サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第三章 追跡の始まり 2

「ちゃんと前を見て歩かないと、怪我するぞ。気位の高い庁務官様に肩でもぶつけたら、どんな言いがかりをつけられるか、分かったもんじゃないんだ」

 軍用鉄道管理隊の庁舎を出て、昼餉の為に手頃な食堂を見繕って歩きながら、パレミダは栗色の髪を揺らしてファジルに注意を与えた。

「そんなに物珍しいかね、この街並が」

「そりゃ珍しいさ。アーガセスがどれだけ田舎なのか、あんただって自分の眼で確かめただろう」

「自分の故郷を卑下するもんじゃない。誰だって、産み落とされる場所は選べないんだ」

「だからこそ、悔しくもなるんじゃないか。自分の力じゃ、どうにもならないんだから」

 アーガセスの山村で生まれ育ったことを恥じる積りはないが、故郷の平板な風景に慣れ親しんだ眼に映じるキグナシアの幾何学的な街並は、ファジルを圧倒していた。西の沙漠地方から風に乗って運ばれる砂塵に堪える為なのか、建物は石組みが殆どで、しかも整然たる直線の組み合わせで構成されている。切り出した丸太を山間の傾斜地に突き立てて、植物の葉や繊維で大雑把に屋根を葺く故郷の習俗は何処にも見当たらない。

 石畳で綺麗に舗装された街路も、草を刈って踏み均した土の道に慣れたファジルにとっては新鮮な眺めであった。往来を行き交う男女の服装も、色遣いや生地の形に至るまで洗練されていて、樵の父が着ていた無粋な灰色の山袍(樵や狩人の仕事着)とは比較にならぬほど垢抜けている。

「あれは何の恰好なんだ?」

 ファジルと然して年齢の変わらない少年の集団が、枯葉色の長袍(襟首から踝までを一繋がりに覆う衣服)に身を固めて通りを歩いていた。肩に掛けた鞄も正方形の帽子も同じ枯葉色で統一されている。

「ペレルヴェ大学の書士だろう」

「書士?」

「知らないのか。大学で勉強をしているのさ」

 大学は法令上の正式名を「大修学院」と称する高等学術機関であり、国内の主要な都市に設置されている。入学に際しては優秀な頭脳と巨額の学費を求められる為、市井の庶民には縁遠い世界であり、通えるのは専ら上流階級の子弟と相場が決まっている。

「何を勉強するのさ」

「色々さ。法律を学ぶ奴もいれば、医者の勉強に励む奴もいる。皆、将来の栄達を夢見て若いうちから齷齪と努力を積み重ねているのさ」

 遠ざかっていく書士たちの後ろ姿を見送りながら、ファジルは溜息を吐いた。将来の栄達なんて、今まで一度も考えたことがない。父親は酒浸りの樵で、如何にも学問とは無縁の日々を過ごしていたし、高名な昊読師であった祖母の厖大な知識は、学舎ではなく山間の断崖や洞穴や穹廬で習い覚えたものだ。大学に通って立身出世に備えるなどという発想が育まれる下地は、彼の生まれ育った故郷には欠片ほども存在しなかった。

「俺の知り合いで、リケイムという男が、ペレルヴェ大学に勤めている。呪工学部の訓伯様だ」

「呪工学部? 訓伯?」

 耳慣れない言葉に、ファジルは眉を顰めて不満を示した。大学がどういうものかも碌に知らない人間に、専門的な単語を用いて説明するのは不親切だ。

「要するに、偉い先生ということさ。キグナシアは昔から、呪工士の聖地だからな。専門的な研究を行なう部署があるんだ」

 市域北西部の旧公府地区に壮麗な校舎を構えるペレルヴェ大学は、一般的な大修学院と異なり、帝国文務庁の直隷ではない。キグナス公家の六代目当主である智燦公ペレルヴェが、公国の未来を担う有為の人材を育成する為に開いた「私塾」を原形としており、その運営には今も公家の影響力が色濃く染み通っている。

「どうせ四時にならなきゃ列車は動かない。暇潰しに見学に行くか」

 金持ちの家に生まれ、恵まれた環境で育った「賢い少年少女」の巣窟へ足を踏み入れるのは少し癪であったが、それよりも好奇心の方が大きかった。

「今度キグナシアに戻って来れるのは、何時になるか分からないからな」

 胸中を見透かしたように唆すパレミダの言葉に背中を押されて、ファジルは半ば反射的に頭を振った。

 

 旧公府地区は嘗て、キグナシア公国の時代に主立った官庁が軒を連ねていた界隈である。緑邦帝国による支配が開始された後、アレス・ダル広場を擁する市域中心部のティルダ地区に行政の中枢は移転したが、キグナス公家の邸宅は今も旧公府地区の高台に聳えて所領の景色を見下ろしている。

 白い肌と亜麻色の毛髪、檜皮色の瞳を特徴とするキグニム人は、クヴォール帝国の崩壊後に独立を果たし、キグナス公家を主君と仰いで連綿たる固有の歴史を紡いできた。太祖緑邦帝アルヴァ・グリイスの軍門に降った後もキグナス公家は一定の自治権を保ち、グリシオン人たちの習俗に染まり切ることを拒んだ。累代の当主が暮らしてきた古い邸宅に、修繕を重ねながら住み続けているのも、繁華な市街地から離れた不便な旧公府地区を出ようとしないのも、ティルダ地区の行政局や軍事局に象徴されるグリシオン人の権威に、秘められた敵意を向けていることの間接的な証左であった。

 公家の暮らすフォルオ・プレダーノ公宮に隣接して、ペレルヴェ大学は広大な敷地を構えていた。規則正しい植樹によって整備された典雅な叢林が、石塀に沿って果てしなく連なっている。厳めしい石造りの正門を潜り抜けると、夏の鮮やかな花々が咲き乱れる構内を、先刻見掛けた少年の集団と同じ服装の書士たちがのんびりと行き交っていた。

「長閑なところだな」

 獣車場や街路の喧噪とは無縁の閑寂な空気に、ファジルは感じ入ったように呟いた。

「三度の飯よりも学問の好きな書士ばかりが歩いてるんだ。浮世離れするのも当然さ」

 構内に聳え立つ複層の校舎が、照りつける陽光を遮って中庭に大きな影を落としている。颯爽と歩くパレミダの背中を無言で追い掛けながら、ファジルは山間の僻村で生涯を終える筈であった自分を、壮麗な異郷へ連れ出した悪戯好きの神々に密かな感謝を捧げた。

(俺の知らない広大な世界を、親父は何故隠していたんだろう)

 黒衣隊に攫われた父親を恨めしく思うのは酷な話だが、戦場の苛酷な経験も、早世した母親の生前の挿話も、何一つ語ろうとしなかった頑迷な沈黙に抗議したくなるのは自然な感情であろう。紐で束ねた明るい亜麻色の髪の穂先を、枯葉色の長袍の背中へ流した少女が、同年代の少年と弾むような声で談笑しながら隣を通り過ぎていく。その輝くような容姿に見蕩れていると、いきなりパレミダに肩を叩かれた。

「前を見て歩けと行ってるだろう。此処にいるのは皆、上流階級の子弟だ。幾ら憧れたって、君には手の届かない高嶺の花さ」

「余計な御世話だ。そんな積りじゃない」

「強がらなくてもいい。俺だって若い女を嫁に貰いたいさ」

「結婚してるのか、パレミダ」

「もう半ば骨董品だが、嫁には違いない。帝都で暮らしているよ。生まれたばかりの乳呑児を抱えて、俺の給料を待ち侘びているのさ」

 パレミダは肩を竦めて笑ってみせた。

「生きて帰らなきゃな。俺が死んだら、襁褓を買う金にも事欠くことになる」

 生きて帰らなきゃな。その言葉に、頬を打たれたように眼が冴えた。アーガセスで目の当たりにした凄絶な光景が脳裡を掠め、焼け落ちていく生家の梁が熱で罅割れるときの悲鳴のような音が鼓膜に甦る。キグナシアの平穏な風景に呑まれてすっかり忘れていたが、この旅路は安逸な物見遊山ではない。虜囚と化した父親を救出する為の、命懸けの道程なのだ。

「あれが教務棟だ。リケイムがいるか聞いてみよう」

 パレミダが指差したのは、市内で見掛けた陵塔のように天を衝いて聳え立つ円錐状の建物であった。澄み切った晩夏の蒼穹に突き刺さる尖端は、時刻を報せる為の小さな鐘楼を兼ねている。

 開け放たれた玄関から中へ入ると、滑らかな石壁に囲われた歩廊を涼風が満たしていた。軍用鉄道管理隊の庁舎で使われていたのと同じ送風機の効果であろう。夏は暑いのが当たり前だ、我慢出来ねえなら渓流へ行って水浴びでもしろ。総身に汗の粒を光らせて薪割りに勤しむマルヴェの野太い怒号に慣れ親しんだファジルにとって、送風機の冷気は神々の齎した奇蹟のように新鮮な感覚であった。

 窓口の卓子に巡察免許証を滑らせ、リケイムへの取り次ぎを依頼すると、中年の係員は怪訝な表情で立ち上がった。学究の集う平和な楽園に、血腥い巡察士が顔を出すのは珍しいのであろう。低い声で囁きを交わす職員たちの声が、潮騒のように辺りへ広がっていく。

「感じの悪い奴らだな」

 無遠慮に呟いたファジルに向かって、パレミダは唇に人差し指を当ててみせた。

「声が大きい。所詮、巡察士なんて警事局の召使ぐらいにしか思われていないのさ」

「だって、犯罪者を捕まえてるんだろう。感謝すべきじゃないのか」

「住んでいる世界が違うのさ。いいから、口を噤んでいろ」

 釈然としない思いを抱えたまま、ファジルは黙って引き下がった。或る日突然、黒衣隊が現れてこの校舎に火を放っても、彼らはパレミダのことを蔑むような眼で眺め続けるのであろうか。暴力が尊いとは思わないが、書物を繙いたり法律を論じたりするだけでは、地上に蔓延る理不尽な「悪」を打ち払うことは出来ない筈だ。

「来たぞ。相変わらず汚らしい髭面だな」

 木製の優美な手摺を備えた階段を、漆黒の長袍を纏った髭面の男が降りて来る。校庭で見掛けた書士たちの長袍とは、色も形も違っていた。

「急に何事かね、パレミダ」

 色褪せた黄檗色の髪、ほんのり紅を帯びた鳶色の瞳は、キグニム人とは異質の風貌であった。伸ばした髪は荒縄のように艶がなく、御世辞にも清潔な身嗜みとは言い難い。

「何だ、息子はもうこんなに大きくなったのか。分かった、伝手を頼ってペレルヴェ大学の書士に仕立て上げようという魂胆だな。どうせお前の息子じゃ、出来の良い頭の持ち主ではなかろう」

 男はファジルの顔を無遠慮に覗き込み、節榑立った指先で頬を抓った。

「うむ、しかし余りお前に似ておらんようだが、養子でも貰ったのか?」

「落ち着けよ、リケイム。俺の子供は未だ乳呑児さ。こいつは、マルヴェの息子だ」

「おお、マルヴェの! じゃあ、あのテリーカの血を引いておるのか。道理で、可愛らしい顔立ちをしとる訳だ」

 眼を見開いて一頻り納得したように頷いた後、リケイムは掌を打って言った。

「この子をペレルヴェ大学へ? 然しマルヴェが大学に息子を通わせようなどと考えるかね。彼奴は酒と女と呪刀術にしか興味のない男だった筈」

「落ち着けよ、リケイム。息子の前で、親父の悪評を吹聴するんじゃない」

「だが彼奴は、私が狙っておった技師の娘を酒場で口説いて路地裏へ」

「いいか、リケイム。俺たちは帝都へ向かっている」

 聞く耳を持たないリケイムの肩を掴んで力尽くで引き寄せ、パレミダは声を潜めた。

「黒衣隊が暗躍を始めた。ジェリハスとマルヴェを拉致したんだ」

「何と! あの黒狗どもが?」

「他の人間には聞かれたくない。あんたの部屋へ行けるか」

「無論だ。散らかってるが、構わんな?」

「あんたと一戦交えようって訳じゃないんだ。別に気にしないさ」

 教務棟から長い歩廊を通って呪工学部棟へ移動する間も、リケイムは俄かに齎された衝撃的な報せに興奮冷めやらぬ様子で、彼是と脈絡なく喋り続けた。

「ガルノシュ・グリイスか。あんな小僧は、さっさと始末してしまえば良かったのだ。生かしておいても、百害あって一利なしではないか」

「今更、過去の選択を嘆いたって始まらない。春影帝陛下の御聖断に難癖をつけるのは止せ」

 不敬罪に問われるぞと窘めつつ、密かにリケイムの放言を肯定しているもう一人の自分を、パレミダは否み難い思いで見凝めていた。あのとき、助命などという生温い選択肢を許さず、春影帝陛下を諫めることにもっと多くの労力を費やすべきではなかったか。そうすればマルヴェもジェリハスも、このような惨劇に巻き込まれることはなかった筈だ。

「俺たちは、此れからどうすべきかを考えなきゃならない。過去を書き換えようなんて、虚しい妄想さ」

 自分自身に言い聞かせるように呟きながら、パレミダは顔を上げた。傍らで二人の遣り取りに耳を傾けているファジルの探るような視線には、気付かない振りをした。