サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「意味」の向こう側 小説は何故「描写」するのか?

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今晩も何の需要があるのか分からない個人的な文章を書き殴ります。

 

 世の中には無数の「小説」と呼ばれる文章の塊が氾濫しており、それは作者の流儀や気質や主義主張などに応じて実に多様な生態系を構築しています。何となく「虚構の物語」くらいの漠然とした定義しか持ち合わせていない方が世の過半を占めているのが現実だと思いますが、この「小説」の定義という奴は案外、厄介な難問であり、厳密に考え始めると何が何やら訳が分からなくなってしまうものです。それは普通の文章とは何が違うのだろうかと自分自身に問い掛けてみると、真っ先に思い浮かぶのは無論「フィクション」であるということなのですが、それだけでは「小説的な文章」の本質を見事に穿ったような気分には生憎なれません。

 例えば「描写」という機能が小説という営為には殆ど不可分の要素であるかのように組み込まれています。無論、フィクションの世界をリアリスティックに読者に感受させるための手立てとして、精細な言語的描写によって「世界のイメージ」を立ち上がらせ、浮かび上がらせるというのは一見すると当たり前の話のように聞こえます。何の不思議もないじゃないかと思われるかもしれません。しかしながら、実際にはこれは少しも当たり前の話ではなくて、そもそも延々と積み重ねられる「描写」という文章は往々にして退屈であり、余程熱心な読者でなければいい加減に読み飛ばすのが巷間の通例でしょう。写真に撮るなり絵に描くなりすれば一瞬で掴み得るような内容の対象を、言葉の力で厳密に浮き上がらせようとして、冗長なセンテンスを幾つも幾つも煉瓦を積むように組み上げていくのは、書く側にとっても読む側にとっても深甚な徒労のようなものなのです。

 仮に小説が何らかのメッセージやテーマを読み手に伝達するために綴られ、構成されるものであるとしたならば、殆どの描写は過剰であり非効率的であるということになるでしょう。よく言われることですが、小説家にとって「作品」というのは何らかの具体的なテーマやメッセージを、つまり作者の言いたいことを過不足なく伝えるためのメディアではありません。当然と言えば当然の話ですが、単純に自分の持っている考えや意見を開陳することが目的で筆を執るのならば、架空の舞台を拵えて架空の人物を造形し、架空の筋書きを組み立ててそれを文章に起こすという風な迂遠な手段をわざわざ選び取る必要性は皆無です。もっとスマートに、論理的に、抽象的であったり概念的であったりするような言葉を用いて、淡々と思うところを述べればよい訳で、だったら小説というジャンルなど経由せずに、このブログのように随筆的に言葉を書き連ねていけばよい筈です。何らかの明確な「意味」を告示するためなら、小説的な文章のスタイルに縛られる義理など何処にもないのです。にもかかわらず、何故人は「小説」を書こうとするのでしょうか。少なくとも歴史上、世界には「小説」という言語的様式に異常な執着を懐く「作家」が無数に存在してきましたし、今でも存在しています。彼らは自分の私的な見解を社会に向けてアピールするときには、そのための文章を書き綴り、開示します。村上春樹だって、気合の籠った長篇小説の創作に情熱を燃やす一方で、割と脱力したような印象を受けるエッセイの数々も草しています。小説もエッセイも同様の働きを示すものであるならば、こうした「使い分け」に意味などありません。しかし、両者は明らかに相互的に異質な原理に則って作成されています。だとしたら、小説には小説固有の、エッセイにはエッセイ固有の役割や意義が存在している筈です。

 私が最近思うのは、優れた小説の条件というのは「単一な論理では指し示すことの難しい感興」を読者に与えるものではないか、ということです。これだけでは抽象的で何のことやら分からないと思いますので、もう少し敷衍してみます。例えば大江健三郎の「芽むしり仔撃ち」にしても、村上春樹の「ハンティング・ナイフ」にしても、そこには様々な登場人物の声が響き合い、作者の特異な語り口が複雑に東奔西走している訳ですが、それらの文章を読み進めることで得られる「経験」の総体は、そう簡単に要約し得るものではありません。無論、何らかの切り口を見つけて、それを導きの糸として作品に「解釈」を加えることは誰にでも可能ですが、そうした解釈の一つ一つが「作品の本質」というものに一気呵成に到達することなど絶対に有り得ない筈です。仮にそう簡単に「作品の意図」やら「作品の目的」やらが把握し得る小説があるとしたら、それは小説というものの定義上「駄作」の烙印を免かれないのではないかと思います。

 小説の執筆は恐らく「意味を求める」こととは正反対の営為であり、何らかの具体的な輪郭を備えた「意味」を架空の物語に「仮託」することで読者に伝えようとするものではありません。何故「描写」が必要なのかという問いも煎じ詰めればここに帰着するのですが、小説というもの(或いは広く芸術と呼び換えてもいいです)は本来、何らかの「意味」と一義的に結びつけられるべき言語的様式ではありません。それは寧ろ「意味」に先立つ何かをそのまま克明に浮かび上がらせるための手続きであって、言い換えれば芸術によって開示されるのは「意味」ではなく、その向こう側に広がる「意味の原郷」のようなものではないかと思うのです。

 誤解を招きかねない言い方ですが、「意味の原郷」は確かに「意味」に先立つものであり、従ってそれを開示しようとする総ての芸術的な努力が単純明快な「意味」の体系から隔たっていくのは当然です。無論、だからと言って芸術がいかなる意味も持ち合わせない、身勝手なダダイズムの奔流のようなものだという訳ではありません。それは決してシュールレアリスムにおける自動書記のような「意味の破壊」を指すものではなく、あくまでも新しく宿ろうとしている「意味」の先駆的な形態を捉えようとする人間の運動なのです。言い換えれば、芸術の使命とは「意味」そのものを露骨に明示することではなく、まだ「意味」として明瞭に確立されていない先駆的な「意味」、或いは原初的な「意味の萌芽」を捉え、或る知覚の塊として提示することに存するのではないかと思うのです。

 小説というジャンルにおいて「描写」が重要な役割を担っているのも、小説が本来「未だ誰によっても開示されていない『意味』の先駆的形態」を描き出すための手続きだと看做すことが出来ます。例えば谷崎潤一郎が「春琴抄」を書いたのは決して「マゾヒズム的な性愛」という「観念=意味」を読者に伝えようとしたからではありません。彼はそのように明確に定義された対象を具体的な形象として構築したかったのではなく、単純に「定義され得ないもの」に、つまり「意味」として認められないような曖昧な「何か」に姿形を与えるために、延々と文字をしたため続けたのではないでしょうか。

 

saladboze.hatenablog.com

  少しずつ問題の核心というか「在処」が見え始めてきたような気がします。小説が「描写」という間接的で迂遠な語法を用いるのは、小説というジャンルが捕捉しようとしている対象が「意味」としての輪郭を持っていないからではないでしょうか。昔、川上弘美さんのエッセイを読んでいて、記憶には「意味記憶」と「エピソード記憶」の二種類が存在しているという話にぶつかったことがありましたが、これは正しく「意味」と「非意味」の対照性とも符合する見解でしょう。何らかの具体的な定義、明示された対象、確定された範囲ではなく、素性の知れない曖昧模糊とした「何か」、いわば「未だ名付けられていない何か」に具体的な輪郭を授け、「意味の原郷」として整備することが「小説的思考」の本質的な責務なのではないでしょうか。

 一言で要約し得る「小説」は凡作に過ぎないというのは耳慣れた一般論というか常套句であり、だからと言って「訳の分からないもの」を書けば直ちに傑作の称号を拝受出来るというものでもありません。重要なことは、小説の本質が「世界を再現すること」に存しており、決して「世界を解釈すること」ではないのだ、という点にあります。「これには一体どういう意味があるのだろう」と考え込むのは熱心な読者の役目であって、優れた小説家は「作品の意味」など分析する筋合いはありません。これは小説に限らず、あらゆる「芸術」に共通して言えることでしょう。芸術の目的は「再現」であり、それは特定の「意味=観念」に奉仕するための被造物ではないのです。「再現すること」そのものへの欲望が芸術家の活動を支える原動力なのであり、そこで彼是と理屈を捏ね始めてしまうような人間は、芸術家という生存の様態には適合しないのです。

 相変わらず抽象的な文章ですが、要するにこれは自省の文章です。私の精神的な構造が「小説を書く」という営為には適していないのではないかという仮説の下に綴られた、極めて個人的な覚書に過ぎません。あらゆる事物に膏薬のような「理屈」を貼り付けようとする私の習性は「世界を再現することへの苛烈な欲望」とは縁遠いような気がします。私の書く小説にはいつも「理屈っぽい解釈」が横溢していますから。

 以上、船橋からサラダ坊主がお届け致しました!