サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

拙作「昊の棺」についての覚書

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 私の拙い短篇小説「昊の棺」について、幾つかメモ的なことを書き残しておこうと思います。

 この小説を書こうと思い立った時、私が心掛けたのは「簡潔な筋書きを決めておく」ということでした。最低限の枠組みだけ決めておいて、後は文章の勢いに任せて書きたいように書き殴っていく、つまり極めて単純な楽譜を本能の赴くままに演奏する、というような書き方をイメージして初稿を綴ったのです。

 この小説に関しては「離婚した男が自殺する話」という命題だけを事前に決定して、その結末に向けて只管に一人称で思いつくままに書き進めていきました。物語の構造を極限まで単純化して簡明に定めておく代わりに、文体に関しては成る可く色々な約束事には縛られず、自由闊達でありたいと考えたからです。

 しかし、最終的には入念に推敲を行ないました。その結果として、作品の「雑味」が取り除かれた代わりに、文章として痩せ細ってしまった部分もあるかもしれません。推敲という作業は、その気になれば幾らでも延々と繰り返すことが可能ですし、そうやって磨き上げた結果が、審美的な基準の転換によって忽ち「原石」に舞い戻ってしまう虞もあって、どこまで行っても決着のつかない徒労のような感覚を、書き手に齎します。どこで打ち切ればいいのか分からないまま、自分なりの「改善」を積み重ねて、現在の形に落ち着いているのですが、これも果たして「完成」と呼ぶに相応しい状態なのか、自分自身でも未だに確信が持てないままです。

 ですが、完成しているかどうかなんてことは、その作品がどのような価値を持っているのかという問題に比べれば、遥かに些細な事柄であると言えるでしょう。推敲を重ね、自分なりに「これで完成だ」という区切りをつけたとしても、その区切りの判断が適正なものかどうかなんて、自分自身で決められる問題ではないのです。

 未完成であろうが、自分なりの完成品であろうが、大事なのは第三者の眼に触れられる状態に作品を置くということではないでしょうか。そう考えて、この凡庸な落選作をアップしました。是非御一読願えれば幸いです。

 深夜の船橋から、サラダ坊主がお届けしました。