サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

野放図で猥雑な「語り」の力 佐藤亜紀「バルタザールの遍歴」

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今夜は佐藤亜紀氏の小説「バルタザールの遍歴」について書こうと思います。

 元々新潮社から単行本が刊行された後、絶版を経て現在は文春文庫に収録されているこの作品の特徴的な魅力は何と言っても、その独特でシニカルで饒舌極まりない「語り口」にあります。史実と虚構を織り交ぜた物語世界を打ち立てるに当たって、作者が採用した特異な「語り」の構造というか技法は、単調な文学的文章、或いは通り一遍の娯楽小説で使われている凡庸な写実的文章などとは比較にならない、洗練された超絶的技巧に達しています。

 おそらくは、一七四八年かたじけなくもハプスブルク家の傍系のあまりぱっとしない公女たちの一人が我が家に降嫁なされ、時刻に譬えるなら午後三時といった帝国ではさほどの希少価値もなかった――今日に至ってはまったく無価値な公位をもたらした時には既に、この習慣は定着していたと見える。幸運だが凡庸な当主の名は私同様、メルヒオール・フォン・ヴィスコフスキー=エネスコ伯と言った。彼は女帝陛下お気に入りの廷臣であり、その系図には既に、たっぷり紋章を十六分割できるだけの貴族のご先祖が名を列ねていた筈だが、一体そのうちの誰がこんなことを始めたのか、今となっては調べも付かない。ともかく、一族直系の男子は、洗礼式と言うと必ずどこからともなく現われる夥しい数の親族の祝福を受け、祝福と共に夥しい数の洗礼名を与えられたが、華々しい名前の行列の先頭に立つのは必ずカスパール、メルヒオールまたはバルタザールで、それ以外の名はあるというだけで殆ど使われさえしないのが常だった。 

  この極めて息の長い、幾重にも折り重なった単語と単語の複雑な関係性は、この作品を覆う独特な世界観の礎石として機能しています。後の傑作「ミノタウロス」なども同様ですが、描き出される内容以上に、この強烈に個性的な文体の効果で、独自の作品世界は構築されているのであり、こうした饒舌でアクロバティックな語り口が導入されていなければ、本作を読むという行為がこれほどまでに刺激的な魅惑によって包み込まれることはなかったと言えるでしょう。

 作者が早稲田大学で行なった文学講義を纏めた「小説のストラテジー」という書物の中でも、氏は小説のことを「記述の運動」として捉え、物語の内容よりも、その内容と相関して選択され書きつけられた「記述の魅力」こそ、小説と呼ばれる芸術的ジャンルが有する価値の中核であるという風に述べておられますが(この要約が適切だという自信はありません。悪しからず)、実際、この作品を読んで感じるのは「語り方」というものの重要性であり、中身が何であれ、それをどのような「言葉」と「声」で語るかという問題こそ、小説家が追究すべき最も重要なポイントなのだということです。言い古されたことですが、古来、物語の構造というものには有限のパターンが存在しており、彼是と奇想天外な筋書きを拵えた積りであっても、大昔から受け継がれてきた説話論的構造(©蓮實重彦)の呪縛を免かれることは殆ど不可能に等しいものです。物語的な因果関係の構造に無限のバリエーションを望むのは無謀と言うべきで、幾ら才能に恵まれた作家であったとしても、そのような枠組みを借りずに一連の文学的営為を演じ切るのは至難の業でしょう。

 重要なのは物語の構造ではなく、それを或る「記述」に落とし込んでいくための方法論であり、実践であるという氏の主張は、文学というジャンルを他の芸術的領野から切り離す上で最も重要且つ固有の要素である「言葉」に着目したとき、至極尤もな王道的見解であることが分かります。没落したハプスブルク帝国の貴族の子弟が、只管に転落していく姿を描いたこの作品の「内実」は恐らく、平均的な日本人にとっては決して馴染み深いものでも、感情移入の容易なものでもありません。にもかかわらず、読者がその縁遠い「異界」の入り組んだ出来事の連なりに惹きつけられ、呑み込まれ、知らぬ間にページを繰り、ウィーンから北アフリカへ至る破天荒で無鉄砲な旅路の光景を追体験してしまうのは、偏に作者の強靭な語り口が示した効能であると言える筈です。

 ここには、自分の知らない「異界」を味わうという素朴な意味での「ファンタジー」の偉大な達成があり、この小説を読むことで私たちは何の所縁もない前世紀のヨーロッパにおける貴族階級の不幸で滑稽な「転落」のプロセスを仮想的に経験することが出来ます。この小説は徹頭徹尾「転落」を描いていますが、それは決して昔の日本における私小説が扱ったような庶民的な窮迫の情景とは異なります。何と言えばいいのか、架空の手記の語り手に擬せられたメルヒオールとバルタザールの兄弟は、どれだけ身を持ち崩したとしても性来の貴族的な高潔さと驕慢とも呼び得るプライドを捨て去ることがないのです。一体、佐藤亜紀氏の他に誰が、これほど濃密且つ克明に「没落するオーストリア帝国の貴族」の酒臭い末路を描写し得るでしょうか。もっと言えば、私たちにとって決して馴染み深いとは言い難い「ヨーロッパ」の歴史的記憶に、どうしてこれほど強烈な執着を懐き得るでしょうか。

 作者の内面を無断で推し量ろうと試みるのは褒められた趣味ではありませんが、この小説を読んで感じる卓越したリアリティとは裏腹に、描き出された幻想の内実が、私たち日本人の生活から切り離された「趣味的」な雰囲気を漂わせていることを踏まえると、この作品の創造へと作者を駆り立てた内なる「衝動」が、「ヨーロッパという異郷」への切実な憧憬によって支えられていることは確かな気がします。ここまで優れた日本語の文章を駆使して、徹頭徹尾「ヨーロッパ」を舞台にしたファンタジーを築き上げるということ自体、私たちの国では余り一般的とは言い難い作風であり、その背景に「日本的な現実への軽侮」みたいなものを見出すのは、捻じ曲がった根性の齎す「厭らしい考え」に過ぎないとしても、一定の説得力を有する見立てではないかと思うのです。どれだけ「転落」したとしても失われることのない「貴族的な高潔さ」は、戦争に敗れてアメリカの軍門に降った私たちの国では最早、邂逅することを望み得ない「断絶した伝統」であると言えます。別に作者が戦争論を語っているとは思いませんが、奇しくもこの突拍子もない物語の後景には常に、軍国主義時代の日本と同盟を結んだナチスドイツの動向が関与していますし、アドルフ・ヒトラーに関する記述も散見します。祖国をナチスによって「接続=併合」されたヴィスコフスキー=エネスコ伯は、果てしない転落の道程を辿りながらも、断じて哀れな「降伏」など選ばず、反時代的な「高潔」を選び続けます。素行の悪さとは対蹠的な「清廉な魂」の姿に、そのような「貴族的精神」を喪失した現代日本への皮肉のようなものを読み取るのは、穿った見方に過ぎるでしょうか。

 いずれにせよ、傑作であることは間違いないですし、作者一流の「強靭な語り口」に酔い痴れてみるのも一興かと存じます。

 サラダ坊主の推薦図書の御時間でした!

 

バルタザールの遍歴 (文春文庫)

バルタザールの遍歴 (文春文庫)