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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

小説「昊の棺」 5

 軈て、私の側に異変が起きた。大病を患ったとか、精神を病み始めたとか、そういった陰惨な変事ではない。要するに私は、満たされぬ想いを晴らそうとして、他の女に手を出してしまったのである。

 相手は、その春から私の勤務する印刷会社に新卒採用で入ってきた、宮村藤香という女であった。彼女は、営業事務の人間として、伝票の取扱や電話応対の作法を頭に叩き込むところからスタートしていた。先輩にくっついて、新しい仕事を貪欲に吸収していこうとする彼女の姿勢は眩しく、眼を惹かれた。狭い監獄に閉じ込められた囚人の眼に、格子窓から見える夏の大空は、他人が見るそれよりも美しく鮮烈に映じるものだ。この虹は、冷たい雨に打たれた私にしか見えないだろう。

 

 確かあれは、八月の終わりであった。私たちは何時ものように仕事帰りに居酒屋へ入り、冷たい麦酒を呷り、仕事の愚痴やプライベートな話を肴に、愉しいひと時を過ごした。夏の暑さは箍を緩ませ、汗ばんだ肌や、寛いだ襟許が、ビジネスライクな自制心に無数の綻びを生み出した。思い返せば大人になってからの数年間、久しくこのような恋愛の軽快な歓びを忘れていた。

 夏月は金曜から日曜まで、新規の旅行プランを立ち上げる為の情報収集や取引先との折衝という名目で、金沢へ出張に出ていた。入社以来、窓口業務にずっと勤しんでいた彼女は最近、自ら希望して旅行商品の企画を行なう部署へ異動しており、爾来、出張が多くて、公休消化も儘ならないような多忙の日々を送っていた。窓口に飽きたのだと彼女は言っていたが、それだけが理由であるとは思えなかった。元々、仕事に対する情熱は特別に強い方ではなく、私と休みが合わないことを愚痴ることもしばしばであった彼女が、自ら異動希望を出したり、休日返上で働いたりするようになったのは、明白に私との関係が錆び付き始めてからであった。私が家へ帰るのを億劫がるのと同じ経緯で、彼女も家へ帰るのを気鬱に感じるように、何時しか変わっていたのだろう。子供を持たない我々にとって、家へ帰ることは必ずしも重大な責務としての意味合いを含んでおらず、よく言えば互いに自立して、家庭の因習に縛られることなく闊達な自己実現の日々を送っていると看做せるが、内実はそんなに明るく健やかな話ではなくて、要するに定番の鎹を持たぬ我々の関係は互いの心境一つで右にも左にも振れる脆さを孕んでいるという訳だ。どんな荒っぽい運転をしても、哀れな乗客を意に介さず、危険な海域へ突っ込んでいきかねない自制心の欠如が、特に不妊を巡って関係が拗れて以来、ずっと続いていて、結局は夫婦という仕組みの重要な機能や役割に関する無関心が、無際限に膨張しているのであった。仕事に熱中する余り、家で過ごす休日を心待ちにする自然な感情さえ擦り切れて色褪せ、職場で過ごす時間を人生の枢軸に据える勤労熱心な二人に、別れの陰翳は既にちらついていたのだろうが、はっきりそうと割り切って結論に指を掛けるほどの覚悟も断念も絶望も、当時は未だ整っていなかった。

 私は旗日が休みで、それは御同業である藤香も同じで、故に金曜日の夜に明日の休暇を宛て込んで気持ちが寛いだり華やいだり、兎角伸びやかな気分で畳んでいた翼を存分に羽撃きたくなるのも共通の傾向であった。その上、面を突き合わせれば気まずい想いが漂うばかりの妻は仕事で三日も家を空けており、今夜の帰りが、或いは明日の帰りが何時になろうと咎められる心配もなく、殊更に言い訳を講じる手間も省けて、抑えられていた積年の欲望が纜を断ち切るように暴れ始めるのも、享楽のイグニッションキーを劇しく捻りたくなるのも、当たり前の現象であった。たとえそれが、淪落という言葉の相応しい非常識な痴態であったとしても、物哀しい夫婦生活の持続によって頂点まで高められた反動は、勇ましいほどに後先を考えぬ無謀な情熱に貫かれて、ブレーキペダルの理性的な指示に対する忠誠を、路傍へ投げ捨てた後であった。

 終電の時刻が目前にまで迫ろうと、互いに腕時計の文字盤へ視線を投げることは当然のように避けて、構わず新しい酒のオーダーを入れながら、金曜日の華やかな浮かれた夜は刻々と更けていった。冷えたジョッキの麦酒で交わした乾杯から、色合いの鮮やかなカクテルやら、ソーダで割った焼酎やウイスキーを通過して、高級な新潟の清酒の徳利を二人で分け合いながら傾ける頃にはもう、二人とも極限まで酔いが回って語る言葉も辿々しく、躰に触れ合う指先から遠慮や迷いや躊躇いは揮発して虚空へ消え去り、この後、綺麗に別れて自宅へ帰る考えなど何処かへ置き忘れたような顔で、歓楽の時を過ごした。順調に時計の針は文字盤の上を滑翔し、終電車の時刻を無事に通り越して、茅場町で途方に暮れた。無理に帰ろうと思えば帰れない訳でもないが、勿論半ば意図的に臨界点を突破した二人であるから、終電車が出てしまったことは家に帰らず夜を過ごす為の恰好の口実となり、二軒目を梯子するには充分に酔い過ぎて足許も覚束ない上に体力も残っていないので、自然と足は盛り場から裏通りへ逸れた界隈へ向き、一夜の宿りを求めて彷徨を始めた。

 如何にも連れ込み宿的な外観の間抜けな看板を掲げたホテルには流石に、目的があられもなく露骨になるようで気が退けたから、極めて凡庸で機能的な見てくれのビジネスホテルが二人の仮の褥に選ばれた。会計を済ませて受け取ったカードキーを、背広の上着の胸ポケットに差し込んで、酔漢特有の浮ついた頼りない足取りでエレベーターホールへ向かい、ドアが閉じて階数表示が切り替わり始めるのと同じくらいのタイミングで、押し付けるように濡れた唇を重ねて舌を深く絡めた。アルコールの魔力は様々な理性的制限を撤廃し、内なる野性は恥も外聞もかなぐり捨てて猛り狂い、今自分たちが踏み越えようとしている一線の背徳的な含意さえ、情欲に浸されて狭まった雌雄の視界からは外れていた。

 ホテルに備え付けられた患者服のような寝間着を纏って、藤香が湯上りの肌を火照らせながら出て来るのを待つ間、私は焼け付くような喉の渇きを、廊下の自販機で購入した冷たい硬水で落ち着かせ、久々に感じる性的な動悸に懐かしさすら覚えつつ、頭の片隅で、自分の行為が持つ罪悪に就いて考えていた。自分の行為が夏月に対する明白な裏切りに該当することは、議論の余地を持たなかったし、そんな当たり前の認識を道端の薄汚い側溝に投げ入れてホテルまで藤香と一緒に流れ着いた訳ではなかった。勿論、一から十まで承知の上で、自分は職場の後輩との色恋沙汰に溺れることを選び取り、その甘美な背徳の果実を貪ろうと企てたのだ、それは単に酒精の魔力の所為だけではない、日頃の禁欲の鬱積が、劣情の黒幕と化して総ての陰謀の糸を背後から操っているのだった。怨霊のような日頃の無念が腐臭を放ちながら、私の理性や道義心に寝返りを教唆する声が、酒を呑んでいる間もずっと、耳鳴りのようにしつこく聞こえていた。その染み入るような誘惑に、私の脆い良心は堪えきれず屈服した。目の前に吊り下げられた、若く瑞々しい甘美な果実(何だか爺臭い表現だが)を頬張る快楽は、鮮烈なイメージとなって、導火線を蒼白い火花が辿るように私の脳内神経ニューロンを駆け巡り、その興奮は堪え難いほど狂おしく胸を慄わせ、鼓動をユーロビートのように劇しく高鳴らせた。日々、薄い塵のように積み重なってきた夏月への怨嗟が今は、却って禁断の快楽を煽り立てる刺激的な香辛料のように効いて、私は巡ってきた絶好のタイミングに総身を委ねた、彼女の躰は柔らかく、その肌の弾力は力強く、その肢体は優美な曲線を描きながら薄暗い室内の、無数の男女が濡れながら交わってきたリネンの上で、有能な外科医の執刀を待つ重篤な患者のように無抵抗であった。

 私たちは情欲に噎せ返りながら、体力の続く限り交わった。私が目覚めたとき、藤香は安らかな寝息を立てていた。化粧を落として迫力を失った目許に、カーテンの隙間から夏の光が触れていた。