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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第二章 夏祭りの夜 4

「突然、呼び出して悪いな」

 夜明けを僅かに過ぎたばかりの仄暗い厨房で、ラシルドは集まった従業員の顔触れを確かめるように睥睨した。中には昨夜の酒が抜けないまま、不精髭の伸びた蒼白い顔を携えて更衣室から這い出してきた者もいた。誰もが唐突な召集に戸惑い、落ち着かない瞳を互いに見交わしている。

「何があったんだよ」

 重苦しい空気に堪えかねたように口火を切ったのは、迂遠な遣り口を嫌い、常に単刀直入を重んじる油長のクルスコであった。その険しい眼差しは明らかに、壁に凭れて影絵のように押し黙った紅髪の女を警戒している。

「気になるか、クルスコ」

「当たり前だ。亡霊みたいに突っ立って口も利かねえんじゃ、気味が悪いぜ」

「彼女はフェロシュ。私の旧友だ。特別な事情があって、帝都から私を訪ねてきたんだ」

「帝都から?」

 唯でさえ苛立ちを募らせていたクルスコの眼光が、熱り立つように一際鋭さを増す。帝都アルヴァ・グリイスからの訪問者。そこにラシルドの黄ばんだ経歴を重ね合わせれば、この女が疫病神であることは直ぐに見抜けるであろう。

「そんなに警戒するな。害意はない」

「どうだか分からないね。愛想のない女だ」

 精一杯の皮肉も、仮面のような女の顔に引っ掻き傷を刻むことさえ出来なかった。亡霊という礼を失した言種に思わず頷きたくなるほど、その表情は変化に乏しく、一切の共感を拒んでいるように見えた。

「一体、どういう用件で皆を呼び集めたんですか」

 種長のセリダンが二日酔いの抜けない顔で苦しそうに訊ねた。昨夜の酒宴が果ててから、然したる時間は経っていない。不意の呼び出しに面食らい、不安を煽られるのは当然の反応であった。

「余り時間がない。率直に説明させてもらう」

 鑓衾に取り囲まれたような気分で、ラシルドは息を整えた。本当は、こんな話はしたくない。彼らが不幸な衝撃に襲われることは、口を開く前から眼に見えている。然し、今更臆病な選択を望むことは許されないのだ。ガルノシュの黒狗どもが血腥い牙を剥き出して、この平穏な港町を徘徊するようになった以上、遠い日の因縁から何時までも眼を背け続ける訳にはいかない。

「今日を限りに、私はこの店を離れることに決めた」

「今日を限りに?」

 日頃は沈着な面構えを崩さないクルスコが、意味を量りかねて間の抜けた声を出した。他の従業員たちも狐に摘まれたような顔で、口々に混乱した囁きを交わし始める。

「止むを得ない事情によって、私はこの店の主としての立場を捨て、フェロシュと共に帝都へ赴かねばならなくなった。何れ戻ってくる積りだが、何時になるかは約束出来ない」

「その女が鍵を握ってるのか」

 眼を見開いて、クルスコが唸るように問い質す。ラシルドは静かに頷いてみせた。そうなのだ、クルスコ。過去の呼び声が、耳鳴りのように私の鼓膜を覆い始めてしまったのだ。

「クルスコは知っているだろうが、私は嘗て、軍人として働いていた。私の生家は貧しく、食べるのにも事欠く環境だった。そこから脱け出す為に、特に学問も技術もない人間が選べる道は限られている。軍人は、国に命を捧げる仕事だ。明日死んでも文句は言えないが、少なくとも今日を生き延びる為の糧が手に入る」

 思いも寄らぬ物騒な告白に、従業員たちの顔が放心と沈黙に覆われていく。その茫然たる眼差しに晒された瞬間、ラシルドの胸底を痺れるような哀傷が駆け抜けた。長らく封印してきた陰惨な記憶の扉を、再び抉じ開けねばならなくなった己の悲運を悼むように。

「十六歳のとき、私は軍務庁の採用試験に合格し、見習いの兵隊として、錬兵校で三年間の研修を受けた。その後、本庁から回ってきた任官令状に従い、私は帝国辺境管理軍へ配属された」

 抑制された溜息が室内へ行き渡る。帝国辺境管理軍。西部の国境線を防衛する精兵の集団。二十年前の戦争で華々しい武勲を轟かせた栄光の部門だ。

「私は帝国辺境管理軍の本部であるスヴァリカン要塞に配属された。国境地帯は、常に危険と隣り合っている場所で、密輸を企む連中の摘発や、隣国の軍事的行動に対する警戒など、厄介な仕事が次々に降り掛かって来る苛酷な世界だ。有事に備えて演習を重ねる暇もなく、山積みの任務を夢中で熟していくしかない。経験の浅い新兵には、地獄のような環境だった」

 それでも、本物の戦場に比べれば遥かに安逸な「職場」であったことを、彼は後年悟らざるを得なかった。病的な憎悪と殺意が行き交う曠野で、来る日も来る日も命の遣り取りに明け暮れる苦痛を思えば、密輸の摘発など牧歌的な青春に過ぎない。

「三十一歳のとき、政変が生じた。雷声帝の時代だ。当時、軍務庁の庁掌補を務めていたセファド・グリイス閣下、後の春影帝陛下が雷声帝に叛旗を翻し、帝都から追放されるという事件が起きた。帝国辺境管理軍の管理長を務めていたアルファゲル統刀官は、閣下の身柄を匿い、共に雷声帝政権打倒の為に戦うことを誓約した。所謂、雷鳴戦争の始まりだ」

「雷鳴戦争」

 誰かが、掠れた声で陶酔するように呟いた。戦後生まれの若者にとって、それは勇壮な叙事詩を思わせる特別な単語である。返り血に濡れた軍服を洗う余裕すら持てずに、樹林の根方へ転がって夜明けを待つ辛さなど、彼らは想像してみたことすらないのだ。

「閣下は義勇兵を募り、共に戦う仲間を求めた。多くの人々が閣下の志に賛同して、スヴァリカン要塞に集結した。私は陣頭紀兵官として、殉国隊の隊長に任じられた」

「殉国隊ですか」

 セリダンが驚きの表情を浮かべた。春影帝の勝利に大きく貢献した殉国隊の名は、戦争を知らない子供でさえ、寝物語に学んでいる。

「戦争は四年続き、閣下の率いる帝国義勇軍が勝利を収めた。雷声帝は帝都のグリイス広場で公開処刑され、彼に従って帝国義勇軍と戦った軍人たちも裁きを受けた。私は殉国隊の責任者として雷声帝の処刑を指揮した。随分と緊張したのを覚えているよ。暴君の首が床に落ちて転がったとき、総てが漸く片付いたと思って、訳もなく顫えが止まらなかったな。戦争が終わった、此れで全部御終いだ、血で血を洗う日々が遂に幕を引かれたのだと」

 だが、現実はそれほど甘くなかったということであろう。虐政を布いた暗君の首を斬り落としただけで、総ての矛盾と葛藤が洗い流されたと信じるのは余りに無垢な妄想であった。蠅を一匹、打ち殺したところで、地上を飛び交う総ての蠅が根絶されたことにはならないのと同じだ。

「戦後、閣下は春影帝として戴冠し、義勇軍幹部の多くが庁務官に登用され、栄達した。私も軍務庁の主席准掌として働かないかという話を持ち掛けられたが、断った。漸く平和が訪れたのに、此れ以上血腥い仕事に関わり続けるのは御免だった。私は帝都を離れて国中を放浪し、軈てこのイシュマールに流れ着いた。平和な仕事がしたいと思って、好物の揚物を扱う店を開いた。それからは、あっという間だったな。本当に充実した日々を過ごすことが出来た。何より嬉しかったのは、自分が軍人以外の稼業にも適性を持っていると証明出来たことだ」

「あんたは立派な商売人だよ。俺が認めるさ」

 噎ぶようなクルスコの声に胸を衝かれ、言葉が途切れる。もっと流暢に、明快に総てを語り終える積りでいたのに、打ち拉がれた感情が理性の専制を遮ろうとする。何もかも終わりだ。平穏な歳月、寛容と和解の日々、争うのではなく語り合うことに価値を置いた時間。総てが跡形もなく、空虚な夢の断片に罅割れてしまうのであろうか。二十年間の努力を、軍靴の分厚い底で踏み躙るように。

「隊長。時間は限られています。黒狗を総て始末し終えた保証はないのです」

 壁際に佇んで蝋人形の如く押し黙っていたフェロシュが、ラシルドの感傷を見咎めて不意に口を開いた。

「分かっている。お前が感傷を憎んでいることも承知しているさ」

「だったら何故、さっさと」

「おい、お前。話の腰を折るのは止めろよ」

 二条の尖った視線が空中で交錯し、見えない火花を苛立たしげに飛散させる。睨み据えるクルスコと、睨み返すフェロシュの放つ殺伐たる空気に、見守る人々は慄いて息を潜めた。

「落ち着いてくれ、クルスコ。悪い奴じゃないんだ」

「あんたを平和な生活から引き摺り出そうとする疫病神が、悪い奴じゃないなら何なんだ」

「彼女は殉国隊の分隊を取り仕切る軍長であった頃から、帝国の平和を希求して、誠実に努力を重ねてきた。愛想は悪いが、魂が腐っている訳じゃない」

「愛想が悪くて、すいませんね」

 クルスコを見据えて冷ややかに言い捨てると、フェロシュは再び貝殻のような沈黙に閉じ籠もった。

「客商売には向かねえな、ラシルド。帝都に御帰り願ったらどうだ」

「そうもいかないんだよ、クルスコ」

 煮え滾る憤懣を隠そうともせず、紅髪の女を白眼視する「平時の戦友」に、ラシルドは努めて温厚な態度で接するように心掛けた。唐突に出来した事態に面食らう彼の胸底を、寂寥が浸していることは明白であったからだ。

「終戦後、春影帝として即位されたセファド・グリイス閣下は五年前に崩御し、代わって第一帝子のダリオム・グリイス殿下が夏光帝として即位し、王権を継承なさった。問題は、この新帝即位に存している」

 咬んで含めるようにゆっくりと言葉を紡ぎながら、ラシルドは従業員たちの顔を順繰りに眺めた。皆、当惑しながらも懸命に意味を理解しようと耳を欹てている。クルスコは平和な生活を捨てるのは愚かだと息巻いているが、戦争が終わって未だ二十年、往時の荒廃の生々しい記憶を脳裡に留めている者は少なくない。彼らは平穏な生活の脆弱さを知り抜いている。無論、気性の荒い油長も、平和を維持することの困難さは身に沁みて知悉している筈であった。

「春影帝陛下が健在だった頃から、雷声帝の旧臣は国政の中枢に紛れ込んでいた。その代表格が雷声帝の遺児で、長らく政務庁の庁掌補を務めてきたガルノシュ・グリイスだ。ガルノシュは雷声帝の旧臣を糾合し、帝国の実権を掌握すべく、蹶起の準備を進めていると噂されている」

「今更、あんたが政府の揉め事に巻き込まれる義理はない。そうだろう」

 堪え切れずに叫び出したクルスコの瞳は、絶望の油膜に塞がれつつあった。

「あんたと俺は同類だ。もう戦争は懲り懲りだったんじゃないのか。今更、軍人に戻って何になるって言うんだ」

「クルスコ。私は今の生業を愛しているし、イシュマールでの暮らしも肌に馴染んでいる。好き好んで、憎しみと怒りの谺する世界へ舞い戻ろうとしている訳ではない」

 本当ならば、お前に支店を任せようと思っていたんだ。人に顎で使われるような、器の小さい男ではないと見込んで、創業以来の同志であるお前に、最高の贈り物を渡そうと思っていたんだ。迫り上がる言葉は総て、喉首で堰き止められて闇へ没した。フェロシュが聞いたら、きっと下らぬ感傷に溺れるのは老化の徴候だと嘲るであろう。

「然し、安穏と構えていられなくなるような事件が昨夜起きた。帝都治安本部の呪刀士が、我々二人の命を狙って夜襲を仕掛けて来たのだ」

「テイトチアンホンブ?」

 耳慣れぬ単語に当惑する年少の従業員たちを余所に、古株の職人や給仕が歴然と顔色を変えた。