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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第二章 夏祭りの夜 3

創作「刃皇紀」

「隊長は、帝都になんか行きたくないでしょう。色々と思い出してしまうから」

 白桃酎を二口ほど啜った後で、フェロシュが問い質すように口を開いた。

「行きたくないとは言わない。少し時間が欲しいだけだ」

「嘘ですね。あたしには分かります」

 淡々と語るフェロシュの眼は、憐憫と無縁の酷薄な光に満ちている。無意味な優しさを好まない苛烈な気性は、二十年前と変わっていない。思わず、ラシルドの口許には苦い笑みが零れた。

「お前は直ぐにでも、私を帝都へ連行したいんだな」

「当たり前でしょう。事態は、一刻の猶予もないのです」

 苛立ちを隠そうともせず、フェロシュは冷淡な一瞥を投げた。

「相変わらず、気の強い小娘のままだな」

「人間は、そう簡単には変われませんよ」

 帝国西部国境のスヴァリカン要塞で初めて会ったとき、彼女は世界への憎しみに衝き動かされているように見えた。後にその不幸な生い立ちを聞かされて、軋むような生き方に納得したものの、彼女の幸福の為に、然るべき転機が訪れればいいと願う気持ちは、ラシルドの胸底を片時も去らなかった。戦後、イシュマールで商人に転身した彼が、それまで知らなかった幸福を味わうことが出来たように。

 然しフェロシュは昔と同じ、獰猛な山猫を思わせる瞳で、ラシルドを正面から睨んだ。

「隊長。あたしの時間は、二十年前のあの日から、ずっと止まったままなんです。総ての過ちと罪が、本当の意味で清算されたと思えるときが来るまで、あたしは、自分自身の時間を生きようとは思いません」

 それは苛烈な問責に聞こえた。共に戦場を駆け回った義勇軍の同胞たちは、多くが新政権の下で意気揚々と庁務官の地位を得た。或いはラシルドやクルスコのように、退役して在野の生活に戻った人間も少なくない。フェロシュやジェリハスのように、雷声帝の虐政を再来させぬ為、帝政の監視という使命を自ら選んだ人々は、ほんの一握りだ。春影帝の善政に浮かれる民衆に混じって、腐敗の徴候を探し続けるその生き方は、己の幸福を求めてイシュマールへ流れ着いたラシルドが、ずっと顔を背けてきた選択肢であった。

(俺は考えが甘かったのかもしれないな)

 人を殺める苦しみ、苛烈な政争に流されず、目的地まで泳ぎ切る苦しみを、自分は捨てたのだ。誰かが引き受けなければならなかった崇高な使命を他人に押しつけて、自分は舞台を降りてしまった。退役したことを、悔やむ積りはない。だが、今からでも間に合うなら、自分自身の時間ではなく、帝国の未来に、身命を捧げるべきではないのか。

「フェロシュ。私は」

 口を開いた途端、総身を凍えるような寒気が覆った。明瞭な殺意、魂から噴き出るような憎悪の気配だ。ラシルドは小声でフェロシュに訊ねた。

「感じるか」

「十人ぐらいですね」

「得物を取ってくる」

「分かりました」

 ラシルドの住いは、店舗の二階に併設されている。足音を殺して階段を昇り、寝室の戸棚から長い間、指を触れたことすらない呪刀を取り出した。呪気の流出を抑える封紙の包みを解き、鞘ごと掴む。重厚な手応えは、否が応でも遠い日々の記憶を甦らせた。あれから、たった二十年だ。たった二十年で、抑え込まれた邪悪は、再び地上に蔓延ろうとしている。俺は未だ戦えるだろうかという疑念は、鞘と刀帯(軍用の腰帯。鞘を吊る為の金具がついている)を結わえる金具を、指で嵌め込むときの硬い手応えに振り払われた。戦う為に生まれてきた人間というフェロシュの言葉が、脳裡に反響する。

 階下へ戻ると、彼女は既に抜刀していた。面が割れぬように頭巾を被り、紅髪の隙間から覗く瞳に炯々たる殺意を滾らせて、出立を待ちかねている。

「裏口から出ましょう」

 二人は厨房の裏口から暗い街路へ出た。細い水路を踏み越え、閑散とした深夜のイシュマールを走り抜ける。夏祭りの喧噪は既に跡形もなく、灯りの落ちた民家や商家は黒々と寝静まっていた。

「夏祭りの夜を襲撃の日に選ぶとは、無粋な連中だ」

 酔いの残る躰に鞭打って闇の懐を駆け回るうちに、自然と愚痴が零れた。朝から晩まで齷齪と働き続けることを定められた商人にとって、祭礼の末日は心置きなく酒が呑める貴重な一時なのだ。

「生きてさえいれば、夏は何度でも巡って来ますよ」

 いっそ清々しいほどに冷淡なフェロシュの返事に、ラシルドは笑みを浮かべた。

「本当に正論の好きな女だ」

夜陰に覆われた無人の街路に、微かな靴音が響き渡る。追手の気配は、複数の方角から迫っていた。海辺から押し寄せる潮騒に紛れて、誰かが石畳を蹴立てる音が聞こえる。闇に溶けるような足の運び方は、明らかに素人のものではない。

「帝都治安本部の捕り手か」

「恐らく、黒衣隊です」

 逃れようと走り続けるうちに、二人は穏やかなコントラ湾を望む港の岸壁へ追い立てられた。人影の絶えた埠頭に立ち、生温い潮風を上気した肌に浴びる。未だ姿は見えないが、捕手の足音は威嚇するように甲高く迫りつつあった。

「呪刀を握るのは久し振りだが、大丈夫だろうか」

「料理人なんでしょう。魚だと思えばいいじゃないですか」

「余り馬鹿にするなよ。イシュマールじゃ名の知れた店なんだ。無事に生き延びることが出来たら、御馳走してやる」

 軈て倉庫街の暗がりから、複数の人影が現れた。全員が軍服に身を固めている。ラシルドは刀を抜いた。敵は全部で十一人であった。

「大所帯だな、フェロシュ」

 彼女は無表情に頷いた。

「片付けましょう」

 敵は二人を囲むように円陣を描いた。頭目と思しき男が、納刀したまま進み出た。

「我が名はヴェイナレン。所属は帝都治安本部黒衣隊、階級は督刀官だ。殉国隊の残党どもに告げる。詔命の下に、死を賜る」

「ガルノシュ・グリイスの走狗か」

 嘗て雷声帝の傀儡に堕し、反政府主義者の弾圧に辣腕を揮った帝都治安本部は、閣派の重鎮であるメレスヴェルを本部長に戴いて以来、陛派の巣窟から足を洗った筈である。今更、行き届かぬ掃除を悔やんでも始まらないが、想定よりも差し迫った危機に、ラシルドは背筋の凍えるような恐懼を覚えた。

「二十年前の報復という訳か」

 佩刀に指を掛けて、ラシルドは低い声で言った。

「雷声帝陵下の血脈は、未だ途絶えていないのだ」

「春影帝陵下の御聖恩を忘れたか」

「御聖恩だと? 帝位を簒奪した国賊の情けなど、傲慢な茶番に過ぎん!」

 呪刀を抜き放ち、ヴェイナレンが青筋を立てて吼えた。その怒号を合図に、フェロシュは腰を屈めて走り出した。刀身が静かに光り、夜陰を払う。手近な敵を獲物に据え、立て続けに三発の斬撃を浴びせる。辛うじて捌いたものの、反動で体勢を崩した男の首筋に、鋭い一撃が滑り込んだ。夏の月明かりに、血煙が仄白く浮かび上がる。慌てて取り囲み、数に物を言わせて押し潰そうとする敵を、瞬速の斬撃で遠ざける。

「食らえ!」

 ラシルドが刃渡りの長い呪刀を竿のように撓らせ、横様に振り抜いた。煮え滾る刃から、雷光が迸り、鞭のような唸り声を上げた。強烈な電撃に神経を貫かれ、男たちが体勢を乱す。その動揺を見逃さず、紫色の焔を帯びた細身の呪刀が、複雑な律動を刻んで、男たちの間を駆け抜けた。彼方此方で鮮血が迸り、埠頭の石畳に黒々とした飛沫が走る。

「畜生め」

 猛り狂ったヴェイナレンの呪刀が、月明かりに閃いた。だらしなく突っ伏した味方の骸を軍靴で踏みつけ、暗緑色に光る刃を翻す。瞬く間に詰め寄ったフェロシュの呪刀が斬撃を受け止め、澄み切った音色が夜陰に響き渡った。

「無駄な抵抗は止した方がいいわ」

 鐔を接して競り合いながら、フェロシュが暗い瞳で囁いた。

「毒を吸わないように、呪草を服用してきたの。純粋な刀技の腕前なら、あんたなんかに負けやしない」

「吼えるな、ヴィオルの小娘」

 腕力に物を言わせて押し込もうとした途端、俄かに手応えが消えた。背後に生じた気配に振り返り、横様に呪刀を振り抜く。硬い感触が弾け、屈み込むフェロシュの姿が視界に映じた。機を逃さず、一歩踏み込んで刺突を放とうとした首筋に、分厚い刃が召使の如く寄り添った。

「どうせなら、百人ぐらい連れてくるべきだったな」

 ラシルドの嘲弄に、ヴェイナレンは蒼褪めた顔で、眼を剥いた。石畳には、物言わぬ骸が散らばっている。どうやら、助太刀は望めそうにない。

「殉国隊の残党を狩り尽くしても、夏光帝の覇権が揺らぐことはない」

「黙れ! あの若僧では、国は決して治まらない」

「ガルノシュは帝位に相応しくない。あれは単なる私欲の権化だ。万民の上に立つべき器ではない」

「貴様、不敬罪だ!」

 無謀を承知で、ヴェイナレンは狂ったように刃を振り上げた。ラシルドの額に狙いを定め、野獣の如く吼えた瞬間、細身の刃が背後から胸板へ突き抜けた。肺が破れ、生温かい血が喉を迫り上がる。総身を蝦のように引き攣らせて、彼は呪刀を取り落とした。

「この程度の腕前でも、仕留められると思ったのだろうな、お前の上官は。失敬な話だ」

「さっきまで不安がってたくせに」

 フェロシュの冷ややかな横槍を、ラシルドは黙って聞き流した。

「貴様、殿下を嘲ることは許さん」

 上体を貫いたフェロシュの呪刀に支えられて、ヴェイナレンは辛うじて立っていた。口の端から滴り続ける濁った血が、月明かりに黒く染まって見える。

「殿下は、我らが陛派の天下を再興なさる御方。二十年前の過ちは、もう、繰り返さぬ」

「それは此方も同じだ」

 ラシルドが呪刀を袈裟斬りに振り抜くと、ヴェイナレンの首級は静かに石畳へ落ちた。