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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第二章 夏祭りの夜 6

「警事局の者だ。全員動くな」

 威圧的な怒号に頬を叩かれたように、人々は口を噤んで動きを止めた。誰もが怯えた瞳で警務官から眼を逸らし、救いを求めるようにラシルドの顔を見凝める。

「昨夜、港で起きた大量殺人の事案に就いて訊ねたいことがある。店主のラシルド、前に出ろ」

「こんな早朝から乗り込んで来るなんざ、警務官とはいえ横暴が過ぎるんじゃねえのか」

 ゆっくりと警務官の眼前に立ち開かったクルスコが、真っ向勝負も辞さない構えでニルゼムの双眸を睨み据え、低い声で唸った。

「生憎、警事局は黙祷節だからと言って仕事を休む訳にはいかない」

 動揺した様子もなく、ニルゼムはクルスコの肩を押し退けた。

「怪我をしたくなければ下がっていろ。巻き添えを喰いたくはないだろう」

「黙って手を拱いてるのは主義に合わねえ」

「つまらん矜りを振り回して火傷を負う積りか。余り褒められた態度じゃないな」

 いきなり抄い上げるように振り抜かれた痛烈な拳打が、クルスコの下顎を捉えて鮮やかに撥ね上げた。そのまま後ろへ仰け反り、ふらつきながら卓子の縁に指を掛けて辛うじて転倒を堪える。歯が擦れて頬の内側が切れたのであろう、金臭い血の味を確かめながらクルスコは暗い瞳に憎悪を滾り立たせた。

「善良なる市民にも容赦ないな。此れだから警務官は気に食わねえんだ」

「それは御互い様だ。東部水兵隊がどれだけ多くの軍船や商船を波浪の彼方に沈め、無辜の命を奪い取ったか、二十年も経てば思い出せないと言うのか」

「よく調べてるな」

 クルスコは血の混じった唾を床に吐き捨てて、息を整えた。東部水兵隊は嘗て、帝国東部のディラム湾からセゾルニア洋にかけての海域を中心に暴れ回っていた閣派の義賊を礎に、帝国義勇軍の一翼を担う海戦部隊として改組された武装集団であり、雷鳴戦争での瞠目すべき活躍は今も華々しい英雄譚として官民を問わず語り継がれている。

「我々からすれば、東部水兵隊の義挙は唾棄すべき罪過でしかない。善良なる市民だと? 笑わせるな」

「語るに落ちたわね」

 不意に冷ややかな声が飛んで、ニルゼムは徐に頭を巡らせた。帯刀した紅髪の女が壁に凭れたまま、嘲るような笑みを浮かべて此方を見据えている。

「イシュマール警事局は何時から、陛派の巣穴に成り下がったのかしら」

「口の利き方には気を付けた方がいい。我々の標的は、ラシルドだけではない」

 ニルゼムは軍刀の鞘へ慈しむように指を這わせながら、静かに息を吐いた。

「紅髪のフェロシュ。殉国隊の軍長だった女。お前の命も、遅かれ早かれ殿下への供物として捧げられることになるだろう」

「悪趣味な男。牙を抜かれた黒狗に、私の命が奪えると信じているの?」

 黙って靴音を響かせながら、ニルゼムは壁際の女に近付いた。フェロシュは腕を組んで上目遣いに男の顔を見据えたまま身動ぎもしない。

「黒狗の手を借りるまでもない。俺が相手をしてやろう」

「優しくしてくれる?」

 婉然と微笑んでみせるフェロシュの瞳には、研ぎ澄まされた軽蔑と悪意が結晶していた。口許に苦笑を貼り付けて肩を竦めながら、ニルゼムは軍刀の柄に指を絡めて呼吸を計えた。

「無論だ」

 眼にも留まらぬ速さで、白刃が閃いた。鋭い斬撃が虚空を裂き、フェロシュの紅髪が数条、宙に舞う。振り抜かれた刃が翻る前に、彼女の刺突がニルゼムの肩を砕いた。骨を揺さ振る激痛に、喉を絞るような罵声が響く。巨体を揺すって駆け出し、庇うように滑り込んだグロイセンの横薙ぎを、高々と跳躍して躱しながら、身を捻って刃を翻す。背筋を斜めに裂かれ、蛙のように仰け反った彼の胸板に、矢のような刺突が打ち込まれ、心臓が血を噴いた。喘ぎながら倒れ込むグロイセンの尻を靴底で無造作に踏みつけ、フェロシュは媚びるような笑みを浮かべて囁いた。

「あたしを殺人の現行犯で逮捕する?」

 陽炎の如く揺らめいていた激情が、油を注がれたように赤々と火を噴いた。

「此処が、お前の処刑場だ」

 グロイセンの拘束を解かれて、痛む腕を摩りながら厨房へ駆け込んだサルファンの鼓膜を、獰猛な唸り声が鑓のように劈いた。突如、弾かれたように動き出したニルゼムの刺突がフェロシュの脾腹を掠め、薄らと血を滲ませる。

「お前たちは知らんだろう。戦争が終わって二十年、我ら陛派の人間が浴びせられてきた迫害の厳しさを。寛容という理念を、平気な顔で踏み躙る閣派の庁務官どもの、醜い横顔を知らんだろう」

 脾腹を押えて傷が浅いことを確かめながら、フェロシュは猶も冷笑的な態度を貫いた。

「雷声帝の二十年と春影帝の二十年、どちらがより多くの悲惨を招いたか、比べてみたことはあるの?」

「詭弁だな。憎しみや恨みが、算術の数式に従う義理などない」

「御互い様ということかしら」

「人間は身勝手な生き物だということだ。自分の正義には殉じても、他人の正義は踏み躙って恥じることがない」

「正しくある為には、勝たなければならないと言いたいの?」

「歴史は、そう教えているだろう」

「口が達者ね。警務官を辞めて、商売でも始めたらどうなの」

「生憎、俺はそこまで腑抜けじゃない」

 隼の如く襲い掛かるニルゼムの斬撃を右へ左へ跳ね返す。確かに、何が正義で何が罪悪なのか、それを定める基準は神々の掌中にしか存在しない。いや、宗教的な情熱を持たないフェロシュにとって、善悪の基準はもっと酷薄で、身も蓋もないものだ。勝者の地位を占めることで、己の信じる正義の普遍性を立証しなければならない。たとえそれが、果てしなく続く歴史の潮流の中で、泡沫のように頼りない束の間の「証明」であるとしても。

「あんたの言いたいことは分かるわ」

 横薙ぎに滑り込ませた斬撃を躱したニルゼムの鼻先へ顔を近付け、唇の端を曲げて蠱惑的に微笑みながら、フェロシュは言った。

「だけど、それならもっと強くあるべきでしょ」

 俄かに紫色の焔を孕んだ細身の呪刀が、フェロシュの顔を不気味に照らし出した。

「二十年前の陛派の敗北、今更覆そうなんて許さない」

 ニルゼムが何か答えるよりも先に、壮烈な斬撃が視野の外側から首筋へ襲い掛かった。焼け爛れ、断ち切られた頸動脈から鮮血が噴き出し、生温い雨のように厨房の床を紅く濡らす。鋒鋩を突き立て、辛うじて上体を支えながら、ニルゼムは次第に焦点の合わなくなる瞳をフェロシュに向けて、唇を震わせた。

「お前一人の、呪刀術で、歴史の奔流を、枉げられると、思うな」

「冥土で見物していればいいわ。必ず、思い知らせてあげるから」

 吸い込まれるように胴を刺し貫いた呪刀が更に劇しく燃え上がり、ニルゼムは最期の苦鳴を上げてその場へ崩れ落ちた。