サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第四章 平穏の終わり 1

 夏祭りを終えたイシュマールの街は、三日間の「黙祷節」に入る。祭礼の為に地上へ降臨した神々が、無事に天宮へ戻れるように、敬虔な祈りを捧げるのだ。黙祷節の間は漁師も商人も仕事を休む。最大の書き入れ時を乗り切った「海鮮のラシルド」の従業員たちも、この有難い宗教的風習に甘んじて、ゆっくりと休養を取るのが例年の慣わしであった。

 だから黙祷節の初日に、クルスコの急な呼び出しを受けて遽しく出掛けていったサルファンの背中を、イスナは落ち着かない瞳で見送らざるを得なかった。折角の二人きりの時間を邪魔して申し訳ないなと、意地の悪い眼で迎えに来たクルスコも、召集の理由は分からないと首を傾げていた。

(何かあったのかしら)

 窓から覗く空は、夜明けの光に紅く燃えている。今更、一人きりの薄暗い部屋で眼を瞑っても、到底眠れそうにない。仕方なく起き出して、冷ました黒豆茶を啜りながら、恋人の帰りを待つことに決めた。鳴り止まない胸騒ぎに抗うより、素直に受け容れてしまった方が賢明だと思い直したのだ。

 正午近くになって、漸くサルファンは帰ってきた。扉の開く音に転寝を破られたイスナが振り返ると、彼は玄関の土間に黙って佇んでいた。その顔は、亡霊のように蒼白い。

「どうしたの、サルファン」

 乱れた寝間着の裾を直しながら立ち上がり、立ち尽くす恋人の顔を見凝める。彼はイスナの質問に答える代わりに、分厚い紙袋を床へ抛った。当惑しながら拾い上げ、中身を改めると、嘗て見たこともない大金が詰まっている。

「何があったの」

 夏祭りの激務に対する報奨と考えるには、桁違いの金額だ。仮に報奨だとしても、黙祷節の朝にいきなり呼び出して渡す必要はない。

「退職金だってさ」

「退職金?」

「店を畳むことになった。クルスコが引き継ぐ筈だったんだけど、警務官が来て、それで」

 訥々と語るサルファンの声は随所で上擦り、奇妙に裏返った。焦点の定まらない瞳は、日頃の陽気な輝きを完全に失っている。

「店長が、人を殺した」

 意想外の言葉にイスナは思わず絶句した。単語の連なりが指し示す意味を咄嗟に汲み取れず、恐る恐る問い返す。

「何て言ったの、サルファン」

「店長が人を殺したんだ」

 呻くように吐き捨てると、サルファンはそのまま頭を抱えて床に座り込んでしまった。油番の仕事を続けるうちに鍛えられ、孤児院で暮らしていた頃より遥かに逞しくなった肩が、雨の路傍へ打ち捨てられた野良猫の如く繊弱に顫えている。

「何を言ってるの、サルファン。どういうこと?」

「俺にもよく分からないんだ」

 断片的な呟きを縒り合わせても、事態の全貌を見晴るかすには足りない。とりあえず、尋常ならざる動揺に呑まれた彼の心を、正常な領域へ引き揚げねばならない。イスナは台所に立ち、新しい湯を沸かした。黒豆茶を器へ注ぎ、粗熱が取れるのを黙って待つ。

「先ずは冷静になることが大切だと思うよ。これ、飲んで」

 夏の盛りだというのに、サルファンの躰はぞっとするほど冷たかった。差し出された茶器に虚ろな瞳を向けて唇を近づけようともしないその背中を、優しく宥めるように摩る。

「大丈夫だよ、サルファン。貴方には、あたしがついてるんだから」

 救貧局の孤児院で知り合った頃から、サルファンは先輩風を吹かせるところがあって、イスナの前で頼りない姿を晒すことなど滅多になかった。最初は素直に彼の演技に欺かれて、頼もしい少年への憧れを募らせていたイスナであったが、その感情が恋心に改まったのは、サルファンの胸底に巣食う寂寥に触れたことが契機であった。考えてみれば、エルナの大津波で母を失い、天涯孤独となった彼女には未だしも、朧げな肉親の面影と、その温もりの記憶が遺されているが、嬰児のうちにイシュマール港の埠頭へ捨てられたサルファンには、産みの親に関する微かな手懸りさえ与えられていないのだ。寂寞の深さは、彼女の比ではない。その底知れぬ哀しみを少しでも和らげてあげたいと願った瞬間から、彼に対する感情は特別なものに変貌を遂げた。

「何があったのか、教えて欲しいの、サルファン」

 恋人の顔色が平常に復し始めたところを見計らって、イスナは口火を切った。

「ゆっくりでいいから、全部聞くよ。難しい話でも、必ず受け止めて、分かち合うから」

「有難う」

 短く答えたサルファンは、それでも暫くは重い口を開くことに躊躇していたが、軈て暗い表情で事件の顛末を少しずつ語り始めた。店の厨房で行われた遣り取り。ラシルドの血塗られた過去。紅髪の陰気な女。踏み込んできた横暴な警務官。抜き放たれた白刃と、噎せ返るような血の匂い。

 それは信じ難い挿話の連続であった。恋人の雇い主であるラシルドには何度か会ったことがある。がっしりとした体躯に、温厚な笑顔を浮かべた紳士という印象しかない。粗野な警務官を一刀の下に斬り伏せるような人物とは到底思えないが、サルファンが虚言を弄する理由もない。

「それで、店長さんと、その女の人は何処に行っちゃったの」

「分からない。詳しいことは何も分からない」

 床板の木目を見凝めたまま、サルファンは稽古に臨む下手な役者のように何度も同じ科白を繰り返した。その横顔には、見捨てられた者の孤独が黒い斑紋のように滲んでいる。受け止め難い現実に拉がれた心を、どうやって処理すればいいのか分からないのだ。その深甚な絶望には、見覚えがあった。突発的な禍いに平穏な日常をいきなり断ち切られる哀しみと痛みなら、あたしもきっと分かち合える。一人では乗り越え難い苦しみも、二人で背負えば少しは軽くなるに違いない。

「質問ばかりして御免なさい、サルファン」

 窶れた恋人の顔を覆うように抱き竦め、イスナは静かに語りかけた。

「少し休めば、もっと冷静になれるし、色んなことが落ち着いて考えられるようになるわ。だから、今は何もかも忘れましょう」

 柔らかな胸に顔を埋めたまま、サルファンは黙って頷いた。年下の女に母親のような素振りを見せられるのは、率直に言って気分のいいものでない。然し彼女の鼓動に耳を傾けて凝としていると、乱れた心は奇妙なほど穏やかに鎮まっていった。

 眼裏にこびりついた残虐な光景は無論、消えていない。寧ろ時間が経てば経つほど、その色彩と輪郭は鮮明さを増していくような気さえした。斬り裂かれ、焼け爛れた警務官の屍。涼しい顔で血糊を拭う紅髪の女の、いっそ無気力に見えるほど興奮を欠いた瞳。その傍らで悔しそうに唇を歪めたラシルドの、今にも泣き出しそうな顔。悪いな、皆。どうやら手遅れらしい。有りっ丈の金を君たちに渡すから、逃げてくれ。若しも再び天命が我々に味方するときが訪れたら、もう一度最初から遣り直そう。

 誰もその言葉を信じる気にはなれなかったに違いない。総てが余りに唐突過ぎて、眼前で繰り広げられた修羅場の意味を咀嚼する遑さえなかったのだ。外套を翻し、夏の日盛りの街へ消えていく二人の背中を見送りながら、サルファンは絶望という魔物に心を蝕まれていく己をどうすることも出来なかった。もう一度最初から遣り直すことなんて出来るのか。こんなにも容易く、そして呆気なく、平穏な日常は打ち砕かれると思い知らされたばかりなのに、再会の希望を信じろと言われても直ちに頷ける訳がない。

 そのとき、表の石段を踏み締める硬い靴音が、二人の鼓膜に触れた。同時に気付いて、顔を見合わせる。こんな状況で、素敵な来客を期待するのは馬鹿げている。

「誰だろう」

 掠れた声でイスナが呟いた途端、扉を叩く控えめな音が響いた。息を殺して黙っていると、先刻よりも強い力で扉を打つ音が聞こえ、サルファンの袖を掴むイスナの指先が神経質に強張った。

「警事局の人かしら」

 不穏な予言を口走ってから、その陰鬱な想像に自ら屈するように腕へ縋りつく彼女の頭を、サルファンは静かに撫でてやった。考えてみれば、身内を殺された警事局が暢気に手を拱いている筈もない。消息を絶ったラシルドを連れ戻す為に身辺を嗅ぎ回るのは当然だ。その捜査の手が、自分の許へも伸びるかも知れないという警戒を怠っていたのは、我ながら杜撰な話であった。

「大丈夫だ、イスナ。俺は何も悪いことはしていない。警事局へ連行される義理はないさ」

 事件の現場に居合わせたことは事実だが、警務官の殺害に関与した訳ではないのだ。何も怯える必要はない。無力な傍観者にも、目撃談を語って聞かせるぐらいの端役は割り当てられるであろうが、肝心の下手人の行方を知らないのだから、直ぐに役立たずと思われて放免されるに違いない。

 再び扉を叩く音に、サルファンは覚悟を決めて立ち上がった。不安げに見送るイスナを尻目に落ち着いて土間へ行き、呼吸を整える。俺は罪人じゃないんだ。相手が警務官であろうと、何も恥じることなく、ありのままを語ればそれでいい。

 鍵を外してゆっくり把手を回すと、夏の外光が薄暗い土間へ射した。軋みながら開け放たれていく扉の隙間に、黒い細身の腰袍(下半身を覆う衣類の総称)に覆われた片脚が素早く差し込まれる。視線を上げると、制帽を被った背の高い警務官が、儀礼的な笑みを浮かべて此方を見下ろしていた。垂れ下がった眦は穏和な印象を与えるが、灰色の瞳は如何なる親愛とも無縁の酷薄な光を湛えている。

「東方警務院捜査統括局のアスタークと申します。サルファンさんですね」

 男は明晰な口調で名乗りながら、サルファンの鼻先に使い込まれた警務免許証を突きつけた。

「少し御話を伺いたいのですが、宜しいですか」

「話すようなことは、何もありません」

 ありのままを話せばいいと思っていたのに、警務官の横柄な口吻に接した途端、従順な態度を取るのが嫌になった。店長が警務官を殺すに至った経緯を、はっきりと理解している訳ではない。厨房で聞かされた話は難しくて、半分も呑み込めなかった。若しかしたら、店長は誰にも見せなかっただけで、本当は血も涙もない極悪人なのかもしれない。そうでなければ、あんな風に鮮やかに、本職の警務官を屠れるとは思えない。

 だが、店長が命の恩人であることは紛れもない事実なのだ。労働の歓び、世間の善意に縋って生き延びさせてもらう孤児の身分を脱して、自らの力で人生を切り拓いていく尊さ、それは店長に雇ってもらえたからこそ、掴むことの出来た財産である。どんな過去を抱えていようと、その慈悲を忘れていい理由にはならない筈だ。

「話すようなことがあるかないか、それは此方で判断します」

 温厚だが有無を言わせない口振りは、彼が尋問の手練であることを暗黙裡に示していた。

「知ってることだけ聴かせて下されば充分です。一緒に来て頂けますか」

 優しいのは表面だけで、その裏側には汚濁しかない。身勝手な偏見だと分かっていても、感情の自然な動きを妨げられずに、唇と舌が弧を描いた。

「嫌だ」

 はっきりと言い放って、男の顔を見凝める。その瞳に積乱雲の如く湧き出した激情の片鱗に、思わず血の気が退き、身が竦んだ。

「査問令状は取得しています。貴方に拒否権はありません」

 扉の隙間から伸びた手が、サルファンの腕を掴んだ。振り払おうと足掻いても、凄まじい膂力に抗うことが出来ない。見兼ねたイスナが絨毯から立ち上がり、サルファンの背中に取り縋って甲高い声を上げた。

「止めて下さい! サルファンは何も悪いことはしていません!」

「分かってますよ。彼を逮捕する積りはありません。単なる事情聴取です」

 冷然と答えるアスタークの総身から、血腥い暴力の臭気が濫れ出ていた。話の通じる相手でも、温情を好む種類の人間でもない。

「イスナ、下がってろ」

 彼女を巻き込む訳にはいかなかった。孤児院で暮らしていた頃、イスナは誰よりも泣き虫で陰気な女の子であった。十二年前、コントラ湾の沿岸域を襲った津波で生母を亡くし、その面影を忘れる術も持たずに苦しみ続けていたのだ。嬰児のうちに埠頭へ捨てられ、肉親の顔を一つも知らないサルファンにとって、幸福な記憶が齎す哀しみというのは理解し難いものであった。だからこそ、その想像し難い魔物に脅かされて夜中に譫言を繰り返し、他の院生から嘲られ、苛められる彼女の孤独な境遇に、義憤と憐憫を覚えたのかも知れない。

「無益な抵抗は止したまえ。査問令状の効力は絶対的なものだ」

 振り被ったアスタークの左手が、吸い込まれるようにサルファンの鳩尾を打った。強烈な衝撃が骨格を揺さ振り、生温かい液体が喉の奥へ迫り上がる。

「警事局への協力は、善良なる臣民の義務であり使命であることを学ぶといい」

 粘りつく血反吐に縺れる舌を懸命に動かそうとするうちに、今度は頬骨を断ち割るような横薙ぎの拳打が襲い掛かって、視界が白く霞み、溶けるように総てが消え去った。