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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

長崎に黒い雨が降る 山田洋次監督「母と暮せば」

映画

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今夜は山田洋次監督の新作映画「母と暮せば」について書きます。

 2015年は敗戦から70周年ということで、戦争に題材を取った映画やドラマ、ドキュメンタリーなどが目立つような気もします。この「母と暮せば」という作品も、原爆が投下された後の復興過程にある長崎市を舞台に据えて、戦時下から敗戦後の荒廃の中を生きる市井の人々の記憶を辿り直すといった結構となっています。

 例によって船橋ららぽーとにあるTOHOシネマズで鑑賞したのですが、同時に公開されているスターウォーズや妖怪ウォッチが軒並み満席となっているのとは対蹠的に、客席はたっぷり余裕がありました。主題的に、万人の関心を惹くようなものではないのでしょう。しかし実際に席に着いてみると、意外に若い女の子の観客が多くて、一体どういう訳だろう、長崎の原爆投下や戦後の困難な暮らしといったものに積極的な関心を持っているようには見えない顔触れだけれど、と驚いていたのですが、冷静に考えてみれば彼女たちは主演の二宮和也の芝居が目当てなんですね。

 しかし、二宮和也の芝居を見たくて訪れた若い観客たちは果たして、この映画の内容をどのように受け取ったのでしょうか。この作品は、所謂分かり易い意味での「映画」ではありません。もっと率直な言い方を選ぶなら、この作品は「映画であること」に失敗しているように見えました。映画というのは本来、映像そのものの表現力に総てを語らせるジャンルですが、この映画ではとにかく、登場するキャストたちの説明的なセリフが延々と続き、途中から私はラジオドラマでも聞いているような気分になりました。多くの事柄が登場人物のセリフだけで語られ、説明されるので、画面を見る必要性を感じられなくなったのです。

 これが舞台の上で演じられる芝居ならば、もう少し印象が違ったのでしょう。所謂芝居では映画のように鮮明な解像度で事物の様相を捉えることは出来ませんから、役者の動きやセリフの表現力が重要な役割を担います。舞台の上で語られるならば自然に呑み込めたかもしれない過剰なセリフの群れも、しかし映画のスクリーンで延々と発せられたのでは余りに鈍重に聞こえてしまうのです。言い換えれば、役者の存在感というか自己主張が強過ぎて、或る一つの画面としての表現の均衡が崩れ去り、ショットの有するビジュアルな存在感が蒸発してしまっているように感じられるのです。

 というような不満を覚えた私は珍しく映画館で転寝をしてしまったのですが、そのうち、これは意図的な演出であって、単なる凡庸な失敗という訳ではないと考えるようになりました。この作品には一応、大まかなストーリーラインのようなものが設定されているのですが、そこに映画的なダイナミズムは殆ど皆無であるといって差支ないでしょう。端的に言ってこの映画にはドラマティックなカタルシスなど微塵も含まれていないし、サスペンスも何もないし、只管に原爆投下に巻き込まれて死んだ息子と母の回想的な会話が繰り返されるばかりです。しかもそれらの会話は有機的に結びついて巨大な全体を作り上げ、支えているというようなものではなくて、あくまでも断片的で気紛れなものなのです。一つ一つのエピソードは、物語の本筋を際立たせるための効果的な添え物などではなく、それ自体が自立して確固たる輪郭を備えて語られており、それが何か強烈なメッセージを伝えるための伏線として用いられることは原則的にありません。細々とした、はっきり言って退屈な挿話の数々は、何かを予見させる訳でも、劇的な構成を支える訳でもなく、純粋にただ語られ、ただ映し出されるだけなのです。

 この雑然たる挿話の布置結構は、あの老練な映画監督の単なる怠慢や拙劣な編集の所産であるとは思えません。単なる怠慢にしては、余りに意図的過ぎるし、直截過ぎるからです。恐らく山田洋次監督は、この作品を撮影するに当たって、分かり易い意味での商業的な成功など慮ってはいないのではないかと、私は思いました。監督の山田洋次は固より、主演の吉永小百合二宮和也など、関わっている人たちの知名度と人気の高さゆえに本質が見え辛くなっているかもしれませんが、恐らくこの作品は根源的に「個人的な映画」であり、万人受けを狙ってもいないし、今この国で映画館に足を運ぶ観客たちの趣味嗜好など大して顧慮している訳でもないような気さえします。

 私見ですが、この映画の本質は恐らく「メモワール」であり、「遺言状」なのだと思います。この作品が目指しているのは、あくまでも長崎の原爆投下と戦後の焼け野原からの復興の時代の「生活の手触り」を再現することであり、当時の日本で暮らしていた人々の悲喜交々をなるべく丁寧に拾い上げ、リアルな映像として結実させることにあるのではないでしょうか。それは決して「太平洋戦争」や「原爆投下」などといった歴史的な事件のプロセスを物語的に再現する作業ではなく、つまり大文字の歴史を描き出すことが主眼ではなく、その時代の手触り、その時代に当たり前であった生活の感覚を生々しく克明な記録として形にすることが、最大の目的なのだと思います。だからこそ、作品の構成として断片的な挿話が明確な文脈に沿って整理整頓されることもなく、次々に映し出され描き出されるのでしょうし、登場するキャラクターが軒並み饒舌に過去の思い出を語り続けるのも、この作品が本質的に「メモワール」であって、証言の集成であって、何か明確な結論を導き出すための「演説」ではないからなのでしょう。

 恐らく監督の山田氏は、観衆を嬉しがらせ面白がらせるために、この映画を作った訳ではありません。そんなことのために映画を作るには、恐らく山田氏に残された余命は乏しいでしょうし、単なる娯楽的な作品を拵えて観客の抱え込んだ浮世の憂さを晴らすことなど、映画監督として実に膨大な時間を閲してきた彼にとっては、既に「退屈な仕事」と化しているのではないでしょうか。いや、それが言い過ぎだとしても、少なくともこの作品において、監督の創作への意欲の力点は「記憶を伝承すること」に存していると思います。それが良いとか悪いとかではなく、この映画は「そういうもの」だということです。長年「男はつらいよ」シリーズの監督を務め、来春にも「家族はつらいよ」と銘打った喜劇映画の公開が予定されている山田氏が、一般的な意味での「娯楽性」に無頓着であるとは思えません。ずっと「娯楽としての映画」を撮り続けてきた作家が、晩年を迎えるに当たって発作的に生み出した「遺言」のような「個人的映画」として、この「母と暮せば」という作品は位置付けられるのだと思います。

 「遺言」や「回想」が娯楽的でないからと言って非難するのは御門違いですよね。この映画で描かれる「戦後の長崎」の風景に黙って視線を注ぎ、登場する役者たちの饒舌な「回想」に耳を傾けるのも、貴重な映画的経験であると言えるでしょう。

 以上、船橋からサラダ坊主がお届けしました!