サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第二章 夏祭りの夜 2

 イシュマール聖堂では毎年七月下旬に、航海の安全や水産の豊饒を願う例祭が催される。正規の名称は「海神祭」であるが、地元では慣習として「夏祭り」と呼ぶ。同時期に、エルナ島でも神子エルレジュの祭礼が行なわれる為、イシュマールは観光客を乗せた船便で賑わう。地元の商人にとっては、一年を通して最大の書き入れ時だ。

 店長のラシルド、油長のクルスコ、種長のセリダン、そしてサルファンの四人は、夏祭りの間、ずっと店に泊まり込み、夜明け前に起き出して仕事を始めた。イシュマール食品取扱市場から新鮮な魚介類が届くと、全員で揚げ種の仕込みを始める。そのうち、他の従業員たちが出勤してきて、仕込みの手伝いや店内の清掃を引き受ける。そして夏祭りの始まりを告げる銅鑼の音が街中に響き渡ると、日が落ちるまで殺伐たる修羅場が続くのであった。

夏祭りの最終日には、港湾地区にある海浜演芸場で芝居が打たれ、人々は暗闇に翳すと淡い光を放つ蛍飴を舐めながら、観劇に出掛ける。日が落ちて芝居が始まると、殆どの商店が営業を終えて、居酒屋の灯りだけが消え残る。仕事を片付けた商人たちも、華やかな服装に着替えて、腕利きの役者たちの饗宴を見物に行くのだ。

 一週間に及ぶ苛酷な労働を堪え忍び、疲れ果てた揚物屋「海鮮のラシルド」の従業員たちも、夏祭りの最終日は日暮れと共に店仕舞いし、厨房でささやかな祝杯を挙げた。ラシルドは甘夏酒の杯を握り締めて、満ち足りた顔を仲間たちに向けた。

「この一週間、よく頑張ってくれた。御蔭で、去年より二百万エナクも売上が伸びた。今日の売上は未だ集計してないが、恐らくかなりの金額だろう」

 拍手が湧き起こり、ラシルドは深々と頭を下げた。

「この調子なら、念願の店舗の改築にも手を着けられそうだ。勿論、今回の売上で得た利益の一部は、君たちの給料にも当然、反映させてもらう。本当に、頑張ってくれた。有難う!」

 ラシルドが高々と掲げた酒杯を合図に、酒盛りが始まった。

 

 宴が跳ねると、夜更けの厨房は水を打ったように静まり返った。酔い潰れた従業員は、クルスコの手で更衣室の暗がりに抛り込まれた。火照った顔を摩りながら、陽気に躁いで家路に就く従業員たちを見送ると、ラシルドは厨房の卓子に分厚い帳簿と、硬貨や紙幣の詰まったずっしりと重たい麻袋を積み上げた。一日の終わりの、肝心な仕事に取り掛かる前に、酔いの回った頭を冷まそうと、ガーシュに火を点ける。人影の絶えた空間で、深々と煙を吐き出すと、改めて充実した感慨が総身を満たした。

 旧クヴォール帝国の時代から、コントラ湾の穏やかな内海に面する地利を活かし、漁業と海運で栄えてきた港町イシュマール。この地に流れ着いて、小さな揚物屋を始めてから、二十年近い歳月が過ぎた。血腥い軍刀を包丁に持ち替えた当初は、不慣れゆえに失態続きで、客と殴り合いの喧嘩をしたこともあった。思うように売上が伸びず、金策に駆けずり回る日々に倦んで、酒に溺れた時期もあった。然し、戦場の風景が脳裡を掠める度に、拉がれた熱意は、冷水を浴びたように眼を見開いて甦った。何故、自分は不向きな商売に鞍替えしたのか。様々な官途への誘いを蹴って、帝都を離れたのは何の為であったのか。その自省が、惰弱な心根を叱咤した。もう二度と、人を殺める稼業には手を染めたくない。此処で歯を食い縛って、夢中で働くしかないのだ。

 その積み重ねが、今日の幸福を形作ってきた。自分の選択は、間違っていなかったのだ。帳簿を開き、淡々と数字を書き入れながら、静かに微笑む。店の改築どころじゃない。創業当初からの戦友であるクルスコの為に、支店を拵えてやることも出来そうだ。そう聞いたら、あいつは喜ぶだろうか。それとも相変わらず、苦虫を噛み潰したような顔で、あんたは何時も突拍子もないことばかり言いたがると、不満を述べるだろうか。

 クルスコは、ラシルドと同じく、軍人上がりであった。帝国沿岸管理軍モレスティン要塞機関部に属する技術屋の船乗りであった彼は、生粋のゴーダル人で、緑衣隊事件への怒りから、軍務官資格を返納して帝国義勇軍へ走った。東部水兵隊に属し、陛派との戦いに明け暮れた後、あらゆる官途を拒んだ上官のグリーフに倣い、市井に埋もれることを自ら望んだ。イシュマールで荷役をしているときにラシルドと知り合い、陸の暮らしに郷愁を募らせていたこともあって、揚物屋の創業に手を貸した。爾来、二十年近い交誼を結んできたことになる。

(あいつは、死ぬまで人に使われているような器じゃないからな)

 帳簿を閉じて、麻袋を金庫に納める為に立ち上がったそのとき、裏口の戸を叩く音が聞こえた。

「誰だ。忘れ物かね」

 こんな時刻に店を訪ねて来るのは従業員以外に考えられない。そう思って声を掛けたが、返事はなかった。麻袋を慌てて金庫に押し込み、用心の為に、厨房の棚からセリダンの包丁を抜き取って構える。夏祭りの夜は、何処も観劇の為に店を空けている。その油断に便乗して盗みを働く無粋な悪党は、昔から絶えない。フェゼリやルパーコといった大魚を捌く為に、刃渡りを長くしたその包丁なら、不審者と一戦交えるのに適役であった。

 再び、戸を叩く音が聞こえた。片手に包丁を握り、慎重に把手を掴んで押し開けると、外套を着込んだ女が、踏み段の下に佇んでいた。頭巾に隠れて、目許は見えない。

「どちら様ですか」

 夏祭りの夜は乞食が増える。誰もが浮足立って、気前が良くなっているから、普段より稼ぎ易いのであろう。終戦直後は、手足を失って退役した軍人の乞食も珍しくなかった。

「お久し振りです、隊長」

 掠れた女の声には、覚えがあった。隊長という呼び名に古傷を抉られたように、鼓動が速まる。改めて頭巾に縁取られた女の顔を見凝めると、その紅髪に、はっきりと記憶が呼び覚まされた。

「フェロシュか」

「覚えていてくれたんですね」

「忘れるものか。何故、こんな夜更けに、此処へ?」

「立ち話は目立ちます」

 フェロシュは声を潜めて辺りを窺った。

「入ってもいいでしょうか」

「無論だ」

 ラシルドは包丁を背に隠して道を空けた。フェロシュを中に通し、扉の錠を下ろす。

「本当に久し振りだな。もう、二十年になるか」

 頭巾を脱いで解いた紅髪を背に流したフェロシュは、椅子に腰掛けながら静かに頷いた。

「こうして、再び隊長に見える機会が来るとは、思っていませんでした」

「偶には顔を出してくれても良かっただろう」

「隊長の新しい人生を邪魔するのは、気が退けたんです」

「お前らしくない心遣いだな。人の心に土足で上がり込むのが身上だったのに」

「隊長は、新しい人生にすっかり馴染んでいるみたいだわ」

「その呼び名は止してくれ」

「昔を思い出さねばならないときが、遂に訪れたのだとしても、そう仰いますか、隊長」

 軽く触れただけで指が切れてしまいそうなほど冷たく乾き切った声に、ラシルドは眉根を寄せた。

「用件はそれか?」

「他に用はありません。好んで他人の墓穴を掘り返す趣味はないですから」

「帝都に異変が起きたのか」

「予兆です」

「調べは何処まで進んでいる」

「帝都治安本部が動いていることは確かです」

「目的は」

「私たちの存在を消そうとしています」

 平穏な日々に慣れ切った心に、その言葉は死刑宣告のように鳴り響いた。二十年間、脳裡の片隅に留まり続けていた危惧の萌芽が、遂に顕在化しつつある。その報せは、ラシルドの背筋を凍らせるに充分な重みを備えていた。

「ジェリハスとパレミダが、マルヴェに危機を伝えに向かいました。私はジェリハスに命じられて、隊長を御迎えに上がりました」

「もっと具体的に説明してくれ」

 祈るように両手を組んで俯きながら、ラシルドは語気を強めた。

「旧勢力の復活です。ガルノシュ・グリイスが、戴冠を目論んでいます。春影帝が崩御されてから、帝室の権威は弱まる一方です」

「夏光帝では荷が重いか」

「彼は若過ぎます」

 フェロシュは感情を欠いた声で突き放すように断言した。

「ガルノシュめ。矢張り、迷わず殺しておくべきだった」

「隊長には、帝都に戻ってもらいます」

 有無を言わさぬフェロシュの通告に、ラシルドは唇を強く咬み締めた。

「直ぐには動けない。私が急にいなくなったら、この店は立ち行かなくなるだろう」

「誰かに売り払えば済むことでしょう。繁盛しているのなら、欲しがる人間は幾らでもいる筈です」

「簡単に言うな。商売というのは、それほど生易しいものではない。従業員たちの気持ちも考えずに、軽々しく人手に渡すような真似は出来んのだ」

「私たちは戦う為に生まれてきた人間です。商人の仮面を被り続けるのも、もう潮時です」

 冷然と放たれた言葉は、ラシルドの胸底を残酷に刺し貫いた。先刻までの充実した感情が、泡沫のように音を立てて消えていく。戦う為に生まれてきた人間。その事実を否定する為の二十年間であった。それをお前は、たった一言で覆そうとするのか。

「そう急くな。準備には、時間が必要だ」

 決壊しそうになる理性を辛うじて繋ぎ留めながら、ラシルドは絞り出すように言った。然し、滲み出る憤激の片鱗までは隠し遂せなかったのであろう。フェロシュは追撃を手控え、大人しく口を噤んだ。

「何か飲むか」

「白桃酎を下さい」

「きつい酒だな」

 ラシルドは立ち上がり、背後の戸棚から酒壜を取り出した。杯に注がれた酒は、厨房の灯りを浴びて白く透き通った。