サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第二章 夏祭りの夜 5

「治安維持を担う軍務庁の外局。表向きは帝都の公安を担っているけれど、実際には野犬の塒みたいなものよ」

 壁に凭れたまま、フェロシュが紅髪を掻き揚げて無造作に口を開いた。

「戦後、帝国辺境管理軍のアルファゲルは軍務庁掌に、帝都治安本部紫衣隊のメレスヴェルは帝都治安本部長に任じられた。けれど、メレスヴェルは三年前に病死し、アルファゲルは軍務庁の不正経理問題の責任を問われて、一年半前にスヴァリカンへ更迭された。嘗て帝国義勇軍の総帥であった二人が、足並みを揃えるように政権の中枢を去ったのよ。何の謀略も関わっていないと信じるのは難しいわ」

 スヴァリカン要塞の綜紀兵官(最高司令官)として、帝都を逐われたセファド・グリイスの野望に全面的な協力を惜しまなかったアルファゲルの令名は、亡国の淵から帝政の再建を図らねばならなかった春影帝政権を支える屋台骨として、重要な役割を担ってきた。辺境への更迭が発表されたとき、閣派の高官たちはガルノシュの陰謀を疑ったが、狡猾な罠の仕掛けを、魚の骨を抜くように残らず解き明かすことは出来なかった。

「メレスヴェルの死後、帝都治安本部長には黒衣隊長のシーゲリ帥刀官が充てられた。彼奴が戦前、閣派の要人を暗殺する指揮官であったことは、当時を知る人間にとっては常識だった。それなのに、誰もその人事を阻むことが出来なかった」

 淡々とした口調で語っていても、その秘められた胸底に滾り立つ怒りと焦りは、聞く者の心へ着実に染み込んでいった。あれほど喧嘩腰の態度を崩さなかったクルスコでさえ、緊迫する政情と宮廷に巣食う病根の根深さに蒼褪めて、真一文字に唇を結んでいる。

「一番最悪だったのは、軍務庁掌の人事。主席准掌から持ち上がりで任命されたアブワーズ総刀官は雷声帝時代、警務庁の幹部だった男で、南方警務院司や帝都警事局長を歴任した陛派の要人よ。戦犯として十五年間、アメル島のゼドフィリアン獄舎に収監されていたのに、春影帝陛下の崩御に伴う恩赦で釈放され、気付けば軍務庁掌にまで昇進している。こんなの、常識で考えたら有り得ない筋書きだわ」

 熾烈な戦争を勝ち抜き、親政主義を軸として国家の復興を推し進めた春影帝の剛腕は、地に潜った雷声帝の旧臣たちを威圧する効果を併せ持っていた。その卓越した才覚が、血風の吹き荒ぶ燎原を生き延びることで鍛えられ、磨き上げられた財産であることは論を俟たない。一方、戦後の平和な社会で恵まれた境遇に生まれ育った昆帝子(第一帝子)ダリオム・グリイスは、夏光帝の称号を携えて登極した後も、王族特有の繊弱と若さゆえの直情が目立って、父王の如き狡猾な立ち回りは演じようがない。二十年の雌伏を経て謀叛の準備に着手しつつある老獪な従兄の相手ではなかった。

「来るべき政変を優位に進める為に、ガルノシュ・グリイスは帝都治安本部を手足に使って、我々殉国隊の残党の排除に乗り出している。最早、一刻の猶予もならない。戦争の足音が、直ぐ傍に迫っているのだ」

 決然と面を上げて言い放つラシルドに、クルスコは遣り場のない怒りを吐き出すように卓子へ拳を叩きつけた。

「何もあんたが行く必要はないじゃないか。殉国隊の看板は、二十年も昔に投げ捨てた筈だろう」

「指を銜えて帝政の腐敗を眺めていることは出来ない。私の性分が、それを許さない」

「五十を過ぎた人間を戦場に駆り出すなんて、狂ってるぜ」

「クルスコ。お前には感謝している」

 ラシルドは諭すように語りかけた。

「この十数年間、力を合わせて、この店を守り立ててきた戦友のお前に、こうして別れを告げるのは辛い。だが、私は戻らなければならない。もう一度、帝国の為に刀を抜かねばならないんだ」

「訳が分からない。この店はどうなるんだよ!」

 激情に声を震わせるクルスコの肩に、種長のセリダンが黙って手を置いた。声にならない思いを、静かに伝えようとする。もう、どうにもならない状況らしい。諦めて、見送る以外に道がないことは、分かっているだろう。

「俺は納得出来ない。此れから、この店を更に盛り上げていこうと思ってた。それなのに、店の主がいなくなるようじゃ、話にならない」

「お前の期待を裏切ったことに就いては、謝罪する。だが、私の決断は変わらない」

「冗談じゃねえ」

 奔騰する怒りに身を任せて椅子を蹴倒し、クルスコは立ち上がった。胸倉を掴もうと詰め寄りかけたところへ、紅髪の女が滑るように割って入る。思わず怒鳴りつけようと睨み据えた途端、底知れぬ冷気を湛えた女の瞳に射竦められて、脚が止まった。尋常ならざる殺意は、如何なる逡巡とも無縁の鋭利な切れ味を湛えている。

「クルスコ」

 ラシルドが静かな声で呼び掛けた。

「お前には、私の後継者になってもらいたい。私がいなくなっても、お前がいてくれる限り、店の屋台骨が揺らぐことはないだろう」

「俺はあんたと一緒に働きたいんだ」

「ガルノシュが夏光帝を追放して、政権を掌握するようなことになれば、この街で平和な商売を続けていくことは不可能だ。ガルノシュの暴走を放置するということは、私たちのような庶民の生活が崩れていくのを放置するのと同じことだ。他人事ではないんだよ、クルスコ」

 呻き声に似た溜息が漣のように広がり、対峙する二人を囲い込んだ。尤も古参の職人であるクルスコの切実な叫びに、誰もが唇を咬んで成り行きを見守ることしか出来ない。止むを得ない事情に縛られて生きるのは俗世の掟だが、軈て諦めたように肩を落とした油長の背中は、顔を背けたくなるほど哀しげであった。

「あんたは本当に、頭の固い男だよ、ラシルド」

 クルスコの瞳に浮かぶ涙の粒を、誰もが見ない振りをした。泣き言を蛇蝎の如く忌み嫌う油長の潔癖な気性は、如何なる同情も頑なに斥けるに違いない。

「絶対に生きて帰れよ。最初に二人で決めた通り、店主はあんたなんだ。それを忘れるな」

「有難う、クルスコ」

 古びた約束。固より義理堅い男だが、未だに十数年前の盟約に固執するとは強情を通り越して健気なほどだ。湧き起こる慨嘆を辛うじて押し殺し、護衛を買って出たフェロシュを下がらせて、握手を交わす。

「必ず戻る。此処が、私の終の栖だ」

「屍体で戻って来られたって困るんだ。陰気な報せは御免蒙るぜ」

 強張る口許を精一杯に歪めてクルスコが無理に笑おうとしたそのとき、粗野な大声が窓越しに厨房へ響き渡った。

「誰かいないのか!」

 酔っ払った常連であろうか。だが祭礼の楽日を迎えた後、あらゆる店が営業を休むことはイシュマールの常識である。船乗りたちも神子エルレジュへの敬虔な祈りと共に、酔い潰れた五体を寝床へ投げ出している筈の時刻だ。

「サルファン、扉を開けてくれ」

 不意に名前を呼ばれて我に返ったサルファンは、店先へ通じる扉を押し開けた。がらんとした往来に、暗色の制服を纏った男が二人、険しい顔で此方を見据えている。

「イシュマール警事局殺傷事案部のニルゼムだ。ラシルドはいるか」

 権力を笠に着て横柄に振舞うことに慣れた口調で、背の高い方の警務官が一歩前へ進み出た。その鋭利な眼光に、無辜の市民に対する礼節は微塵も宿っていない。

「御用件は何でしょうか」

 血の気が引いていく音を総身に感じながら、サルファンは声の顫えを懸命に押し留め、平静を装って問い返した。ラシルドとフェロシュの話を綜合すれば、街中が寝静まっている時間帯に非常識な訪問を試みた警務官の真意が、宥和的なものであるとは考え難い。

「今朝、港で大量の他殺体が発見された。ラシルドが下手人であるという告発が、警事局に届いている。詳しい話を聞かせてもらいたい」

「店長は、人を殺すような方ではありません」

「それはお前が判断することじゃない」

 精一杯の虚言で何とか危機を凌ごうとするサルファンの幼気な努力を、ニルゼムは辛辣な口調で一蹴した。

「通せ。中にいるのは分かっている」

 男の手に肩を掴まれ、押し退けられそうになるのを踏ん張って堪え、サルファンは猶も抗弁を重ねた。

「帰って下さい! 店長は何も悪いことはしてない!」

 悲鳴のように裏返る声を我ながら情け無いと思いつつ、サルファンは渾身の力を籠めて叫んだ。第三者から見ればそれが偽証に過ぎないことは分かっていたが、それでも警務官の言いなりになって道を空けるのは良心が許さなかった。政治の話は難しくて、精確な理解など到底覚束ないが、ラシルドの犯した殺人は私欲を満たす為の蛮行ではないと信じている。このまま、傍観者を決め込んで警務官の横暴を見過ごす訳にはいかない。

「グロイセン。餓鬼を押えてろ」

 ニルゼムの冷淡な一瞥に目顔で頷き、鍛え抜かれた分厚い体躯を持つ敵娼が徐に丸太のような腕を伸ばした。凄まじい膂力に捻り上げられた関節が油の切れた車輪のように耳障りな音を立て、稲光のような痺れが総身を貫く。

「人殺しに忠誠を誓っても、お前の利益にはならないぞ。落ち着いて考え直すんだな」

 蔑むように言い捨てて厨房へ踏み込むニルゼムの背中を、サルファンは歯を食い縛って見送ることしか出来なかった。