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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

小説「昊の棺」 4

 結婚した後も、夏月は旅行代理店の仕事を続けていた。印刷会社に勤める私は土日祝日が公休で、シフト制勤務の夏月は不定休、休みは合う場合も合わない場合もあった。或る晴れた土曜日の朝、錦糸町の職場へ出かける夏月の背中を見送ってから、私は洗濯機を回し、床を掃除し、洗面台と浴室を磨き上げて、無糖のコーヒーを一杯飲んでから家を出た。豊四季の実家へ向かう為である。

 船橋から東武野田線に乗り込み、柏駅で大宮行きに乗り継げば、我が故郷、豊四季の地に辿り着く。特に際立った産物や名所旧跡に恵まれている訳でもない、学生の多い静かな住宅地であるから、西船橋駅のような殺人的喧噪に襲われることもなく、下車する乗客の姿は疎らであった。

 母親の不用意な一言が齎した災禍に就いて、私は明るいリビングルームで冷たい麦茶を喫しながら切々と訴え、母親の不明と軽率を詰ることに、当面の時間を費やした。母親は、のらりくらりした青大将的対応で私の攻撃を迎え撃ち、やがて私の好きな茶菓を盆に載せて差し出すことで、不機嫌な息子を籠絡しようという狡智を発揮した。薄皮の饅頭で、中身は私好みのきめ細かい漉し餡であったから、幸福な咀嚼が、切迫した批判に取って代わった。

「別に急かした訳じゃないけどね」

 母親は煎茶を啜りながら、夏月を呪縛する不幸な思い込みを訂正しようと試みた。

「だけどあんた、あんた自身はそれで良い訳? 子供が出来なくても?」

 改めて問われると、咄嗟に何も言えなかった。じっくりと腰を落ち着けて、自分は子供を欲しいと思っているのかどうか、底知れぬ心理の湖沼の深みまで降りていって、秘められた欲望の内側を厳密に捉え直した経験は、此れまでなかったからだ。だが、子供のいない一生を無理に想像してみると、その生涯には何か大切なものが欠落しているような、あるべき歯車が外れて針の狂った柱時計を無言で眺めているような、そういう索漠とした光景が広がっているように思われた。こうした光の射さない状況を放置するのは人生における決定的な損失かもしれないという新たな考えが、鳳蝶のように翼を広げて、私の狭苦しい脳内を騒がしく飛び交った。うむ、このままではまずい。そういう焦躁が、打ち上げ花火のように刻一刻と、炸裂の瞬間へ近付いていった。

「欲しくない訳じゃないかな」

「だったら、ちゃんと調べてもらったら良いでしょうが。何も意地を張らなくても、駄目だったら駄目で諦めもつくんだから」

 固より、検査を受けることには吝かでない私であったから、母親の意見は流し素麺のようにつるりと私の胸底に滑り込んだ。結論を出してしまえば、彼是と思い悩む日々から解放され、答えの見えない問題を巡って、愛する伴侶と不毛な暗闘を重ねる必要も無くなる。だが、そういった私の考えは、本当は重大な欠陥を孕んでいた。夏月は答えや結論に辿り着くことが怖いから、病院の検査を厳しく拒んでいたのだ。けれど私は、仕事を終えて疲弊して帰ってきた夏月に改めて、同じ話を蒸し返してしまった。

「何なの、いったい」

 夏月の瞳が明るく燃え立った。無論それは肯定的な感情による効果ではなく、激情の沸騰であった。夕食を終えてコーヒーを飲みながら、私は彼女に、検査を受けて原因を明らかにし、黒白を決することを提案し、理解を得ようとしたのだが、結果的にそれは、夏月の逆鱗に両手で掴みかかるような蛮行となった。

「あたしは嫌だって言ってるじゃない。あんたのお母さんの意向は意向で、あたしの感情や信念はそれとは別のものだし、それを二人がかりで、家ぐるみで捻じ曲げようとするなんて卑劣な行動だわ。あたしは検査を受けたくありません。授かるときは授かるでしょうし、そうでなければ、それまでよ。あたしたちは別に、徳川将軍家でも天皇家でもないのよ。世継ぎが生まれなくたって、社会は少しも困らないわ!」

私は口を噤み、罵言の夕立に、傘も持たずに堪えるよりなかった。だが、私も悪意から斯様な提案を行なった訳ではなく、不幸な軋轢を解消したいという想いに嘘はなかった。

「俺だってこんな不毛な言い争いに何時までも時間を割いていたくはないんだよ。だから、はっきり答えを出しちゃえば楽になれるじゃないかって言ってるんだ。仮に不妊であったとしても、だからって母親が君を粗略に扱う訳じゃないし、そもそも医学的な原因は俺の側にあるかもしれない。別に君の信念を傷つけたり損なったりする為に俺は考えて行動してるんじゃない。授かるときには授かるというのも正論だけど、答えが見えないのは、君にとっても苦痛じゃないのか」

 私の悲痛な訴えはしかし、彼女の心を揺さ振らなかった。

 沈黙が重苦しく堆積し、夏月は浴室へ消えた。私は汚れた食器をシンクに突っ込んで莨を吸った。周りを大きな蚊が唸りながら飛び回っていた。夏はゆっくりと、地球儀のように回りながら過ぎた。重なり合う蝉の声が、滅びの歌に聞こえた。

 

 その夏の諍いが分水嶺となって、私たちの夫婦生活に立ち籠める暗雲は一層濃さを増した。病院の検査を強く要求する私の姿勢は、夏月にとって忌まわしい心理的負荷であり、悪意を孕んだ攻撃であり、人格の否定であり、自由の圧殺であった。そんな意図はなくとも、そう映じてしまったことは事実で、それが私たちの絆に変容を強いた。

 緩慢な速度で温められていく薬缶のように、私たちは眼に見えない変化の前で少しずつ屈折していった。傷が痛めば、自然と人間は痛む箇所を庇いながら動くようになる。それと同じで、不妊という確証された訳でもない曖昧な傷口を開かせない為に、私たちはセックスという営みから遠ざかり始めた。

 触れ合うことがどれほど重要な意味を持ち、絆の維持に役立っていたか、それは触れ合うことが当たり前であるような関係においては推し量り難い。肌の温もりや心臓の鼓動として相手の存在を感じるというのは、単なる会話や食事とは異なる経験であり、その崇高な時間は他の何物によっても代え難い。

 愛する女を抱擁愛撫接吻し、翡翠の如き俊敏さで挿入前後運動膣内若しくは膣外若しくはゴム内に精を放つ一連の動物的営みが、直ちに愛情の確証として通用するとは限らないことは、私も頭では理解していたが、不妊を巡る諍いの後に出来した事態であったがゆえに、私は夜の夫婦生活の廃止と、愛情の供給の停止を、二つの独立した現象として取り扱うことにリアリティを感じられなかった。夏月のスタンスはどう見ても、性交一般の拒否であるというより、私との性交との拒否であるように思われ、男性としての自尊心は、坂を転げるように衰弱していった。

 我々は避妊する習慣を持たなかったので、互いに生殖機能が健常であれば、早晩夏月が懐胎することは確実であっただろう。逆に言えば、避妊せずに性交を繰り返すことは、結果として不妊の深刻さを裏付けることになるかもしれず、そうした事態を懼れて、夏月は控えめにセックスを拒み始めた。早い段階で、彼女は避妊具の装着を私に願い出た。しかし、私としては、避妊具の装着は不妊問題の圧殺に等しいように感じられたので、受け容れられないと彼女にはっきり告げた。すると彼女は、不機嫌な表情で押し黙り、ベッドタイムを静かに敬遠した。思えば、それは彼女なりの譲歩であり、悲痛な懇願であったのだが、愚鈍な私は彼女の発した信号の意味を理解しなかった。結果として彼女は急速に、頑迷な禁欲主義者に転身し、私の性的アプローチは悉く一蹴されるようになった。

 愛しているにもかかわらず、性交渉の機会を持ち得ない、しかも一つ屋根の下で暮らしているにもかかわらず、その躰を抱き締めることが許されないという不条理は、私の精神に、塩酸を浴びたような腐蝕を強いた。当初、婉曲に示されていた拒絶は、日を追う毎に表現を先鋭化させていった。但し、その時点では、未だ夏月の私に対する愛情は絶滅していた訳ではなく、不妊問題を巡る精神的負担がセックスレスの濫觴であったので、彼女の側にも有責の感覚があり、セックス以外の場面では寧ろ積極的な親愛の表現が飛び出すことも稀ではなかった。言い換えれば、セックスレスは彼女の主観的障碍の表現であって、私に対する敵意や憎悪の告示ではなかったのだ。例えば彼女は、セックスレスによって生じた私の内なる空洞に気付いており、それを埋め合わせ、補償するかのように甲斐甲斐しく家事に勤しみ、豪華な晩餐を誂えて仕事から帰った私を出迎え、温かい風呂を準備し、何時も清潔なワイシャツと下着を整えてくれた。それは余りにも完璧な業務遂行であった。だが、私の空白は見え透いた埋め合わせで満たされるほど、矮小なものではなく、彼女の家事の完璧さは却って、彼女の行動が義務感に強いられたものであることを、間接的に示しているように思われた。

 蜘蛛の巣に搦め捕られた貧相な羽虫の如く、私は身動きのならない日々に迷い込んだ。私は彼女の献身的な「補償」を受け容れるべき立場にあり、セックスの実現に情熱を燃やしても、それによって今後の二人の生活が、双方にとって望ましいゴールへ向けて纜を解くことはない。寧ろそうした行動は、彼女を窮鼠に変え、消え残った愛情さえも揮発させるだろう。そうなれば、愈々世界の終わりであり、時計の針は破鏡の瞬間を指し示すであろう。

 私たちは別々の方向を見凝めていて、その眼差しは時折、交錯しながらも、結局は二つの平行線の上を走る列車のように、重なり合わない。手を繋いで近所のスーパーへ買い物に行くこともなくなり、一緒に夕餉の食卓を囲まなくても違和感を覚えなくなり、相手の勤務日程に関心を懐かなくなり、寝る前に一日の出来事を語り合う習慣も廃れていった。干潟が水門を閉ざされて滅んでいくように、愛情は渇きつつあった。