サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

小説「昊の棺」 8

 過去は過去であり、現在とは区分されるべきである。その区分を守る為に、人間の脳には忘却という機能が生まれつき組み込まれている。だが、過去は黒い光のように、閉ざされたドアの隙間から、明るい未来の方角へ向けて射し込む。純白のドレスを掠める、不吉な履歴書の陰翳。擦れ違うように付き合った異性との交遊の記録。それは記憶の片隅に滴り落ちた墨汁の一滴に過ぎない。しかし、男性との交際に疎く、実家の手厚い保護を受けて、長じてからも揺籃で眠る姫君のように暮らしてきた紫の心が、墨汁の一滴さえ目敏く見咎める潔癖症と手を繋いでいたとしても、不思議ではない。

 西船橋の家には、約八年間の夫婦生活の痕跡が随所に遺されていた。あからさまな写真の類は総て処分してあったが、例えばトイレの便座カバーの色調、例えば寝室の壁に掛けられた時計のデザイン、例えば食器棚に置き忘れられた丹塗りの短い夫婦箸が、独身男性の蛆が沸くような暮らしには相応しくないアイテムであることは論を俟たない。彼女が実家から運び入れた様々な生活用品によって、それらの痕跡は忽ち駆逐され、新しい日々の放つ目映い輝きの前に埋没してしまう筈であったが、紫の眼光は、痕跡の痕跡すら見逃さなかった。

 過保護な親許で観葉植物の如く育て上げられた紫が、男には想像も及ばない独特の繊細さを備えていることは、事前に見抜かれて然るべきであった。しかし鈍感な私は、新しい門出に際しても相変わらず、航海の準備に多くの手抜かりを抱えていた。春の人事異動が発表され、私の勤め先が懸念された遠方ではなく、寧ろ近場の海浜幕張になり、此れで転居の労苦を免かれたと安堵していたところへ、俄かに紫が引っ越しの希望を持ち掛けてきた。無論、不意討ちと思ったのは私の誤認であり、夏月との記憶が消え残っている西船橋での生活に、紫が平穏な心境で臨んでいた筈もなかった。彼女は私の配置転換の宛先が決まるまで、新居に移りたいという願望を口にすることを堪えていたのである。それが彼女なりの愛情であったことは言うまでもなく、同棲開始からの二箇月弱の期間が強いた屈辱を、本来ならば私は埋め合わせるべきであった。

 だが私は、引っ越すことが嫌で、新居を決めるのは籍を入れてからでも良いではないかと反駁した。紫は控えめな口調で、前妻と暮らしていた家に住むことの辛さを語り、理解を求めた。しかし私は彼女の正当な要求に耳を傾けることを拒んだ。

 意識の上では抑圧されていたが、夏月に対する溶け切らない角砂糖のような執着が残っていて、それが引っ越しへの抵抗を呼び掛けていたのかも知れない。確かめようのない推論だが、紫の繊細な直感は、黒いコーヒーの水底に沈む、忘れ去られた海賊の財宝のような、甘い未練に気付いていたのかも知れない。だからこそ、私の怠慢な応対は彼女の心に、どす黒い痣を作ったのだ。やがて彼女は涙さえ流したが、私はそれを疎ましく思い、女の武器の威信に屈することを恥辱とすら感じて、転居を受け容れなかった。

 私の頑強な抵抗によって、紫は転居を断念し、表向きは機嫌を直したように見えたが、それが律儀な仮面であったことは、言うまでもない。同棲を始めてから半年も経たぬうちに、彼女は夕食の席で、生真面目な表情を私に向けた。貴方と別れようと思います。此処から出て行きます。

 その宣告は、想像していたよりもずっと透明な、熱を欠いた言葉の連なりとして、私の鼓膜を揺らした。嗚咽を堪えるように語った紫の心に、劇しい感情が渦巻いていなかった筈はない。責任は、その思い詰めた通告を受け取った私の心理に存していた。言われた瞬間に、私はまただ、と思った。また、あの時と同じように、私は愛する女に捨てられようとしている。しかし動揺は乏しかった。訣別を告げられても、心が熱病のような痛みに顫えないのは恐らく、紫に対する愛情が、擬似的なものであったからに違いない。紫の存在を、一つの有機的な対象として、捉えていたのではなかった。彼女は、残念ながら代用品であった。埋められず、乗り越えられないままに引き摺り続けている、火口のような古傷に塗り込む為の膏薬として、二人の関係は築かれていた。彼女の切り出した別れ話を、私は胃薬の如く黙って嚥下し、静かに頷いた。その冷淡且つ煮え切らない反応に、消え残っていた希望の一滴さえ揮発していく音を、紫の耳はきっと聴いたであろう。涙が乾くと、彼女は顔を洗い、浴室に消えた。シャワーの水音が遠くから壁を隔てて懶く聞こえ、私は生温い水道水に浸かった洗い物の片付けに取り掛かった。歴史は繰り返される、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。確かに、こんなのは茶番だ。初めから誠実な愛情を捧げて来なかった女性と、将来を考えて、同じ家で暮らし始めた。何の準備も整っていないのに、警報の鳴り出した踏切を慌てて駆け抜けるように、何時までも付き纏う過去の陰翳を振り払うように、私は紫を迎え入れた。道化師の悪企みに過ぎなかったのだ。

 翌朝、彼女は入念な化粧を施し、徹夜で整理した荷物を玄関先に積み上げて、迎えの車を待った。紫の弟が、大きなセダンで姉と荷物を引き取りに現れ、私を猛烈な形相で睨み付けた。私は顔色一つ変えずに、荷物の積み込みを手伝い、彼女を家から送り出した。車が発進するとき、紫はもう振り返らなかった。穏やかな月曜日の朝だった。総合テレビのニュースは、原発から流れ出す、放射能に満ちた汚水の問題や、沖縄の米軍基地移設問題に就いて、様々な情報と、それに対する論評を列挙していた。全く、平凡に暮らしているだけでも、こんなに多くの「問題」が続々と持ち上がるのは、一体、何の因果だろうか。焼いたトーストにバターを塗ろうと冷蔵庫を開けて、一昨日、最後のバターを使い果たしたことを思い出した。仕方なく、味気ないパンを齧って、苦いコーヒーを啜った。

 

 稚児ヶ淵を見下ろす崖の上には、暗い夜の帷が降りていた。夏の夜風は、有り触れたティーシャツを帆布のように繰り返し叩いた。波音が鼓膜に染み込むように響く。夏月は、今頃、何処でどんな生活を送っているのか、妄想を試みるが、鮮明な映像が脳裡に結ばれることはない。商品企画部の係長と、その連れ子と三人で、休日は遊園地に出掛けたり、買い物に行ったりして、幸福な想い出を日捲りのカレンダーに焼き付けているのだろうか。それはきっと、ただ互いに存在していることを確かめ合うだけで満ち足りるような、純粋な「共有」の世界なのだ。存在しているだけで、人間は満たされ得る。それを幸福と名付けるのならば、私は明らかに、幸福ではない。

 岩肌に打ち付ける波音は、暗闇の果てから押し寄せる死の音楽として、屈み込んだ私の肉体に届いていた。私は眼を瞑って、その禍々しい音楽に耳を傾けた。禍々しいと言っても、それは単なる波音の連なりで、人間の情念と手を結ぶことのない、自然の律動に他ならない。禍々しく聞こえるのは、私がその純粋な律動に誘い込まれるように、身を委ねようとしていたからだ。内なる衝動が、私を暗い海に吸い寄せようとしていた。一方で、諸々の人間的感情が、自然の律動に抱かれようとする盲目的な欲望に、苛烈な抗議の叫び声を浴びせていた。騙されてはいけない、其処から先は、人間の為に建設された領域じゃない、一旦入り込めば、もう二度と出られなくなる。怯えが全身を駆け巡り、恐怖が筋肉を鋳鉄のように竦ませる。

 私は何時までも崖の上から動けなかった。帰り道を辿る意欲も失せていた。一度、巡回と思しき男性の靴音が聞こえたが、咄嗟に地面へ腹這いになって息を潜めた。月が高く昇り、その光が底知れぬ暗闇を湛えた海面に、硝子のように瞬いていた。靴音が消えると、私は衣服の汚れを払い、再び海原に向かって座り込んだ。燈台の光が、等間隔で頭上を飛び越え、夏の闇を薙ぐように、虚空を貫いた。