サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「極楽の専門家」であること 武田泰淳「異形の者」について

  どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 本日は武田泰淳(1912-1976)の小説「異形の者」について書きます。この奇妙な小説を初めて繙いたのは既に何年も前の話なのですが、何度開いて読んでみてもすっきりと呑み込めない細部が豊富に含まれていて、随分と手強い作品だなという印象を今日に至っても尚、私は持ち続けています。簡単に言ってしまえば、これはかつて僧侶であり、今は恐らく還俗したと思しき「私」の極めて個人的な回想という体裁を取っているのですが、伏流している内在的な論理を丁寧に辿ろうと努めても、知らぬ間に振り払われて困惑の深淵に突き落とされてしまうような独特の性質を孕んでいます。

 すでに俺は俗人ではない、と私は感じた。女を抱き、家庭をつくり、名を挙げ、国力を増進し、この世に於て栄える一般人とはかぎりなくへだたり、もはや、二度とふたたびその仲間入りはできなくなった。今日以後、私は人間でありながら人間以外の何ものかであるらしき、うす気味わるい存在である。見よ。先刻までは愛想よく、神経質なまでに何度も、柱にぶら下げた磨皮で日本剃刀をといでいたおやじも、今はジッと立って、鏡にうつる私の青々した頭に、水族館の水槽の片隅に忘れられ、死にかけたタコを眺めるような視線を投げかけている。

「よろしい」と、私は何物へともなくつぶやいた。 

  この作品の表題に掲げられた「異形の者」とは僧侶のことで、俗世間の論理から遠く隔てられた特殊な存在としての「極楽の専門家」を巡る小説であると、一先ずは要約することが可能でしょう。しかし、そのような要約だけでこの複雑で難解な作品の本質を言い当てたと錯覚することは出来ません。作中で描き出される僧侶たちの、およそ求道の峻烈さとは無縁な腥い生態を捉えて、これは僧侶というものの表面的な聖性の裏側に秘められた「俗情」を暴き出しているのだと決めつけるのも、実に偏狭で拙速な見解だと言えます。

「しからば貴僧は極楽についても研究していなさるな」

「しかり、我は極楽を研究している」

「しからばおたずねするが極楽なるものはこの世にあるか、あの世にあるか」

「あの世にある」

「この世にはないか」と私は書いた。

「この世にないからこそ、あの世にあるのである。それはすでに汝の宗派に於ては 決定していることではないか」と書き終ってから、彼はいぶかしげに苦笑して私を見つめた。

「イヤ、これはあくまで自分個人の信仰の問題であって、宗派が何を決定しようとかまわぬことである」と私は興奮して走り書きした。「自分としては、極楽がたとえあの世にあるとしても、それはつまらぬことであると思う。この世に於て極楽を建設することこそ僧侶の任務ではないか」

「だが残念ながらこの世に極楽を建設することは不可能である。かるが故にあの世の極楽浄土へと往くのである」

「自分はあの世などはどうなってもかまわない。この世だけに興味がある」

「……では、おそらく汝は社会主義者であるな」と彼は鉛筆を少しひねくりまわしてから、ゆっくり書いた。「汝が社会主義者であり、それほどまでこの世が好きならば、何のために僧侶になる必要があるか」

 私はつまらぬ問答をはじめたばかりに上位者から自分の不徹底を指摘され、次第に馬脚をあらわしそうな不安をおぼえた。そして、どうでもなれという気持で「自分は社会主義者と称すべきほどの者ではない。ただし、あの世の極楽なるものは絶対に嫌いである」と鉛筆に力をこめて書いた。

「よろしい、よろしい」と彼はつぶやいてから、やさしく淋しげに微笑した。「十七、八歳の少年時代には何もわからぬものである。みな汝の如く考えるものである。しかし」と彼は書いた。「汝もまたやがて極楽へとおもむくのである」そして彼はその一行の言葉のかたわらに丁寧に、傍線まで引いて見せた。

  「私」と「密海」という中国人の僧侶との間で交わされたこれらの問答は、所謂「仏教」という巨大で壮麗な宗教的体系の本質に含まれている思想の形式を露骨に明示しています。仏教においては、少なくともこの場面で、この作品を通じて捉えられている「仏教」とは即ち「あの世」の思想であり、総ての問題の最終的な解決を「あの世」という存在しない領域へ委ねてしまうような思考の形態なのです。それに対して「この世の極楽」に固執する「私」の「不徹底」を、密海は冷然と笑い飛ばします。

「汝はおそらく常に社会主義を忘れぬのであろう。少年として、それはさもあるべきことである」彼は私の感情には無とん着に、鉛筆をはしらせた。「だが汝は時には、宇宙について想いをこらした方がよい。この宇宙には実に何万何億という星がちらばっておる。われらの地球もその一つにすぎぬ。しかもこの数かぎりない星のうち、どれか一つは常にみずから大爆発を起して、粉微塵に砕け散っているのである。我らは時々刻々、我らの一呼吸ごとに、これら爆発し、飛散し、消滅する巨大な物どもにとりまかれておる。故にもし仏教的真理なるものがありとすれば、この宇宙の胎内における、これらの大破壊、大消滅、大動乱に堪えうるものでなければならぬ」と彼は書いた。

「ああ、これに堪えうることの困難を汝もまた一度は考えた方がよい。それが何という重い、冷い、固い、無限の困難であるかを。汝の嫌いなあの世の極楽なるものも、この困難な路をさまよい歩いた先輩のわずかに発明し得た一つの手がかりにすぎぬ。それにつけても汝はその先輩ほど苦しんではいないであろう。したがって汝は、先輩が苦しまぎれに発明したその極楽を想いうかべることはできぬが、それも致しかたないことである」

 私はまだ自分が少しも苦しんでいないと自覚していたので、彼の意見に反対することはできなかった。

 この「仏教的真理」という言葉は「この世」における総ての価値を否認するような思惟の形式を指しています。私たちが日頃重んじている様々な現実的問題も、日常の喜怒哀楽も、宇宙という巨大な尺度から眺めれば些末な事柄に過ぎず、しかもそれは刻々と生滅を繰り返している儚い瞬きのようなものに過ぎません。こういう考え方は仏教に限らず、多くの宗教において採用されている価値観の様式であり、言い換えれば「此岸」よりも「彼岸」を重視する考え方です。例えば昨今、世相を賑わせているイスラム国のような原理主義的過激派組織も、ジハードの名の下に死後の世界の幸福を信じて自爆テロも辞さない強硬な姿勢を貫いていますが、これなんかも典型的に「彼岸主義」の信奉者に固有の行為であると言い得るでしょう。

 「西方浄土」を欣求する熱心な真宗門徒たちも、個人レベルにおける信仰の強弱はさておき、このような「死後の世界の幸福」を信じることに余念がない筈です。私自身は敬虔な真宗門徒と呼ぶに値する方々と知り合いになった経験がないので、これは多分に現実を無視した空理空論に過ぎないのですが、少なくとも理屈の上では、浄土に対する信仰の根底に「彼岸主義」的な発想や思惟の形式が横たわっていることは確かだと思います。そこには眼の前の現実に対する蔑視や嫌悪が根深く関与しており、彼らにとって「此岸」の景色は苦痛に満ち、腐臭を漂わせた唾棄すべき「仮象」の連なりに過ぎません。そのような薄汚い現実を逃れて、理想化された「異界」へ移行することに強固な執着を見せる信仰の形態は、人類にとって普遍的な宿痾であると言えるかも知れません。

 「異形の者」における語り手の「私」は仏道に進みながらも、そのような彼岸主義的色彩に覆われた「仏教的真理」というものに強い違和感と嫌悪感を覚えています。密海の言葉を借りれば「社会主義」的である「私」の思想的態度は、いわば「此岸主義」であり、「あの世」の価値を認めることで「この世」の一切を無化しようとするニヒリズムへの抵抗を含んでいます。

 

 極楽へ? この俺が極楽へ。そしてそうときまってしまったら、それ以外に、何もなくなってしまうではないか。青春の悲しみも、歓喜も、毛髪もそそけだつ苦悩も、骨も肉もとろけ流れる快楽も。そうだ。私がわけのわからぬ外界の動きと自分自身のアメーバ的な蠕動のおかげで、こうやって、白衣黒衣の非人間的人間になりさがっている、まるで矛盾の標本のような、この存在の不安定さも、その骨にこたえるはずかしさも、そのシリアスな感覚も!

 それはあまりにも都合の良すぎる話であり、また何とニヒリスティックな大氷河の澄明な亀裂にも似て明確すぎる、あまりにも物理的、あまりにも天然自然的なことではないか。俺は人間であり、密海さん、お前さんもおなじ人間である以上、もう少し、この世の「生」について、つまずいたり、ころがったり、密着したり巻きこまれたりするのが当然ではないのか。

 

 この叫び立てるような独白は、此岸主義的倫理の掲げる理想の形を素描していると言えるでしょう。ここまでの論理展開を踏まえるなら当たり前の認識ですが、「仏教的真理」という言葉で名指される彼岸主義的な方針は「生きることの否定」そのものです。それは「死後の世界」を至高の価値として定め、生きることは「死後の世界の幸福」に資するものである限りにおいて「価値」を持つと看做されるのです。科学的な世界観に従えば、私たちは死んだ後、単なる物質に還るだけで「異界」への移行を遂げることは有り得ないと考えられています。それは此岸主義的価値観の最も先鋭化された様態であると言えますが、そのような「現世」の重視は、彼岸主義的価値観の尊重する「常世」という空想的な境涯の価値と真っ向から対立します。「生きることの肯定」が困難であるような「生」を強いられた人々のルサンチマン(©ニーチェ)が、彼岸主義的な信仰の体系を構築するのであり、イスラム原理主義の狂暴な激発も、此岸的現実における著しい困窮や不合理の反動であると言えるのではないでしょうか。

 このような問題は、坂口安吾の文業にも共通するテーマであると私は思います。

 

saladboze.hatenablog.com

  時に腥く、粗野で暴力的で、諍いと妬みに満ち溢れた俗世の現実に対するペシミスティックな感情に駆られた人々が、隠遁や出家遁世などの方法を通じて「絶対的安息」への隘路を切り拓こうと様々な格闘を演じるのは、個人の価値観の問題なので直ちに咎められるべきだとは思いません。しかし私個人としては、そのような彼岸主義的思想の齎す息苦しいような禁圧には馴染むことが出来ません。どれだけ見苦しく惨たらしく醜悪であろうとも、物事の根本には「此岸の現実」が横たわっているのであり、その価値を一律に否定することで「天上的な価値」へと関心を飛躍させてしまうのは、人間の本性に反する態度だと考えるからです。崇高な理念は確かに美しいものですが、美しさに憧れる余り、矛盾に満ちた下界の現実を白眼視するのは不毛な行為だと思うのです。

 つまるところ、私たちがこの世で存在意義をみとめられるのは、あの世というものが人々の頭を、ホンのちょっとかすめすぎる時にかぎられている。だがこの世に生きているかぎり、人々はあの世をいみきらう。したがって、それを想い出させる、黒衣の専門家たちが大きらいなのだ。

「しかしその俺にとっても、この世の方が、あの世という奴より千倍も万倍も親しいものなんだからなあ。全く、あの世の極楽なんて、ほしければ誰にだってくれてやる。俺のほしいのは、この世の方なんだ」

 彼岸主義的価値観の壮麗な体系に包み込まれた「僧侶」の世界に予備軍として生きながら、此岸主義的価値観への執着を捨てられない「私」の引き裂かれた苦悩が、この奇妙な味わいの、生煮えのような小説を刺し貫く基調的な主題であると、一先ず要約することが出来るでしょう。そこには「生きること」への切実な憧憬と、「生きること」を否定しようとする「仏教的真理」への凄絶な憎悪が融け合っています。これは、腥い現実に呑み込まれて今更戸惑いもしない俗人の私には理解し難い懊悩には違いありませんが、それでも私たちの暮らす「世界」においては常に普遍的な課題として掲げられているのです。このような彼岸主義的思想が、坂口安吾の言う「正しい希望の抛棄」の結果である限り、私はそうした境涯へ憧れを懐いたりはしませんが、一方で、現実に敗れ去り打ちのめされた人々の縋るべきアジールとして、仏教的真理というものが存在するのなら、その意義は否定すべきものではないとも思います。言い換えるなら、「彼岸」と「此岸」というのは相互に補完し合うことで私たちの実存を支えている重要な「礎」ということになります。

 今夜も長くなりました。それではまた次回。サラダ坊主が御送りしました!

 

ひかりごけ (新潮文庫)

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