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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

思い出はいつもキレイだと、昔、テレビで歌っていたけれど

追憶

今週のお題「20歳」

 

 十代の頃、私はいつも鬱屈した、満たされない思いを抱えて日々を生きていた。特別で崇高な悩みの種を抱えていたという訳ではない。誰だって十代の半ばから終わりにかけての季節に、原因も定かでない訳の分からぬ迷妄という奴に囚われることはあるだろう。そういう有り触れた麻疹のような流行り病に、当時の私も蝕まれていたというだけの話だ。しかし、傍目には有り触れた流行り病に過ぎなくとも、それを患っている当事者自身は、まるで世界の滅亡を間近に控えているかのように、何でもないことすら不幸の予兆のように捉えて、只管に悩み抜くのが通例というものだろう。

 それを青春に固有の病だと決めつけるのが適切な判断なのかどうか、三十の誕生日を迎えた今でも未だに分からないままだ。体は徐々に衰え、風邪の治りは悪くなり、時勢に遅れていき、段々と頑迷な固定観念という魔物に脳味噌の中心を銜え込まれるようになっても尚、私は二十歳の頃と同じように物分りが悪く、世間知らずで、未熟なエゴイストである自分の殻を脱することが出来ない。

 二十歳の頃、既に私は勤人だった。大学をたった一年で中退し、高校卒業と同時に始めていた駅ビルの青果店のレジ打ちのバイトに明け暮れ、実家暮らしのまま親の脛を好き放題に齧りながら、堕落した青春という奈落に呑み込まれていた。実に怠惰で夢も希望も将来性もない男だったと言える。そして私は十九歳の夏に付き合っていた女性を妊娠させ、大慌てで頼りないフリーターの境遇を引き払い、正業というものを探し求めてハローワークに通い詰める日々を送った。最初の妻は離婚歴のある子持ちの女性だったから、私は何の取り柄も資格もない退屈な青二才の分際で俄に二児の父とならねばならなくなり、それなりに気負って職探しへ奔走した。

 最初に雇ってもらったのは回転寿司屋の正社員だったが、労務環境の苛酷さに直ぐに心を圧し折られて意気阻喪し、概ね半月で辞めた。次に入ったのは業務用の複合機を売る販売代理店で、着慣れないスーツに身を固めた私は右往左往しながら営業マンの真似事を始めた。割り当てられた電話帳のコピーを広げて、片っ端から電話を掛け、商談のアポイントメントを取り付けるべく奮闘する訳だが、何の知識も持ち合わせていないド素人の営業マンのたどたどしい勧誘の文句に耳を傾けていられるほど暇を持て余した社会人など何処にも存在しないに決まっている。電話攻勢は悉く生温い失敗に終わり、専務の罵声が飛び交う息詰まるようなオフィスの中で、私はどんどん精神的に追い詰められていった。ビギナーズラックで一件だけ、リースではなく買い取りのちんけな契約を成立させることが出来たものの、それが奇蹟的な幸運に過ぎないことは痛いくらい分かっていたし、社内に瘴気の如く立ち籠めている苛烈な「世間の荒波」という奴に打ちのめされて、結局三箇月ほどでその会社も辞めてしまった。それも妻の誕生日に。

 無職となった後、家にいても針の筵のような気分で落ち着かず、ハローワークへ三度通い詰める傍ら、私はグッドウィルに登録して日雇い派遣の仕事で焼け石に水ではあったが、僅かばかりの現金を稼いだ。ビールやパンを製造する工場に夜勤で送り込まれ、日給数千円で日暮れから明け方まで働くのだ。夜通し、ベルトコンベアに乗って流れてくる夥しい数のビールのボトルを点検し、口金の部分に汚れが付着していないか確かめるだけの単純作業や、同じように流れてくる無数のビールケースをホースとブラシで只管洗い続ける作業。西船橋の物流センターへ行った時は、用済みになった空っぽの折り畳み式のコンテナ(所謂「折りコン」)を延々とメーカー別に仕分けして台車へ積み込むという作業を何時間も続けた。いずれも、特別な技能を要求される訳でもなく、知識や経験が積み上がる訳でも、何らかの人脈が出来上がる訳でもない単純極まりない作業ばかりだった。夜中、静まり返った工場の喫煙所で立ったまま、苦い煙草を吸いながら、私は、こんなところにいてはいけない、こんな生活を続けていたら自分はダメになってしまうと本気で思い詰めたものだった。

 名前を呼ばれることすらない、使い捨てであることが歴然としているような日雇い派遣を何回か重ねているうちに、運良く現在の勤め先に拾ってもらうことが出来た。食品の小売業で、私は販売部の社員として店舗運営に携わることになった。それから早いもので、十年が経つ。二十歳で籍を入れた後、二十五歳の時に離婚して、二十七歳の終わりに現在の妻と再婚した。思い返せば、長い二十代だった。楽しいことも辛いことも人並みにあったが、もう一度繰り返せと言われたら堪えられる自信は余りない。人生というのは恐らく一回限りだから美しいのであって、時間を遡るなんて絶対に願い下げだ。

 私は後悔をしない主義なので、自分が経由してきた様々な紆余曲折を恥じたり嘆いたりすることはない。反省すべき点は多々あるが、後悔している訳ではない。煎じ詰めれば、後悔なんて所詮は自己愛の産物に過ぎないのだ。自分のことが可哀そうで流す涙ほど濁って汚らしいものはない。他人のために涙を流しているのだと思い込んでいるときでも、人は往々にして、自分自身の痛ましさを慰めるために涙を流す。だったら、さっさと涙を拭い去って顔を上げる方が遥かに建設的な態度ではないか。

 どんなに屈辱的で忌まわしい思い出も、大抵のことは、年月の流れを経て次第に脱色され、灰汁を抜かれていき、痛みの走るような記憶の細部さえ、甘美な追憶の一節と化してしまう。二十歳の頃、身重の妻とその連れ子を抱えて、じりじりするような孤独に追い詰められていた私自身の姿は今も、夏の陽炎のように記憶の内部で揺めいている。美化し過ぎているだろうか? だが、あのときの孤独が私を育てたことは事実なのだ。誰かに好きだと言われるよりも、あなたなんかもう愛していないと言われる方が、人の心は強くなる。離婚の苦しみも、再婚の喜びも、総ては二十歳の時のやけっぱちで無思慮な決断の瞬間に通じている。思い出は確かにいつもキレイだ。そして、その美しさは常にとても無責任なものだと相場が決まっている。