サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「血」が騒めき、吠え立てる 中上健次「岬」について

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 本日は癌で早世した作家、中上健次の出世作「岬」について書こうと思います。

 

 戦後生まれの作家として初めて芥川賞の栄誉に輝いたこの作品は、和歌山県新宮市で生まれ育った中上氏の故郷をモデルとして綴られたもので、複雑に絡み合う「血縁」の問題を巡って物語は進んでいきます。

 私が初めて中上健次という作家の存在を知ったのは恐らく、柄谷行人氏の著作が契機であったのではないかと思います。それまで、この作家の文業について完全なる無知であった私は、その独特な出自や生前のゴシップめいた挿話の数々に惹かれ、作品に実地に当たってみる前から根拠の曖昧な憧憬を募らせたものです。ところが書店を巡ってみても一向に代表作である「枯木灘」が見当たらず、止むを得ずインターネットで注文したことを覚えています。今でもその本は、私の小さな書棚に陣取っています。

 「岬」という作品は、有力な文芸評論家であった江藤淳の絶賛を受け、中上氏の盟友である柄谷行人氏によっても傑作として讃えられています。しかし、私自身は必ずしも中上氏の誠実な読者でも優れた理解者でもなく、熱狂的な信奉者を名乗る資格すら持ち合わせていません。最初に取り組んだ「枯木灘」も、社会人になってから買い求めた「地の果て 至上の時」も、ドキドキするような興奮や陶酔とは無縁のまま、中途半端なところで通読を諦めてしまいました。ですから、こうして中上健次氏の文業について何かを書き綴るのは本来僭越な行為なのですが、誰に叱られる筋合もない訳ですから、遠慮なく駄文を垂れ流したいと思います。

 中上氏の独特な文学世界、その物語空間は、彼自身が生まれ育った故郷、和歌山県新宮市の独特の環境的諸条件によって培われ、作者にとって逃れ難い十字架のような存在と化していました。直截に言ってしまえば、彼が生まれ育った町は新宮市に古くから存在する被差別部落であり(作者自身は「路地」という言葉で故郷を呼称しています)、その特異な環境において、複雑極まりない血縁関係の中で成長したことが、彼にとって生涯の重要な「問題」となったのです。

 無論、部落差別の実態に関して恐ろしいほど無知で無学な私が、そうした条件から彼の文学の特質について語ったり解き明かしたりすることなど不可能です。あくまでも「岬」という作品を通じて剔抉されている事象に関して、独善的な私見を述べようと思います。

 この作品は、複雑な家庭に育った男が、実父の「影」に絡みつかれる息苦しさに喘ぎながら、最終的に義理の妹と交わることで、その不快な「影」に対する復讐を試みるという風な筋書きなのですが、恐らくこうした物語的構造を要約するだけでは、「岬」という作品の内部に醸成されている独自の「感覚」を浮き上がらせることは出来ないでしょう。

 「平凡」と呼ぶに相応しい典型的なサラリーマンの家庭に生まれ、ドラマティックな苦悩など知らずに成人した私のような人間にとって、「岬」の主人公である秋幸が味わうような閉塞的な鬱屈を理解したり、その懊悩に共感したりすることは極めて困難です。複雑な家庭環境というものを見聞する機会はあっても、実際に自分が当事者として、そのような泥沼の因縁に巻き込まれながら生きることはない訳ですから、どうしたって理解度は伸び悩むに決まっています。ですが、だからこそ読む意義があるのだとも言えますし、想像力の鍛錬にも繋がるのだと言えます。

 作品自体は淡々と語られていき、複雑極まりない血縁の問題とは裏腹に、寧ろ冷淡なほどに温度の低い文章が、この「岬」という作品の基調を形作っています。しかし、それは言い換えるならば「封じられた激情」の裏返しであって、いわば「暴発寸前の静寂」のようなものとして形象化されているのです。実際、作中では身内で殺人が起こり、彼の義姉は精神的な衝撃を受けて体調を崩してしまいます。ですが、そのこと自体が彼=秋幸の鬱屈を惹起する訳ではありません。彼が敵対し、呪わしく忌まわしく感じているのは「路地」と呼ばれる閉鎖された時空の内部で延々と累積され、濃縮された「地縁=血縁」の強固な共同体であり、その度し難い「因縁」の根深さなのです。

 土方は、彼の性に合っている。一日、土をほじくり、すくいあげる。ミキサーを使って、砂とバラスとセメントと水を入れ、コンクリをこねる時もある。ミキサーを運べない現場では、鉄板に、それらをのせ、スコップでこねる。でこぼこ道のならしをする時もある。体を一日動かしている。地面に坐り込み、煙草を吸う。飯を食う。日が、熱い。風が、汗にまみれた体に心地よい。何も考えない。木の梢が、ゆれている。彼は、また働く。土がめくれる。それは、つるはしを打ちつけて引いた力の分だけめくれあがるのだった。スコップですくう。それはスコップですくいあげる時の、腰の入れ方できまり、腕の力を入れた分だけ、スコップは土をすくいあげる。なにもかも正直だった。土には、人間の心のように綾というものがない。彼は土方が好きだった。

 このような「労働の賛美」が字義通りの意味ではないことは明白です。彼が求めているのは「労働の喜び」というよりも、いわば「人間」という存在を無化し、解体してしまうような「自然の冷淡さ」に対する麻薬的な憧れなのです。それは「絡み合った血縁」によって四方八方へ小突き回されずにはいられない自分の「呪わしい境遇」に対する嫌悪と表裏を成しています。彼は何も考えたくないし、何にも煩わされたくないという切実な感情を生きています。その背景には、今は共に暮らしていない、悪評に塗れた「実父」の存在が深く関与しています。

 もろい、どちらか一人が踏みはずせば、壊れてしまう家だった。敵には強かった。しかし、そんなものは嘘だ。嘘の家など必要ではない。いや、もともと家など要らない。彼は思った。離れの彼の部屋にはいった。おれは、母だけの子だった。父などなかった。いま母にむかって、彼は、おれの兄と姉を元に戻せと言いたかった。兄も姉たちも、母の子であることに変りない。あの男の顔を思い出した。あの男の声を思い出した。あの男が、自分の何ものかであることは確かだった。だが、父とは呼びたくない。一体、おまえたちはなにをやったのか? 勝手に、気ままにやって、子供にすべてツケをまわす。おまえらを同じ人間だとは思わない。おまえら、犬以下だ。もし、ここにあの男がいるものなら、唾をその顔に吐きかけてやりたかった。あの男は、絶えずおれを視ている。子供の頃から、その視線を感じた。その眼を、視線を、焼き尽したい。彼は部屋の中を歩きまわった。壁を蹴った。この手にも、この足にも、あの男が入り込んでいる。

 この凄まじく強烈な「憎悪」が、手前勝手に交わって次々と子種を宿し続ける「親」に向けられているものであることは言うまでもありません。もっと言えば、ここには「生殖の原理」に対する拭い難い「憎悪」が噴き上がっているのです。そして、どう足掻いても、そのような「血の因縁」からは逃れられないことに、彼は堪え難い苛立ちを覚えています。次から次へと引き摺られるように、彼は厄介な事件に巻き込まれ、身内の諍いや問題に振り回され、少しずつ消耗しながら同時に「膨張」していきます。その「膨張」とは要するに「暴発の予兆」です。

 さっきまで、町を歩きまわっていた。明日から仕事に出る、そのために新しい地下足袋を買う必要がある、と母に言い、外に出たのだった。彼は一人になりたかった。息がつまる、と思った。母からも、姉からも、遠いところへ行きたいと思った。あの朝、首をつって死んでいた兄からも自由でありたかった。すぐ踏み切りに出た。一本立っているひょろ高い木の梢が、揺れている。自分は、一体なんだろうと思った。母の子であり、姉の、弟であることは確かだった。だが、それがいやだった。不快だった。姉たちとは、片方の血でしかつながっていないのも確かだった。姉たちの父親は、彼には、父親ではない。弦叔父は彼の、叔父ではない。かくしても、とりつくろっても、それは本当のこととしてある。彼は歩いた。その男と出会う事を、願った。姉に、死んだ父さんがあるように、彼にもある、人間だから、動物だから、雄と雌がある。雄の方の親がある。その雄と決着をつけてやる。いま、自分の皮膚を針ででも突つくと、そこから破け、自分がすっかり空になりそうだ。切って、傷口をつくって、すべて吐き出してしまいたかった。彼は、昂っていた。酷いことをしでかして、あいつらに報復してやる。いや、彼が、その身に、酷いことを被りたかった。どこを歩いているのか見当がつかなかった。

 ここには「家族」という擬制への尽きせぬ憎悪があり、「血縁」に縛られることへの凝縮された反発が滾っています。彼は「血」によって訳の分からぬ因縁や宿業へ引き摺り込まれることにも、そうした「血の因縁」そのものが原因となって発生する諸々の不幸な悲劇にもすっかり倦み果てているのです。生殖の原理によって強制的に結びつけられた人間同士の関係性が常に幸福なものであるとは限らないのは自明ですが、にもかかわらず、そこから逃れるという選択肢が存在しないことに、彼は「息がつまる」ような思いを抱え込んでいます。そして彼が終盤に犯す「近親相姦」という罪は言うまでもなく、世界中の血縁的共同体において禁忌として定められている「重大な罪悪」であり、とんでもなく「酷いこと」です。彼は自覚的にその「罪悪」を演じることで、不朽の秩序として信奉され続け、永久的に堅持されようとしている「血縁」のシステムを破壊しようと試みるのです。

 この女は妹だ、確かにそうだと思った。女と彼の心臓が、どきどき鳴っているのがわかった。愛しい、愛しい、と言っていた。獣のように尻をふりたて、なおかつ愛しいと思う自分を、どうすればよいのか、自分のどきどき鳴る心臓を手にとりだして、女の心臓の中にのめり込ませたい、くっつけ、こすりあわせたいと思った。女は声をあげた。汗が吹き出ていた。おまえの兄だ、あの男、いまはじめて言うあの父親の、おれたちはまぎれもない子供だ。性器が心臓ならば一番よかった、いや、彼は、胸をかき裂き、五体をかけめぐるあの男の血を、眼を閉じ、身をゆすり声をあげる妹に、みせてやりたいと思った。今日から、おれの体は獣のにおいがする。安雄のように、わきがのにおいがする。酔漢なのだろうか、誰かが遠くで、どなり叫んでいるのが彼にきこえた。苦しくてたまらないように、眼を閉じたまま、女は、声をあげた。女のまぶたに、涙のように、汗の玉がくっついていた。いま、あの男の血があふれる、と彼は思った。 

 この衝撃的な絶唱のような文章は、彼が復讐のために「血族」というシステムを破壊する「罪人」に転身したことを明確に告げています。「獣のにおい」という言葉に象徴されるように、彼はインセスト・タブーを犯すことによって「家族」の瓦解を惹起しようとし、それによって「人間の条件」からの逸脱を図りつつあります。それは労働を通じた「自然との交歓」によって目指された「空っぽ」の状態への憧れと同期しており、かつて坂口安吾が「風と光と二十の私と」の中で追究したように、そのような「自然との交歓」は「人間的なもの」の否定と一体的に存在し、機能します。人間であることは「苦しむこと」だと、坂口安吾は高らかに宣言しました。その説教を踏まえるなら、秋幸は「血族」というシステムの崩壊に手を貸すことを通じて、いわば「人間的なもの」からの遁走を企てているのです。 

saladboze.hatenablog.com 

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 自然との融合は、人間の精神に絶対的な安息を齎しますが、坂口安吾はそれが「人間的なもの」に対する深刻な「欺瞞」であることを毅然と喝破しました。そして、近親相姦を媒介として「血族」というシステムの打倒を目指した秋幸の意図は後に「枯木灘」において、浜村龍造との直接的な対決の局面において、呆気なく「失敗」に帰結してしまいます。

 長くなりました。今夜はここまで。いずれ坂口安吾についても、もう一度書いてみたいと思います。

 深夜の船橋から、サラダ坊主がお届けしました!

 

岬 (文春文庫 な 4-1)

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