サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第二章 夏祭りの夜 1

 揚物屋「海鮮のラシルド」は正午の書き入れ時で、風通しの悪い厨房に閉じ込められたサルファンは、引切り無しに滴る汗を拭いながら、油鍋と熾烈な格闘を演じていた。幾ら揚げても、品物は瞬く間に大皿から消えていく。注文する順番を巡って店先で気の荒い客同士が喧嘩を始め、常連と話し込んでいた店主のラシルドが仲裁の為に割って入る。腹を空かした船乗りや沖仲仕で賑わうこの店では別段、珍しい光景でもない。

 毎朝、イシュマール港に水揚げされた新鮮な魚介類が市場から店に届く。それを捌いて衣を塗し、上質の油で揚げて大皿に山盛りにする。「浜揚げ」と称するイシュマール地方の郷土料理を扱う店は、この界隈に数知れないが、サルファンの勤める「海鮮のラシルド」は他の追随を許さぬ繁盛振りであった。油と人の熱気で厨房が滾り立つ修羅場と化すのは毎日のことである。孤児院を出て、下働きとして転がり込んでから五年も経つが、それでも昼時の眼の回るような忙しさに、油長のクルスコや種長のセリダンの如く平然と応じるのは難しい。主要な客層である地元の漁師や船員たちの食欲は、餓えた狼のように獰猛だ。見る見る食い荒らされていく大皿に品物を間に合わせるのは、常に苛酷な挑戦であった。

 然し今日のサルファンは、その苛酷な挑戦に嬉々として臨んでいた。昼番の仕事を終えたら、恋人とエルナ島へ遊びに行く予定なのだ。午後一時を回って客足が緩み始めると、クルスコがサルファンの肩を乱暴に叩いた。

「そっちの鍋はもう閉めていい。洗っちまえ」

「大丈夫ですか」

「任せとけ。約束があるんだろ、さっさと洗って、終わらせろ」

 日頃は罵詈雑言ばかり浴びせてくるクルスコの貴重な善意に、サルファンは大人しく甘えることにした。鍋の側面にある蛇口を捻り、油を抜いて滓を濾す。束子と布巾で鍋の内側を丁寧に磨き上げる。床掃除は種番のアリウムが引き受けてくれた。

「上がっていいぞ。女を待たせるのは良くない」

「ほらほら、早く行かねえと浮気されるぞ」

「うるさいな」

 同僚の揶揄さえ不思議と耳に快いのは、心が浮き立っている証拠であろうか。過密な勤務に追われる余り、イスナと二人きりの時間を過ごす機会は、最近めっきり減っている。

「じゃあ、宜しく御願いします」

 背中を押されるように厨房から真夏の街路へ飛び出した彼は、恋人の顔を思い浮かべて密かに口許を綻ばせた。

 

「綺麗だね、サルファン」

 隣を歩くイスナの足取りは弾んでいた。束ねた亜麻色の長髪が、潮風にさらさらと揺れる。イシュマールの沖合、コントラ湾に浮かぶエルナ島は、風光明媚な観光地として知られている。島の北部には霊峰と崇められるエルナ山が聳え、巡礼の客が絶えない。古来、ターラー正教会は、エルナ山とその周辺の樹林を神領に指定し、自由な往来を禁じている。

 埠頭から眺める海は凪の時刻で、青天の光を無数の宝珠のように照り返している。港から山稜へ通じる神官通りは、遠方から訪れた正教会の巡礼者で賑わい、間近に迫った神子エルレジュの祭礼に備え、通りに沿った商店は一様に奉納品の売り込みに忙しい。

「ねえ、見て! 凄く綺麗な絵だよ」

 或る古ぼけた土産物屋で、イスナは壁に飾られた一幅の絵画に眼を奪われた。七色の翼を持つ優美な鳥が、巨木の梢に留まっている図案だ。金粉を混ぜた顔料を用いているのか、虹色に塗り分けられた翼は、仄暗い店内でも薄らと光って見える。

「虹光鳥って書いてあるね」

 イスナが銘板を覗き込んで言った。

「聞いたことないな。エルナ島に棲んでるのか」

「本物がいるなら、見てみたいね。何処かで見れないのかな」

「本物は見られねえよ」

 不意に店の奥から尖った声が聴こえ、二人は口を噤んだ。振り返ると店主らしき老爺が、杖に縋って此方を見ていた。

「そいつは神様の鳥だ。地元の神官でも、見ることは叶わねえ」

「虹光鳥は、神領にいるんですか」

「エルナ山に棲んでるという言い伝えだ。真偽は知らん」

老人は椅子に腰を下ろして、煙管を取り出した。

「誰も自分の眼で確かめた者はいねえ。神官長のガドム様でさえ、御覧になったことはねえと言うんだ。内寓でもない若造の前に、虹光鳥が御姿を現す筈はねえだろう」

 無愛想な言種に眉を顰めるサルファンの袖を、イスナは黙って掴んだ。粗野な男たちに揉まれて働いている所為か、昔よりも血の気が多くなった恋人の暴走を、阻めるのは自分だけだと知っている。店を出て、神官通りを北へ辿り始めた後も暫く、サルファンは陰気な土産物屋の陰気な老人を罵り続けた。

 神官通りから山麓の樹海を蛇行する参道へ入ると、市街の喧噪は遠退き、鳥の囀りと葉叢の揺れる音だけが辺りを領した。参道の最果てには、高い格式を誇るエルナ神宮の社殿が鎮座している。広大な敷地には巡礼と思しき人々の姿が疎らに見え、帯刀した護官が警邏の為に行き交っている。護官は神宮の平穏を守る内寓の正教徒であり、原則として神務呪刀士の資格者が任じられる。

 呼び止めた護官に虹光鳥を見たいと告げると、彼は二人の大それた願いを叱正する代わりに、肩を竦めて苦笑してみせた。

「虹光鳥は、此処にはいない。御峰(エルナ山の尊称)の頂に巣を作って暮らしているんだ。尤も、実物を見た者は誰もいないけどね」

 肩透かしの返答に、イスナは失望を露わにした。

「そっか。神様の鳥だもんね。神宮の人も見れないんじゃ、あたしたちが見れないのは当たり前か」

「残念だが、そういうことだね。そんなに虹光鳥が見たいのかい」

 護官の問いに、イスナは真剣な表情で頷いた。

「さっき、港のお土産屋さんで、虹光鳥の絵を見て、思い出したんです。小さい頃、母が見せてくれた花嫁衣裳の柄と同じだって」

「お母さんは、エルナ島の生まれなのかい」

「そうだと思います。詳しいことは分からないけど」

「分からない? 君のお母さんの話だろ」

「母は、私が五歳の時に亡くなりました。エルナの大津波で」

 今から十二年前にコントラ湾の沖合で発生した地震は、巨大な津波を巻き起こして、沿岸の都市に深い爪痕を刻んだ。イスナの母を乗せた、イシュマールとエルナを結ぶ定期船は、荒波に打ち砕かれて沈み、今も遺骨すら帰らぬままだ。

「無神経な質問をして済まない」

 深々と頭を下げて軽率な発言を詫びる護官に、イスナは慌てて手を振った。

「気にしないで下さい、昔の話ですから」

「あの大津波で、エルナ島も随分と被害を蒙った。私の同輩も、港の様子を見に行ったきり、二度と戻らなかったよ」

 護官の遠い瞳に、イスナも思わず封じ込めた筈の記憶を辿り直してしまう。艶やかな黒檀の匣に納められた優雅な婚礼衣裳の図案、それを慈しむように撫でる母の白い指先。忘れようと努力しても、決して消えることのない眼裏の光景。私が孤児になった理由。

「御詫びの印に、いいものを見せてあげよう。此方においで」

「いいもの?」

 護官は返事を待たずに歩き出した。二人は当惑しながら、護官の背中を追った。

「そうだ、自己紹介しておくよ。俺はファーダム」

 純白の玉砂利を敷いた境内を踏み締めて、彼は二人を黒ずんだ木組みの建物へ導いた。壮麗な本堂に比べると、随分質素な外観である。

「宝物庫だ。私は此処の管理を任されている」

 ファーダムは鍵束を取り出して、苔生した扉を開いた。足を踏み入れると、冷やりとした空気が肌を包む。灯りの乏しい庫内には、黒い布に覆われた台座が、墓標のように規則正しく並んでいた。

「虹光鳥の剥製を御覧に入れよう」

「剥製?」

 ファーダムは頷いた。

「今から二百年ぐらい前に制作されたものだと伝えられている。エルナ神領が世界に誇る財宝の一つだ」

「剥製なんかにして、神様に怒られないんですか?」

「さあ、分からない。とりあえず、今のところ神罰はないね」

 猶も釈然としない様子のイスナに、ファーダムは慌てて弁明した。

「勿論、捕まえて殺した訳じゃない。当時の護官が、山の中で虹光鳥の死骸を偶然発見したんだ。何しろ神様の鳥だから、火葬は畏れ多い。だから窮余の策として、その尊い姿を永遠に留めた訳さ」

 ファーダムは倉庫の奥に進み、一際大きな台座の前に立った。両手で布の端を掴み、慎重に取り外す。現れた分厚い硝子の立方体に、二人は射竦められたように動けなくなった。

「此れが虹光鳥だ」

 それは土産物屋の壁に架けられていた絵画の中の虹光鳥とは違っていた。翼に刻まれた精緻な文様は、空に浮かぶ虹よりも遥かに多彩な色で染め抜かれている。目の詰んだ羽毛の一つ一つが仄かな光を放ち、宝物庫の薄闇を朧に滲ませていた。

「凄いだろう」

 ファーダムは黒い布を畳みながら、誇らしげに言った。

「二百年経っても、この体毛の光は消えていないんだ。偉い学者にも、理由は分からない」

「綺麗」

 イスナは歩み寄って、硝子の仕切りに指先で触れた。青味の混ざった鈍色に輝く虹光鳥の瞳は、剥製とは思えぬ生気を湛えて虚空を見凝めていた。

「実物は、もっと美しい光を放つそうだ。生きた虹光鳥を見た者は、眼が潰れるって言われてる。本当かどうかは知らないけどね」