サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

小説「昊の棺」 1

「なんでそんな言い方しかできないの?」

 夏月の顔を思い浮かべるたびに、そんな科白が彼女の唇から発せられるのは、私の記憶に染み付いた宿痾だ。様々な失言の積み重ねが、敵意に満ちた彼女の口癖を、頑丈に作り上げてしまった。

 世界中で自分だけが不幸な目に遭っているように思えても、それは身勝手な酩酊でしかない。離婚する夫婦は、この果てしない世界では、ありふれた存在で、その顛末も似通っている。曰く、価値観の不一致。曰く、不貞。曰く、無職。曰く、不妊。曰く、暴力。曰く、借金。どんな別離も、誰かの取り決めた枠組みのどこかに、破れて路傍に打ち捨てられた安物の雨傘のように、ぶらりと引っかかって、虚しく風に揺れている。

 裏返された砂時計のように、私たちの結婚生活は始まった。

 夏月は、過敏な女性だった。私の主観は、その錐を揉み込むような鋭さに傷つけられた。結婚したばかりの頃、私が便座を下げずに、立ったまま用を足すという、極めて男性的な慣習を堅持していると、彼女は猛烈に不快感を示した。立ったまま用を足すと、見えない飛沫が便器周辺に飛び散って非常に不衛生であり、そうした慣習は早急に改めてもらわなければ困る、飛沫を散らして臆面もないのは、無神経ではないか、というのが彼女の言い分だった。私としては、長年培った慣習に忠実に振舞っただけで、そんな風に怒られるのは不快である、男ならば誰だって立って用を足すように習慣付けられているものだと反駁を試み、火に油を注ぎ、焚火を山火事に発展させた。そういう奇妙な、断片的なこだわりを、彼女は後生大事に守り抜いていた。ペットボトルの蓋を開けたまま、テーブルに放置することも、衛生上好ましくないと彼女は言い張り、しばしば私に指導を加えた。食事中に料理の汁がテーブルへ跳ねたままになっていると、それがいかに些細な一滴、黒子程度の一滴であっても顔を顰めるのが、夏月の流儀であった。そうした過敏さは、育ってきた環境のなかで培われた彼女の感覚的傾向であり、異なる環境で生まれ育った私の感覚的傾向が、彼女のそれと齟齬を来すのは、当たり前と言えば当たり前の話なのだが、彼女はそのズレを見過ごせないたちなのであった。そして私も、そのズレを許せない彼女の性格に、不満を感じずにはいられない、未熟な旦那であった。

 

 夕暮れの船橋駅は、混み合っていた。東武線の改札へ通じる階段の下で、私は夏月が来るのを待っていた。彼女は何時も、約束の時刻に少しだけ遅れた。

 切れ目が見つからないほどの雑踏であっても、二月の寒気は襟や裾から、無遠慮に忍び入る。私は小刻みに顫え、夏月の姿を探した。普段は十五分前後の遅刻なので、今日は拍車が掛かっている。駅のコンコースを離れ、寒風の吹き抜ける駅前のロータリーで、莨に火を点けた。あいつは、寒空の下で待たされる人の気持ちに配慮しないのか。化粧の完成度が、そんなに重要か。不満が陰湿な言葉の束となって、護摩のように燃える。

 私たちは大学の同級生で、春が来れば社会へ出て、身を粉にして働く生活に飛び込まねばならなかった。私は経済学を勉強していて、彼女は英文科に在籍していた。就活も終わり、卒論の提出も済んで、私たちには、春までの短い休暇と、学生であることの自由を惜しむ権利が認められていた。それは束の間の、影絵にも似た幸福であった。執行猶予を認められた徒刑囚の生活だ。潜在する不安が、絶えず帯電して、火花のような痛みを刻む。私は印刷会社に就職が決まり、彼女は旅行代理店の窓口に配属されることが決まっていた。行く手には、明確な軌道が準備されていた。

 駅のコンコースでは、バレンタインの催事が賑やかに開かれていて、横文字の装飾が風に靡き、ジャンパーを羽織った若い女性たちがチョコレートの売上に血眼であった。夏月が来るまで、私は無言で彼女たちの立ち居振る舞いを眺めた。百貨店の正面玄関の大きな硝子戸の向こうには、柔らかい照明の光が満ち、受付嬢の笑顔が見える。寒さはやがて、骨の髄まで達し、震えが止まらなくなる。ヴァイオリンが艶やかに楽曲の主題を奏でるように、待たされることへの苛立ちが劇しさを増していく。

 結局、夏月が到着したのは十八時だった。彼女は息せき切って駆け寄り、水道橋にあるカフェのアルバイトが、予定外に長引いてしまったと言い訳して、許しを乞うた。ごめんね、本当にごめんね。約束していた映画の時刻まで、もう余裕がなかったので、言い争いは切り上げて、私たちは寒空の下へ歩き出した。京成船橋駅の高架を潜り、ビルの隙間に紛れ込むように建った小さな映画館まで歩く。大手の配給会社が選ばない、マイナーな作品を上映することに情熱を注いでいる独立系の映画館で、大学の映画サークルに所属する夏月の行きつけだった。私はマニアックで難解な現代映画に関心はなく、見るとしても今週の興行成績ランキング一位の、分かり易くて、馬鹿でも楽しめるような作品しか選ばない。そもそも、芸術的な感性というものが、脳幹に麻酔を打たれたように鈍い人間なのだ。

「貴方は他人の心に敏感じゃない。小さな、些細なことに敏感じゃない」

 口癖のように、彼女は敏感であることの尊さと、鈍感であることの罪悪に就いて語った。私は辟易した。あらゆる人間が、例えばチェコの若手監督が撮った、アル中の男性と自傷癖のある九歳の女の子との背徳的な性愛を描き、ナボコフの「ロリータ」からの引用が随所に挿入される、無闇に画面の暗いフィルムの価値を、理解しなければならない義務は存在しない。そんな条文は、少なくとも日本国憲法の如何なるページにも記載されていない筈だ(私は日本国憲法の条文を一行たりとも暗記していないが)。酒臭い息を霧のように吐きながら、鰥が呟く「ロリータ」の頻繁な引用を、夏月のように「高度なポエジー」として賞讃する忍耐強さ、殆ど自虐的としか思えない強靭な忍耐力を、私が真似る理由はない。私はもっと単純に、劇場版の「踊る大捜査線」でも眺めて、適度な刺激を大迫力のスクリーンから受け取り、日常の鬱屈を紛らわし、一八〇〇円の料金に釣り合う程度の満足が得られれば、文句はないのであり、レイトショーで安く済ませることが出来れば猶更ベターだ。そもそも、ナボコフという作家がどれだけ偉いのか、見当もつかないし、その小説の引用を忍者の撒菱のようにスクリーンへ突っ込むことが、如何なる芸術的達成なのかも分からない。そんなとき、隣同士で座っていても、私は夏月が異星人のように遠く感じられる。

 いつものように映画館に入り、ポップコーンとコーラを買う。夏月に付き合って難解極まりない映画を鑑賞する労苦を軽減する為には、このポップコーンが欠かせない。柔らかくて、塩気とバターの加減が絶妙で、間違っても火が通り過ぎて固くなったパチンコ玉のような失敗作は混じっていない。ところが夏月は、飽く迄もスクリーンを真剣な眼差しで見凝めることに総力を結集しており、私の頬張るポップコーンが、ゴミ収集車に呑まれていく段ボールのようにバリバリと音を立てることが、視聴覚の芸術である映画への深刻な侮辱であるように感じるらしく、睨み付ける横目の鋭さはまるで、極道の妻のようだ。

 その日、私たちが見た映画は、先鋭的な洋画を好む夏月には珍しく、日本人監督の作品であった。新潟の酒造家の息子として生まれた青年が、己の同性愛的傾向に気づき、妻と幼い子供を捨てて、流浪の生活に飛び出すロードムービーで、伊勢神宮へ参拝したり、青木ヶ原樹海でキャンプしたり、広島県呉市の親戚の家で刃傷沙汰に及んだりと、相変わらずの荒唐無稽な筋書き、最終的には新宿二丁目の路地で知り合いのやくざにベレッタで射殺されるという、笑うべきなのか悲しむべきなのかも見えてこないような大団円を迎え、リンキン・パークの劇しいシャウトと共にスタッフロールが高速で流れて、物語は終わった。一体、何が言いたいのか、何を訴えたいのか、何を観客の心に届けたいのか、皆目分からない不親切な作品であったが、夏月は放心したように動かなくなり、頬を紅潮させている。私は呆れた。豊かな感性が、このような不条理極まりない映画に心を揺り動かされる神経を指す言葉だとしたら、それは一つの病気なのではないか。彼女は精神の最も大事な部分を、名前の分からぬ病によって蝕まれ、深く損なわれているのではないか。そのうち、手首を切り始めるのではないか、いや、若しかしたら既に家で切ってるんじゃないか? しかし、映画館を出て、上機嫌に作品の感想を語る彼女の瞳の輝きには、生命力が漲っていて、情け無いことに私は見蕩れてしまう。船橋駅周辺の、ちょっと猥雑で安っぽい盛り場の空気と、彼女の語る観念的な芸術論は、相容れないように見えるが、彼女は自分が置かれている構図の滑稽さなど、意に介さない。そうやって自分の美意識を守り抜いて譲らない、背筋の伸びた姿勢は、彼女に対する敬愛を、私の内面にいつでも育てた。