サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「自由」よりも「隷属」を欲する 谷崎潤一郎「春琴抄」をめぐって(マゾヒズム的欲望について)

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 昨年の暮れ、安部公房の「砂の女」という小説を巡って下記の記事を綴りました。 

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 安部公房の代表作である「砂の女」という著名な小説について、「自由」という切り口から漫然と考えてみた訳ですが、その中でもう一つ思い浮かんだのが、今回取り上げる谷崎潤一郎の「春琴抄」という癖の強い作品です。もともと、この作品についても「自由」という切り口から書いてみようと何となく考えていたのですが、下記のエントリーを書いているうちに「マゾヒズム」という観点から綴ってみるのもいいなと思い始めました。

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  いずれにせよ、サディズムマゾヒズムの問題(支配=被支配を巡る欲望)と「自由」という観念を巡る問題との間には、不可分の結びつきが介在しています。上記のエントリーでも述べた通り、サディズムという精神的形態には誰かを「支配すること」への欲望が渦巻いています。誰かを「支配すること」そのものから、独自の快楽を汲み出すことに執着するのがサディズム的精神の根本的な特徴であり、そこでは「支配すること」が手段ではなく、最大の目的と化しています。

 「自由」であることは、そのような支配=被支配の枠組みからの離脱を意味しており、単に誰からも支配されないということに留まらず、自分自身が誰のことも「支配しない」ということによって初めて達成され得る境地です。ですから、サディズムは本質的に「自由」と背馳する概念であり、もっと言えば「自由」に対する欲望の歪んだ発現の形式であると定義することも可能かもしれません。

 「自由」というものには様々な形態が有り得ると、安部公房は自註の言葉を通じて読者に、或いは世間に示唆しました。その言種を敷衍するならば、サディズムもまた「自由」の一つの様式なのだと言えるのではないでしょうか。サディズムは「他者性の否定」を通じて、全的な「自由」の実現を達成しようとする欲望であると定義してみるならば、一見すると対極的な概念である「自由」と「支配」との間にも、実際には複雑な「密通」が生じているのではないかと疑ってみることも可能になるのです。結局は、自由というものに対する衝動の形式が様々な変態を選択し得る結果、サディズムなどの派生的な精神の様態を生み出すことになるのではないでしょうか。

 胎児の段階では、人は全面的な拘束の中にありますが、それも捉え方次第では「自由」だと言えなくもないでしょう。自由ということを「他者性の否認」という形式で捉えるならば、胎児は母親の肉体に全面的に依存し、拘束されることで、いわば「自他の分別」を一切持たない状態に留まることによって、逆説的な「自由」を実現出来ていると看做すことも不可能ではないと私は思います。安部公房が「砂の女」やその他の著作を通じて「自由の諸形態」を解剖したように、自由というものへの憧憬が備え得る存在の形式は実に多様なのです。

 前置きが長くなりましたが、今回取り上げる谷崎潤一郎の「春琴抄」という作品には、自由よりも隷属を欲する佐助という男が登場します。彼は琴の名手である春琴の弟子として、或いは「下僕」として立ち働くことに無類の情熱を注いでいます。性来の美貌ゆえに極めて気位が高く、驕慢な姿勢を少しも崩そうとしない春琴と、その高圧的な支配に従うことに何の疑問も覚えないばかりか、寧ろ積極的に溺れていこうとする佐助との特異な関係性は、素朴な意味で「支配すること」と「支配されること」の奇妙な快楽の象徴的な光景であると言えるでしょう。ここには「他者性の否認」という問題が明確に浮き上がっており、実際に驕慢な春琴は佐助の人格や尊厳を荒々しく踏み躙ることに何の痛痒も感じておらず、また佐助が春琴に寄せる病的な思慕と賛美にも、まるで「神」を崇めるかのような盲目的な情熱が含まれていて、一般的な意味での「他者」として彼女を見ているとは思えません。言い換えれば、二人の関係性には適正な「距離」が欠如しており、そこに生じる奇妙な悦楽は(それが悦楽であると明示されている訳ではありませんが)、所謂「自由」への憧れとは一見すると対蹠的なものであるように感じられます。

 佐助は春琴の忠実な奴隷のように振る舞っていますが、その純粋な隷属の徹底は常軌を逸したものであり、一般的な意味での「理性」を欠いた態度であるように見受けられます。佐助は恐らく春琴のことを一人の「具体的な女性」として捉えているのではなく、殆ど宗教的とも呼び得る特殊な美化の対象として崇めています。この異常な「賛美」は一体、何に由来する現象なのでしょうか。

 当ブログは素朴な私見の集積に過ぎないので、学術的な精確性を求められても困りますが、敢えて暴論を辞さないとすれば、あらゆる宗教的信仰には「無私」という倫理が備わっています。絶対的な上位者の君臨を想定し、それを信じ込むことで私的な自我を抹殺しようとする衝動が、過度に強化された宗教的情熱の根底には刻み込まれているのです。あらゆる宗教は絶対的な存在としての「神」を認めて崇めるがゆえに、多かれ少なかれ「個我の否定」を重要なプロセスとして内側に含みます。

 普通、個我の否定とは即ち「自由の否定」であるかのように受け取られがちですが、厳密にはそれも「自由」に対する憧憬の形態の一つであると私は思います。個我の否定、つまり「わたし」という存在を空白化していくことは、例えば仏教の重要な一部門である禅宗においては「悟り」そのものです。言い換えれば、仏教の先鋭的な考え方においては、「わたし」という自意識そのものが精神の自由を妨げる邪悪な「監獄」だということになるのです。そういう小さな「わたし」という自意識に囚われることなく、徹底的な修行を通じて「無我」の境涯に達することが、古くから仏道の崇高な目的として掲げられてきました(と思います。あくまで私見ですので悪しからず)。

 このような宗教的情熱は総て「絶対者に帰依すること」を媒介として「自己」を解体し、いわば「世界との融合」を成し遂げることによって普遍的な幸福へ至ろうとする手続きに向けて注がれていると私は思います。それが近代的な「自由主義」や「個人主義」の理念と背反するものであることは言うまでもありません。「絶対者への帰依」による「自己の否定」は、自己の確立と発達を称揚する近代的な進歩主義の理念とは根本的に相容れないのです。もっと言えば、そのような近代的進歩主義自由主義の運動は、古来の宗教的価値観に対する重要な批判として提起されてきたのではないでしょうか。

 例によって話が右往左往して申し訳ないのですが、もう少し続けます。佐助が春琴の驕慢で理不尽な「試練」に只管耐え抜くばかりか、その忍耐というか「受苦」に歓びさえも見出しているように感じられるのは、前述したような宗教的信仰の構造と現象的に類似しています。共通して言えることは、それらが母親の胎内にいるときのように、大いなる絶対的存在に呑み込まれ、併合されることによって「絶対的な安息」を確保しようとする「未生への欲望」を孕んでいるということです。 

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 上記のエントリーで取り上げた中身とも関連しますが、そのような「未生」の段階に対する憧憬のような感情は、過酷な外界の現実に打ち拉がれた魂が求める一つの「幸福の象徴」であると言えるでしょう。「自由」が残酷な刑罰であるとするならば、彼らにとって「自由の抛棄」は大いなる祝福、大いなる恩寵以外の何物でもありません。フロイト風に言えば「死の欲動タナトス」ということになるでしょうか。それは「自己の解体」を通じて揺るぎない「安息」に至ろうとする衝動であり、その歴史は恐らく非常に根深いものがあります。

 佐助が顔に怪我を負って性来の美貌を損なわれた春琴の姿を見ないようにするために、自らの眼球に針を刺して失明することを選ぶ場面は、この「春琴抄」という作品における白眉であるかと思いますが、ここまでして「春琴」という存在の絶対的な崇高さを維持しようと努める佐助の姿勢には、単なる「愛情」の問題として扱い難い異常性があります。彼にとって客観的な「現実」など一文の価値もなく、重要なのは「神の実在」を信じること以外に何もないかのようです。この徹底的な隷属の姿勢は紛れもなく「自己の解体」であり「私の否定」です。

 イスラム原理主義の過激派組織に連なるテロリストたちが「ジハードの大義」を信じて自滅的な暴力に颯爽と赴いていくのも、同様の精神的事態が関わっているのではないかと私は思います。彼らは「自己」の価値など認めておらず、絶対的な存在に帰依し、その「正義」のために総てを捧げることによって「究極の安息」を獲得しようと努力しているのでしょう。敬虔で保守的な信者が「聖書」や「クルアーン」の無謬性を信じて疑わないのも、誤謬を見出すことが「神の絶対性」を損なってしまうからでしょう。「神の絶対性」が損なわれるということは直ちに「安息の絶対性」が損なわれることを意味するのですから、彼らが妥協も譲歩も選べないのは論理的必然です。

 これらの衝動の形式を「マゾヒズム」という言葉で呼ぶのが適切なのかどうかは分かりませんが、自己の「自由」を否定し、葬ることで不動の「安息」を手に入れようとする衝動が、近代的な市民社会の原理とは異質な伝統であり、或る意味では「反動的な系譜」に連なるものであることは明白です。このような症候が蔓延する背景に、世界を覆い尽くす無数の「不条理な悲劇」が存在することも、同様に確かでしょう。ですから、こうしたマゾヒズム的情熱の発現と亢進が「不条理な世界に対する適応」の結果であることを、賢しらに批判することは誰にとっても不可能です。近代的な市民社会の原理では対処することの困難な「世界の側面」と向き合うことを強いられた人々の不幸が、こうした宗教的な欲望(「未生」への欲望)を喚起している以上、宗教そのものを批判することは問題の抜本的な解決には繋がらないからです。

 相変わらず中途半端ですが、今日はここで擱筆します。

 船橋からサラダ坊主がお届けしました! 

春琴抄 (新潮文庫)

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