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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「著作権」という商業的思想=ルールについて

社会

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今朝、スターバックスでコーヒーを啜りながら、はてなブログのトップページを眺めていたら、はてなダイアリーの記事において2000件以上の歌詞の無断転載が行われているということで、JASRACから削除依頼が来ているという話が載っていました。これは他人事ではないなと思ったので、こうして筆を執った次第です。

 楽曲の歌詞に限らず、例えばこのブログでも同様ですが、書評の記事なんかで作品の一部を引用するということは世間的に広く行われていますし、ネットの世界に限らず、著作権の問題というのは常に喧しい議論の対象となることの多い案件であると言えるでしょう。ブログなどのSNSが隆盛するに伴って、無名の個人による情報発信のハードルが非常に低くなっていることもあり、こうした問題は今後益々増えていくのではないかと思います。

 勿論、所謂クリエーターと呼ばれる人種に属する方々、それが小説家であろうと映画監督であろうと音楽家であろうと何でも構わないのですが、そういった人々が何らかの「著作物」を拵えて、それで生計を立てていこうと思うとき、著作権が法律によって保護され、然るべき強力な団体によって守られているというのは、とても重要なことでしょうし、安心にも繋がるでしょう。ですが、本来あらゆる「著作物」というのは、不特定多数の人々に向かって公開され、訴えかけられるものであり、一人でも多くの「理解者」を得ることを目的として世の中に提示されている筈です。それを「著作権保護」の観点から囲い込み、不特定多数の人々の眼に触れる機会を積極的に削減するというのは、一見すると本末転倒のような気もする事態です。

 純粋に営利目的で作成された著作物が、著作権法の遵守に固執するのは当然の成り行きですが、そもそも著作というのは、より厳密に言えば公開を前提とした著作というのは、広く世界の人々の耳目に触れることが大切な訳で、儲からないから公開しない、利益を損なうから公開しないというのは、所謂「芸術的創造」の原理とは全く異質なビジネスの仕組みです。つまり、著作物というものを商材として行われるビジネスの観点から眺めれば、今回のJASRACのような措置は至極当然の判断ということになります。しかし、より多くの人々の理解を得たいという承認欲求の観点から見れば、今回のような措置は果たして幸福な判断だと言い得るのでしょうか。

 はてなダイアリーの記事において発生した2000件以上の楽曲の歌詞の無断転載が、どのような目的で行われているものなのか、私は詳細を把握していませんが、その中には楽曲への愛情から、それを一人でも多くの方々に知ってもらいたい、愉しんでもらいたいという思いゆえに、歌詞の転載に踏み切った投稿者も少なくないでしょう。そのような情熱的なフォロワーが存在するということは普通に考えて、その著作物を生み出した人々にとっては幸福なことであり、彼ら彼女らの存在は掛け替えのない貴重な宝物ではないかと思います。また、それらの無断転載を通じて楽曲の魅力に触れ得た人々が発生する可能性も少なくないでしょうし、もっと言えば或る「作品」を巡って、活発な議論や意見交換が行われ、盛り上がるということは、著作物を巡る現実としては最大の「幸福」ではないでしょうか。そのような現象を生み出し得る環境を「契約違反」という理由から一挙に整理整頓してしまうのが「著作権保護」の本義に値する行為なのか、私は疑問だと思います。

 もっと言えば、何かを生み出したり作り出したりすることは、それによって金を儲けるという話とは本来的に異質な領分なのであり、著作権保護というのが前述したような問題を孕むことになってしまうのは、本来異質な両者を組み合わせたことによって生じる「ねじれ」なのだと思います。だから両者を切り分けろとは思いませんが、本来「創造」と「商業」が別々の領分に属する営為であることは、もっともっと世間的な常識として認知されるべき事柄でしょう。それを踏まえずに安易に混同してしまうから、つまり小説を書いたり映画を撮ったり音楽を奏でたりすることが「立身出世の手段」であるかのように錯覚してしまうから、議論が錯綜してしまうのです。生み出すこと、作り出すこと、創造することは本来、それ自体が快楽であり目的なのであって、それが何らかの経済的な利益を齎すかどうかは全く異質な次元に属する問題です。一銭の儲けにもならないとしても、何かを創造せずにはいられなくなるのが、所謂クリエーターの本性というものであり、金儲けに差し障りがあるなら、こんな作品は作りませんというのは、クリエーターの本性とは完全に無関係な基準に則った判断です。

 例えば私自身を振り返ってみても、「小説を書きたい」という願望と「小説家になりたい」という願望が渾然一体と融け合ってしまっていることに何の疑問も懐かないことが多々ありました。小説を書きたいとは特に今は思わないけれど、小説家になる為には書かない訳にはいかない、と思い直して、パソコンの電源を入れた経験も幾度もあります。けれど、これって本当は奇妙に捻じれた話だと思いませんか? 小説家になるというのは、小説を書くことで生計を立てられるようになるということであって、それ自体は「小説を書くことへの欲望」とは一切関係がありません。小説家に限らず、栄達を夢見るだけの大半のクリエーター志望者たちは、創造することを単なる「手段」の地位に貶めて平然としているように見受けられます。金が儲けたいのか、創造することへの欲望に身を焦がしたいのか、それらが別々の問題だということを理解しているのか、非常に疑問だなと、我が身を省みても強い違和感に囚えられることが一再ではありません。

 誤解して頂きたくないのですが、私は決して金儲けを否定しているのではありません。実際、私は小売業に従事して日々、売上を確保することばかりに頭を使い、躰を使っていますし、そのことにささやかな矜りさえも懐いています。ですが、或る作業なり営為なりを商業的な利益の源泉として構造化し、一つの「職業」として成立させるための戦略的な思考の問題と、その営為自体への個人的な執着というものは、区分して捉えないと話が混乱してしまうということを申し上げたいだけなのです。或る「職業」に従事すること自体には「愛情」は要りませんが、何かを「職業」として成立させるための苦難に堪え得るためには絶対に「愛情」が不可欠です。

 今宵も長々と駄文を書き連ねました。本日の営業は、そろそろ終了します。

 船橋からサラダ坊主がお届けしました!