手強い。義侠心に駆られて闇雲に飛び出したりしなかったのは、賢明な判断だった」

 黒衣隊の一味ではないという保証が得られぬ限り、気を許すべきではないと、自分自身に言い聞かせる。余所者のジェリハスが現れた途端に、アーガセスの村での長閑な暮らしは急激に罅割れ、二度と元には戻らないのではないかと思えるほど、粉微塵に砕けてしまったのだ。戦友だか何だか知らないが、災厄を持ち込んだ事実は変わらない。同じ轍を繰り返し踏むのは愚か者の遣ることだ。

「あんたは、誰だ」

「俺はパレミダ。君の親父さんやジェリハスとは、古い仲間だ」

 不吉な予感は見事に的中した。篝火の残骸に歩み寄り、屈んで燃え滓に触れる男の姿を苦々しく睨みつけながら、胸の内で呪詛の言葉を吐き捨てる。余所者が持ち込むのは、災厄だと相場が決まっているのさ。嘗て昊読師の祖母は星空を見上げながら、未だ七つか八つぐらいの歳であったファジルにそう語って聞かせた。彼女は息子たちが次々に故郷を去って遠い都に旅立っていくことに、忸怩たる思いを抱え込んでいたに違いない。詳しく聞かされたことはないが、帝都で政争に巻き込まれて死んだ伯父の悲劇が、祖母の心に慟哭を強いなかった筈はないであろう。

「然し、思ったより厄介なことになった。まさか二人纏めて連れ去られるとは、大誤算だ」

 ファジルの嫌悪には気づいていないのか、男は飄々たる態度でガーシュに火を点けた。

「あんたは、親父が昔所属してたっていう組織の」

「残党だ。今は、帝都で巡察士として働いている」

「巡察士?」

「罪人を捕まえて警務庁へ売り払うのさ」

 綺麗に切り揃えた栗色の髪、痩せた頬、意志の強そうな藍色の双眸、額を斜めに走る引き攣れた傷痕。太陽の光と夕餉の酒を愛する森の無頼漢たちとは異質な物腰。単に荒事に慣れているだけなら、こんなにも研ぎ澄まされた気配を身に纏うことは出来ないであろう。

「君がファジルか。マルヴェの野郎、テリーカと一緒に郷里へ帰ったきり、一度も帝都に顔を出しもしなかったから、こうやって顔を合わせるのは初めてだな」

 久々に他人の口から早世した母親の名を聞かされて、ファジルは当惑を禁じ得なかった。彼が五歳のとき、森でサエラバの果実を集めているときに夕立に襲われ、濡鼠で家路を急ぐ途中、不幸にも落雷に打たれて亡くなったテリーカに就いて、鰥となったマルヴェは多くを語らないのが常であった。祖母のカルシャは、息子には勿体ないほど気立ても器量も良い嫁であったと口癖のように言っていたが、今となってはそれが真実であるかどうかを確かめる術はない。

「何故、彼奴らは親父を襲ったんだ」

 強張っていた心が少しずつ解けていくのと同時に、抑え込まれた無数の想いが堰を切ったように逆巻き始めた。何故、マルヴェは連れ去られたのか。何の権利があって、黒衣隊は家に火を放ち、平穏な生活を叩き壊したのか。

「理由は幾つもある。一番は、マルヴェが殉国隊の英雄だからさ」

「英雄なのに襲われるのか」

「或る種の人々にとって英雄であるということは、或る種の人々にとっては極悪人ということさ」

「よく分からないな」

 今更ながら、父親の頑迷な寡黙さが恨めしかった。カルシャは、昔はもっと陽気な男だったと言っていたが、物心ついて以来、ファジルの知っているマルヴェは能弁を好まない大酒呑みの樵でしかない。だが、この数日間に新しく聞かされた父親の意外な側面は、彼の寡黙さの裏側にある過去の重さを暗黙裡に物語っていた。実兄の不幸な死、戦場の経験、昔日の約束。一体、どれだけ多くの闇を背負って、あの人はこの二十年間を生き抜いてきたのだろう。

「親父は、どういう組織に属してたんだ」

 真実を知りたいという切実な衝動に背中を押されて、ファジルは食いつくようにパレミダの双眸を見据えた。銜えたガーシュの煙が染みるのか、眩しそうに眼を細めて彼は笑った。

「殉国隊に就いて、何も聞かされてないんだな」

「親父は昔話が嫌いだったんだ」

 昔話が嫌い、それは確かに偽りのない事実であったが、その狷介な性格の防壁を跨ぎ越してでも、寡黙な父親の秘められた懊悩に触れようとしなかったのは、自分自身の問題だ。知ろうとしなかったのは、罪ではなかっただろうか。自ら傷口を開いて余人の耳目に晒すのは堪え難い苦痛であっても、実の息子が真摯に耳を傾けようとしていると分かれば、マルヴェも禁欲的なほどに過去を封じ込める必要はなかったのではないか。

「酷い時代だったからな。思い返して、愉しいもんじゃない」

 燃えて縮んだガーシュを篝火の跡へ投げ捨て、パレミダは朝焼けに光る東の山稜を静かに見凝めた。

「当時の皇帝、つまり雷声帝は、凄まじい暴君だった。独特の信念の持ち主で、民族間の優劣に強い拘りがあった。グリシオン人が最高の民族で、後はどれも二流三流だと信じ込んでいたのさ。単なる狂人だったら、病院に収容されるだけで済んだかもしれない。然し生憎、彼奴は皇帝陛下だった。自分が正しいと思ったことを、全員が正しいと思うように、命じる権限を持っていた。その御蔭で世の中は大混乱に陥り、暴力や不正が横行するようになった。そこで雷声帝の横暴が気に入らない軍人たちが結託して、叛乱の準備を始めた。中心になったのは、宮廷警護を司る帝都治安本部紫衣隊長のメレスヴェル帥刀官(すいとうかん)と、国境警備を司る帝国辺境管理長のアルファゲル統刀官。そして叛乱の最高指導者であり、旗印でもあったのが、雷声帝の実弟で、軍務庁の庁掌補を務めていたセファド・グリイス閣下。後の春影帝陛下だ」

「春影帝」

 言葉の響きを確かめるように、ファジルは低い声でその名を唱えた。数年前に腎臓を病んで崩御したことは、僻村の樵の息子でも知っている。

「絶対的権力を握っていた雷声帝と、軍人の間で信望の篤かったセファド・グリイス閣下が、帝国の覇権を巡って争ったのが、雷鳴戦争だった。勿論、弟の悪企みに、雷声帝は激怒した。配下の黒衣隊を使って閣下の屋敷に火を放ち、命を奪おうとしたんだ。ところが、危険を察していた閣下は、メレスヴェル紫衣隊長の力を借りて難を逃れ、スヴァリカン要塞に亡命し、アルファゲル統刀官の庇護下に入った。悔しくて堪らない雷声帝は、閣下を、国家の安寧を擾乱する重罪人として弾劾した。閣下も負けじと、暴君である雷声帝を玉座から引き摺り下ろすことが自らの使命であると宣言してみせた。そして戦争が始まった」

 不謹慎とは思いつつも、好奇心が翼を広げて蒼穹へ羽撃き始めるのを抑えることが出来ない。マルヴェは間違っても、こんな風に帝国の歴史を芝居の筋書きのように語って聞かせてくれることはなかった。昊読師の祖母も、外界の政争などは嫌いな質だったから、アーガセスの山間に伝わる古譚や正教会の流布する神々の叙事詩などは教えてくれても、王家の諍いに就いては一言も触れたことがない。

「閣下は同志を募った。帝国辺境管理軍の戦力を計算に入れても、多勢に無勢なのは明らかだったからな。閣下の呼び掛けに応じて、多くの義勇兵がスヴァリカン要塞に参集した。指揮系統を明確化する為に、義勇兵複数の部隊に分割された。当時、帝国辺境管理軍に勤めていたラシルドが、俺たちの所属する部隊の紀兵官に着任した。此れが殉国隊創設の経緯だ」

 想像もつかない挿話の連続に、頭の芯を殴られたような気さえする。何もかもが知らないことばかりで、その遠い異郷で演じられた凄絶な闘争の舞台に、自分の父親が重要な役柄を割り当てられて上っていたということも、俄かには信じ難かった。

「ラシルドは隊員の中から、数人を幹部として抜擢した。マルヴェが副長、ジェリハスが

参謀長に選任された。俺は軍長の一人として働いた。戦争は四年続き、沢山の人間が死んだ。戦友も敵兵も、政府の高官も、次々に殺された。だから、帝都が陥落して雷声帝が処刑され、閣下が春影帝として践祚なさったときは、感無量だったね。この瞬間に、命を失っても構わないとさえ思った。そして殉国隊は、役目を終えて解散した」

 夢中で聞き惚れるファジルの顔を見凝めたまま、パレミダは静かに語り終えた。

「だが、役目は終わっていなかったという訳さ。俺とジェリハスは、マルヴェに危機を伝える為にこの村を訪れた。残念ながら、見込みよりも黒狗どもの動きが俊敏だったけどね」

「此れからどうするんだ」

「決まってるだろう。助けに行くのさ」

「出来るのか」

「俺一人では難しい。だが、仲間の力を借りれば、勝てない相手じゃないさ」

「仲間?」

「戦友さ。二十年前、戦場で培われた絆は、今も古びていない」

 戦争が終わったとき、ファジルは未だ地上に生を享けてさえいなかった。若しもマルヴェが戦場で命を落としていたら、自分は生まれることさえ許されなかった存在なのだ。そう考えると、こうして父親の旧友と言葉を交わしていることが奇蹟のように思えた。

「俺も連れて行ってくれないか」

 冷静に考えた訳でもないのに勝手に滑り出した言葉を、後悔したり取り消したりしようとは思わなかった。恰かもそれは、星々の運行が綾成す宿命の地図に予め書き込まれていた決断であるかのように、ファジルの胸底へ自然と根を下ろした。動かし難い覚悟が蛹から脱け出る蝶のように大きく美しい翅を広げる。この村に独り留まって、村長の御慈悲に縋りながら孤児の日々に埋もれるのは気が進まない。そもそも、父親の安否も確かめられぬまま、平凡な田舎暮らしに溺れていられる筈もない。

「苛酷な道程だけど、構わないかい」

 パレミダの瞳に宿った労わるような光にも、高ぶった情熱は挫けようとしなかった。

「構わない。指を銜えて、親父の帰りを待つなんて俺は御免だ」

「いい度胸だ。此れから宜しくな、ファジル」

 差し出された手を握り返しながら、ファジルは自分を待ち受ける未来の測り難さに思わず胴震いした。

 

 アーガセス山系の南西に広がるブラゲリー平原は、クヴォール地方随一の穀倉地帯として知られる。地平線まで続く平坦な大地を一面に覆う圃場は、葉菜、根菜、果樹、穀物と八百万の作物を栽培しており、牧場では牛馬の群れが終日のんびりと草を食んで順調に肥育されている。耕地に恵まれない山間部で、材木の伐採や鳥獣の狩猟に生きる人々の暮らしばかり見慣れてきたファジルにとって、夕陽を浴びて茜色に染まる果てしない農場の風景は新鮮極まりないものであった。

 山麓から平原を渡って南へ伸びるブラゲリー街道は別称を「材木街道」といい、国内屈指の林産地帯であるアーガセスから積み出された上質な木材を、クヴォール地方の中心的な都市の一つであるキグナシアまで輸送するのに重用されている。麓で雇った獣車に揺られ、街道を一路南へ下るうちに残照は消え去り、辺りが完全に闇へ没する頃、二人はコラティナという宿駅に辿り着いた。

「流石に疲れたな。今夜は此処で夜を明かそう」

 不慣れな獣車に散々揺さ振られてすっかり具合の悪くなったファジルは、路傍に屈み込んで一頻り嘔吐した後、蒼白い顔でパレミダの方針に全面的に賛同した。

「だが、余りのんびりはしていられない。事態は急を要するからな。夜明けと共に発って、キグナシアを目指す。そこから鉄道を使って、一気に帝都を目指すぞ」

「鉄道も、こんな風に気分が悪くなるものなのか」

「獣車よりは快適さ。だが、椅子や床には吐くなよ。軍用鉄道管理官は、曲がりなりにも軍人だからな。そのひ弱な顎を叩き割られかねない」

 宿駅の中心を貫く幹道に沿って連なる夜市は、大声で談笑しながら酒を呷る馭者や馬丁で賑わっていた。街道の中継地である以外に然したる存在意義を持たない鄙びた宿駅ゆえに、街中を彷徨する住人の半数は宿屋で、残りの半数は獣車屋なのである。巨大な厩舎からは引切り無しに牽獣(獣車を曳く家畜)の嘶く声が鳴り響き、風向き次第で糞尿の臭気が鼻を衝く。靴底を磨り減らして方々を歩き回り、客引きを口説いて漸く見初めた安宿の帳場にも(パレミダが路銀の節約に尋常ならざる執念を示したのだ)、蒸れた飼葉の臭いが忍び込んでいる。宛がわれた部屋は値段相応の狭苦しさで、薄らと黴の生えた板壁に、櫺子窓から射し込む月明かりがぼんやりと映っていた。

 真綿のように頼りなく力の抜けた躰を寝台に横たえ、天井の彼方此方に滲む雨漏りの大きな染みを見上げる。車酔いの後遺症は長引きそうであったが、頭の芯は不思議と冴えていた。山間の僻村では味わえない種々の風物に好奇心を覚醒させられていることだけが、その理由ではない。

「なあ、パレミダ。何で、親父は命を狙われるんだ? 少なくとも今の皇帝は、あんたや親父にとっては、敵ではないんだろう」

 素朴な疑問を口に出しつつ、ファジルは窓辺に立って夜市の喧噪に耳を澄ませているパレミダの横顔を見凝めた。

「今の帝室は、一枚岩じゃない。雷声帝の遺児であるガルノシュ・グリイスが、帝位を狙っている。その野望に呼応し、協力している連中が、軍部や宮廷に潜んでいる」

「もっと分かり易く説明してくれないか」

 重たい胃袋を引っ張り上げるようにファジルは寝台へ座り直し、胡坐を掻いた。

「ガルノシュは、本来ならば雷声帝の処刑と同時に殺されるべき存在だった。だけど、終戦当時、ガルノシュは十四歳の少年に過ぎなかった。閣下の追放に荷担した訳でも、雷声帝の悪政に関与していた訳でもない。閣下は、ガルノシュの助命を認め、王家の一員として、政務庁掌補に任じた」

 庁政の輔弼という名目で設けられた庁掌補の職位には、王族を充てるのが古来の慣例である。それは次代の皇帝に政治の基礎を叩き込む為の手段であると同時に、帝冠から退けられた王家の閑人を穀潰しの汚名から守る為の措置でもあった。

「政務庁は、行政の中枢であり、司令塔だ。二十年の歳月を費やして、ガルノシュは政務庁の業務を習得し、人脈を築き上げ、権謀術数の腕を磨きに磨いた。最初は単なる飾り物に過ぎなかったのが、政務庁の総てを掌握する実力者に変貌した訳さ。奴はもう、無辜の少年じゃない。自分の父親を処刑した政権への復讐を、成し遂げる力を持っている」

 眩暈のするような話だと、ファジルは思った。父親を殺された恨みを晴らすべく、二十年間の雌伏の末に動き出す。それほど、そのガルノシュという男の怨嗟は深いのか。

「まあ、この辺りの話は込み入っていて少し難しいだろう。帝都までの道程は遠い。この先、幾らでも話してやる時間はある。昔話は終わりだ、明日に備えて躰を休めておけ」

 ぐっすりと眠れる自信は余りなかったが、パレミダの命令に逆らう理由もない。せめてアーガセスを襲った惨劇の光景を夢に見ないようにと祈りながら、ファジルは身動ぎする度に腹を踏まれた豚のような音を立てる古びた寝台に身を横たえ、瞼を閉ざした。