サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主風土記 「長野」(善光寺・小布施・湯田中) 其の二


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 今日は随分以前に最初の記事を書いたまま、ずっと放置しておいた紀行文の続きを書こうと思う。何故そのように思い立ったのかは自分自身でもよく分からない。だが、此間「20歳」というテーマに合わせて当時の自分の生活や感情を思い返し、掘り起こして文字を列ねながら、こういうことも、きちんと書き留めておかなければ時間の経過と共にどんどん忘れ去ってしまうんだろうなと感じたことが、その背景にあるとは言えるかもしれない。勿論、総ての出来事や経験を鮮明に記憶し続けることなど不可能だし、それが悪いとも思わないのだが、少しずつでも、断片的でもいいから、こうやって思ったことや考えたこと、体験したことなどを書き留めて記録に残しておくのも、十年後、二十年後、或いは死ぬ間際の自分のためには、何かしら役に立つものではないかと思うのだ。

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 前回書いてから随分と間が空いたので、何から書けばよく分からなくなってしまったので、先ずはおさらいのような感じで始めようと思う。

 昨年の晩夏、私は妻と長野県へ旅行へ出掛けた。東京駅から、開業して間もない北陸新幹線の「かがやき」に乗って、かつて足を踏み入れたことのない(通過したことしかない)長野県へ赴いたのは、単純にそこが見知らぬ土地であったからだ。私たち夫婦は余りアクティブではない(端的に言って「出不精」のきらいがある)タイプの組み合わせなので、名所旧跡をずんずん積極的に駆け回ろうという感じにはならない。その夏の初めに妻の妊娠が判明したこともあり、のんびりと成る可く躰に負担を掛けないようにしたかったという背景もある。だから、善光寺へ行って、小布施へ行って、湯田中の温泉に浸かって、余りスケジュールは過密にせず、淡々と旅情を愉しもうという算段になった。善光寺と温泉なので、三十を過ぎたばかりの新婚夫婦にしては、随分と抹香臭い趣味かも知れない。

 長野電鉄の特急に乗って、私たちは先ず小布施へ向かった。栗の里として知られる(私たちは旅行の計画を立てるまで、小布施という土地が存在し、山間の小さな街並みにも関わらず、なかなかの知名度と観光客の数を誇っているという事実に関して完全に無知だった。私は会社の上司から、長野へ行くなら小布施に立ち寄るといいと勧められたのだ)小布施は、実に静かな古びた駅舎を玄関口にしていて、駅前の閑散とした感じは、それでも寂れた地方都市のような陰鬱さとは無縁の、どこか清々しいような静寂、まさに「閑寂」という形容が相応しい雰囲気だった。静まり返った駅のホームには晩夏の陽射しが燦々と降り注ぎ、周りには田畑が広がっていた。

 駅前からの道を、私たちは駅舎で貰った簡素な印刷の地図に導かれてゆっくり歩いた。一番の目当ては蕎麦で、信州へ来た以上は蕎麦を食わない訳にはいかないというのが妻の主張だった。私は元々関西の出身で、蕎麦には余り馴染みがなかったが、小布施で食べた田舎蕎麦は実に美味しかった。蕎麦の上に蓋のように乗せられた巨大なかき揚げが食べ応え抜群で、店を出る時には結構しんどかった。食べた後で、私たちは北斎館という葛飾北斎の作品を中心に展示する壮麗な美術館へ行った。丁度、アメリカ人の蒐集家が集めた浮世絵の肉筆画の膨大なコレクションの展覧が行われていて、そういうものに滅法疎い私たちは、それでも熱心に作品を一点ずつ鑑賞して回った。こういう不似合いな事柄に手を出すというのも、旅行という非日常的時間に固有の習慣であって、日頃は美術館など絶対に出かけることがない私たちでも、旅先となれば不慣れな経験にも重い腰を持ち上げてみようかという気分になるのは不可解な現象だ。実際、その稀少な肉筆画を仔細に見物してみたところで、その芸術的価値を理解することなど出来ないのに、私たちは奇妙なほど熱心な観客だったと言える。

 だが、北斎館ならばまだしも観光客が足を運ぶのに不自然とまでは言えないだろう。建物の造りも立派で洒落ていて、鑑賞代もそれなりに高い。金を持っている高齢の夫婦なんかには似合いの遊び場で、実際問題、館内を歩いているのは熟年の方々ばかりだった。私たちは明らかに場違いだった。若いと言えるのは私たちの他には、受付に坐っている異常に化粧の厚い女性だけだった。

 蕎麦を食う前に私たちが立ち寄ったのは「日本のあかり博物館」という小さな建物で、そこは要するに日本古来の「灯り」の変遷を具体的な展示物やビデオ上映などを通じて教えてくれるという、いかにも社会科見学向きの博物館だった。ランプシェードにもシャンデリアにも全く興味のない、風流人とは言い難い私たちが立ち入るには相応しくない、地味なところだったが、これが意外に面白かった。所謂「灯り」を年代や使用する油の種類、形状など、様々な基準に則って区分してあり、眺めていると大変興味深い。浮世絵の肉筆画よりも遥かに目立たない趣味だろうが、旅情という魔物の効果なのか、私たちは北斎館よりもずっと熱心に展示物へ視線を食い込ませていた。

 なんで長野の山奥の小さな町に、こんなに幾つも美術館があるかと言えば、それは彼の地が観光産業の振興にかなり積極的であるからで、しかもその振興は結構具体的な成果に繋がっている様子だった。小布施駅の待合所に、そのような趣旨の新書が置かれているのを、列車が来るまでの待ち時間にぱらぱらと捲って知ったのだ。栗の名産地ということで、栗菓子をメインに押し出した店が数多く建ち並んでおり、信州蕎麦の威光だけに頼っていない辺が野心的だと言える。

 そのうち小雨が降り出し、私たちは駅へ戻って湯田中行きの特急を待った。古い小田急ロマンスカーの車両を転用した特急で、首都圏に暮らしていながら一度もロマンスカーに乗車したことのない私が、長野の山間で偶然にも乗車することになるなんて、奇妙と言えば奇妙、本末転倒と言えば本末転倒だった。それから湯田中まで、私はずっと車窓の景色を眺めていた。いや、途中から転寝を始めたような記憶もある。

 長野電鉄の車両に揺られて線路を走っている間、私は視界の彼方にイオンモールの看板が聳えているのに気付き、何だか夢を壊されたような気分に陥った。別にイオンに何の罪もないが、それは余りに見慣れ過ぎた光景であり、いわば「日常」の象徴であった。何というか、無遠慮なのだ。何食わぬ顔でどこにでも陣取り、同じような商いに精を出しているイオンのロゴは、日頃の通勤途中に利用する新鎌ヶ谷駅からも、津田沼駅からも眼にすることが出来る。私は長野という単語から、魅惑的な「田舎」の風景を期待していたのだ。それが独善的な欲望に過ぎないことは弁えているし、一方的に「田舎」という幻想を当て嵌めるのが失礼であることも承知している。だが、それは紛れもなく「興醒め」であって、それは湯田中へ着いた後も感じられた。古びた温泉街のホテルの窓から、ロードサイドに見えるホームセンターのような外観の店舗と、その在り来たりの看板を眺めた時も、私はそこに「秘境」の気配が漂っていないことにはっきりと失望した。

 その数日間、集中豪雨で鬼怒川の堤防が決壊し、世間は大騒ぎになっていた。夕食の配膳を居室で待ちながら、私たち夫婦は、悲惨な水害の映像を繰り返し流すテレビの画面にずっと見入っていた。