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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第四章 平穏の終わり 2

 水底に潜ったような息苦しさが、胸から下腹を覆っていた。痺れるような痛みが、頬に蟠っている。ゆっくりと瞼を開くと、剥き出しの無骨な梁が橙色に染まっているのが見えた。

(此処は何処だ)

 起き上がろうにも、躰に力が入らない。鉛を鋳込まれたように筋肉が重苦しく喘いでいる。辛うじて分かったのは、自分が硬い鉄製の寝台に横たわっているということだけであった。

(警事局、なのか)

 切れ切れの記憶が、少しずつ一枚の図面に組み込まれていく。あの冷淡な眼をした警務官に思い切り殴り飛ばされて、それからどうなったのかは覚えていない。だが普通に考えれば、警事局へ連行されたことは間違いないであろう。黄昏の光に燦然と輝く窓辺は、恐らく虜囚の脱走に備えて、目の粗い金網に覆われている。

「目覚めましたか」

 不意に呼び掛けられて、サルファンは懶げに頭を巡らせた。開け放たれた戸口に、若い警務官が佇んでいる。携えた盆には、簡素な食事が載っていた。

「此処はイシュマール警事局の査問室です。犯罪の被疑者や証言者の尋問を行なう為の施設です」

 淡々と語りながら、警務官は枕許の卓子に料理を置いた。色の薄い汁物、青光りする魚の切り身、筋張った畜肉の焼き物、粉っぽい麦餅。如何にも囚人に相応しい色気のなさだ。

「俺は、何も悪いことは、していない」

「それを決めるのは我々の仕事です」

 アスタークと似たような科白を吐いて、男は寝台に横たわるサルファンの腕を掴み、背中を支えて強引に起き上がらせた。

「先ずは食事を摂りなさい。此れから、長い長い査問が始まる。腹拵えをしておいた方がいい」

「此処から出してくれ」

 掠れた声で訴えるが、男は見向きもせずに料理を指差して言った。

「早く食べなさい。洗い物が片付かない」

「俺は何も知らないんだ。話すことなんて何もない。此処から早く出してくれ」

「黙りなさい」

 俄かに伸びた腕が、サルファンの頭を後ろから乱暴に押えつけた。凄まじい膂力に抗うことも出来ぬまま、料理の載った盆へ思い切り顔を押し付けられる。

「止めろ」

 零れた汁物が卓子から滴り落ち、弾かれた杯が床に転がって派手に砕け散った。

「さっさと食えと言ってるんだ」

 暴れるサルファンの頭を押えつけたまま、非情な声で命じる警務官の物腰には、囚人の虐待に生き甲斐を見出す残虐な看守の臭気が隅々まで染み通っていた。

「卑しい家畜の分際で、餌を選り好みするのかね」

「俺は、家畜じゃない」

 屈辱に息を詰まらせ、夢中で足掻くサルファンの指先に偶然、硬い何かが触れた。肉や魚を切り分けるときに用いる小振りの刀子である。咄嗟に握り締め、刃先の角度を確かめる。切れ味は鈍いが、丸腰よりはいい。

「殉国隊の外道に顎で使われていた餓鬼が、何を偉そうに吼えやがる」

憎悪に満ちた警務官の悪罵に、張り詰めた理性の糸が堪えかねて二つに引き裂かれた。横薙ぎに腕を揮って食器を床に払い落とし、満身の力を籠めて上体を捻ると、抑え込もうと圧し掛かる相手の顔面に、思い切り刀子を叩きつける。忽ち耳を劈く絶叫が迸って、警務官の躰が蝦のように仰け反り、配管の露出した殺風景な天井を悶えながら振り仰いだ。

 憤怒と驚愕に荒れ狂う警務官の眼球に、刀子が深々と突き刺さっていた。頬を濡らす涙のように、紅い液体が顎を伝って制服の襟を汚している。その不吉な色彩が、俄かにあの惨劇を甦らせた。閃光のような斬撃、崩れ落ちる警務官、醜悪な血溜り。

(殺らなきゃ、殺られる)

 迫り上がる恐怖と、奇襲に成功した興奮が混ざり合って、サルファンは狂ったように男の躰へ掴みかかった。そのまま床へ押し倒して胴に跨り、眼窩から刀子を乱暴に引き抜く。激痛に再び警務官が悶え、口の端から血の混じった泡を吐いた。

(お前が悪いんだ)

 内なる囁きは、総ての罪を肯定するように甘く響いた。

(先に手を出してきたのは、お前の方だ)

 握り締めた刀子が慄きながら高みへ掲げられ、ゆっくりと下を向いた。

(だから、死ねばいい)

 眼を瞑って、不快な感触を懼れながら一息に振り下ろす。鈍い手応えと共に喉笛を貫いて、生温かい鮮血が辺りへ飛び散った。

(死ね死ね死ね死ね死ね死ね)

 男の反応が途絶えるまで、延々と刀子を捻じ込むうち、切先は軈て床の石畳へ達した。断末魔の苦鳴が消え去り、痙攣する四肢が萎れるように動きを失っていく。

(死んだ)

 見開かれた瞳は樹木の虚のように暗く沈んで見えた。刀子を握り締めた手に、濁った返り血が顔料の如くこびりついている。

(殺した。俺が殺したんだ)

 慄きながら立ち上がり、屍を見下ろす。先刻までの粗暴な態度が嘘のように、その死に顔は絶対の静寂に覆われていた。

(俺は人殺しだ)

 部屋の隅に置かれた水甕に血塗れの手を突っ込んで、荒々しく指や掌を擦り合わせる。だが、穢れた肌は吸い込んだ血を吐き出そうとしなかった。消えない痣、罪人の徴。俺は、何を遣ってるんだ?

 唐突に迫り上がり、肺腑を貫いた恐懼に気圧されて、サルファンは監房を飛び出した。薄暗い廊下を狂ったように駆け抜け、出口を探す。こんなところにいるのが、そもそもの間違いなのだ。虐待も殺人も辞さない粗野な警務官どもの巣窟に連れ込まれた所為で、何かが決定的に変わってしまった。運命の車輪が、不吉な轍を描き始めてしまった。俺はこんな場所にはいたくない。誰か此処から、今直ぐ連れ出してくれ。

最初の角を曲がったところで、ガーシュを銜えた年嵩の警務官と鉢合わせた。束の間、怪訝な表情を浮かべた後、男の双眸に冷酷な看守の光が宿った。

「貴様、何故無断で出歩いている」

 問いには答えず、踵を返して猛然と反対の方角へ走り出す。恫喝に慣れた男の老練な怒号と荒々しい靴音が、背筋を鞭打つように廊下へ響き渡る。騒ぎを聞き付けて、他の警務官たちも血相を変えて捕り物に加わり始めた。サルファンは無我夢中で駆けた。全身の血が恐怖に滾り、心臓が早鐘のように脈打ち、視界が汗で白く暈ける。息が切れ、膝が顫え出しても、逃亡を止める訳にはいかなかった。警務官を殺したことが露顕すれば、拷問だけでは済まされないに決まっている。イスナの不安げな面差しが眼裏を過った。ねえ、サルファン。一体、何処へ行ってしまったの?

 幾度も角を曲がり、非常用の階段を駆け上がって、裏庭へ通じる出口を行く手に捉えたところで、サルファンの脚は凍りついたように動きを止めた。無機質な灰色に塗装された鉄扉の前に、背の高い警務官が腕を組んで佇んでいる。黒い細身の腰袍には見覚えがあった。目深に被った制帽の蔭から、男の冷ややかな声音が響いた。

「聞き分けのない少年だな、君は」

 崩れ落ちそうになる下肢を辛うじて支えながら、サルファンは手近な壁に寄り添うように凭れた。

「繰り返すが、君への査問令状は取得済みなんだ」

 アスタークはゆっくりと歩き出しながら、軍刀の柄に革手袋を嵌めた指を絡ませた。

「公許による捜査に、拒否権はない。無駄な抵抗は誰の為にもならない」

「俺が何をしたって言うんだよ」

「何も知らないんだな」

 制帽の下に垣間見える瞳は、理知と野性を混ぜ合わせた独特の光を湛えていた。

「何故、ラシルドが殺人を犯したのか。何故、ラシルドはイシュマールから脱出したのか。君は恐らく、何も知らされていない」

「だから、知らないって何回も言ってるだろ」

 少しずつ近づいてくるアスタークの剣呑な気魄に射竦められ、サルファンは壁際に屈み込み、動けなくなった。掌で耳朶を覆い、鼓膜を塞ぐ。何も聞きたくない。何も知りたくない。こんなところには、一分一秒たりともいたくない。

「それでも君に、査問を免かれる権利はない」

 抜き放たれた軍刀の鋒鋩が、緩やかな弧を描いて垂直に天井を向いた。眼を瞑ろうとしても、冷えた鋼のように強張った瞼が逆らい、眼差しを背けることが出来ない。

「ラシルドの関係者というだけで、充分に粛清に値する。雑草を刈り取るときには、土壌ごと掘り返すのが我々の流儀だ」

 駆け付けた警務官たちの遠巻きの視線が、通用口へ向かう廊下に満ち濫れた。アスタークの威厳に弾かれるように、誰もが手を拱いて野次馬を決め込んでいる。

「愚かな少年よ」

追い詰められた野兎のように身を縮めて蹲るサルファンの頭上で、西日を受けた軍刀の刃が生き血を吸ったように紅く輝いた。

「己の非力を嘆き、死ね」

 刃が一閃し、隼の如く虚空を裂いた。サルファンは蛹のように身を竦めて瞼を閉じた。これで終わりか。イスナを残して、俺は死ぬのか。絶叫が、喉まで迫り上がる。その瞬間、耳障りな金属音が頭上で弾け、警務官たちの響めきが鼓膜を打った。

「危ねえところだったぜ」

 サルファンは眼を見開いた。視界の全面を覆うように逞しい警務官の背中が聳え立ち、その段平にアスタークの振り下ろした白刃がぎりぎりと食い込んでいる。

「貴様」

 驚愕に揺れるアスタークの瞳に、根深い憎悪が染みのように広がる。その粘つくような眼差しに臆することなく、男は軍刀を押し返し、そのまま段平を横様に振り抜いた。剣尖が稲妻のように閃いて膝頭を掠め、アスタークの軍服を僅かに引き裂いた。

「残念だったな、アスターク。此れ以上、お前の好きにはさせねえぜ」

 段平を構え直して、男は不敵な笑みを頬に刻んだ。禿げ上がった頭に、古びた刀創の痕が幾つも走っている。

「何処から忍び込んできた、カゲイロン」

「更衣室さ。警務官の制服に袖を通すのは久々だが、案外似合ってるだろ」

 何食わぬ顔で嘯きながら、カゲイロンは段平の鋒鋩をアスタークの顔に向けた。

「東方警務院の捜査統括局佐にまで出世した重役が、イシュマール警事局で餓鬼を相手に軍刀を揮うなんざ、あんまり気分のいい眺めじゃねえな。一体、誰の差し金だ」

「貴様に話すことではない」

「古い馴染みじゃねえか」

「馴染みではない。腐れ縁だ」

 吐き捨てるように言い放ち、再び軍刀を垂直に構えるアスタークの顔を、カゲイロンは正面から見据えた。

「ガルノシュ・グリイスが動き出してるらしいな。隊長の塒を襲ったのも、彼奴の命令だろう。違うか」

「此処で話すことではない」

「悪いが、帝国義勇軍の栄光は、そう簡単に消えやしねえ。策を弄するのは勝手だが、何人屠ろうと、スヴァリカンの血盟は生き続ける。二十年前の敗北から、お前は何も学ばなかったのか」

「意味が分からんな」

 アスタークの瞳に、飢えた野獣を思わせる禍々しい光が宿った。

「ガルノシュに帝位を呉れてやる訳にはいかねえのさ。殉国隊の矜りをもう一遍思い知りやがれ、アスターク!」

 咆哮と共に、カゲイロンの巨体が発条で弾かれたように動き出した。そのまま横薙ぎに振り抜いた刃は、アスタークの胴を僅かに掠めて空を切る。その頭上へ凶悪な一撃を浴びせかけたアスタークの軍刀は、石畳を強かに叩いて澄んだ音を響かせた。カゲイロンは上体を捻って左へ逃れ、野太い腕を唸らせてアスタークの背後から脾腹に斬りつける。刃先が肉を抉り、燃えるような痛みを植え込む。払い除けるように放った斬撃は宙を舞い、アスタークの胸から胴が無様に開いた。その瞬間を捉えて、強烈な袈裟斬りが走る。深い手応えが刀身を伝い、分厚い掌を揺さ振る。鮮血が弧を描いて床に散り、顔を歪めたアスタークが膝を突いた。その背中へ、段平の鋒鋩が鞭のように吸い込まれる。胃袋を破いて貫かれた肉体は俎板に叩きつけられた蝦の如く無惨に躍った。

「衰えたな、アスターク。飼い犬稼業は、戦士としての誇りを腐らせたか」

 穿たれた軍服の背に黒々とした染みが滲んでいく。夥しい血に口許を濡らしながら、アスタークは喘ぐように言った。

「主は違えど、俺たちは所詮、誰かに仕えて刃を揮う、筋金入りの飼い犬だ。飼い犬には、飼い犬の矜持がある。それを、忘れた覚えはない」

 カゲイロンは荒々しく段平を抜き取った。前のめりに崩れ落ちるアスタークを、頬の返り血も拭わずに見凝める。

「詭弁だと罵りたいところだが、心情は分かる。精々、心安らかにくたばれ、悪党」

 周りの警務官たちは、瞬く間に過ぎ去った格闘の光景に、言葉を失っていた。東方警務院随一の剣客と謳われるアスタークを斬り伏せた男は、そんな観客たちを無言で睨み据えた。血で染まった段平を提げて、ゆっくりと歩き出す。誰もが勝算のない相手だと分かっていたが、数名の警務官が職責を忘れず、軍刀を抜いた。

「犬死する必要はねえぜ。アスタークが勝てねえ相手に、お前らが勝てる訳ねえだろ」

 血塗られた段平でアスタークの亡骸を指しながら、カゲイロンは静かに言った。

「それとも、命より大事な価値の為に、今此処で俺に弔い合戦を挑むのか?」

 声を荒らげた訳でもないのに、彼の恫喝は警務官たちの心胆を凍てつかせた。新米らしい数名が早々と刀を投げ捨てて逃げ出し、それを皮切りに警務官の矜持も総崩れとなった。追い縋ろうともせず、彼らの撤退を見送ってから、カゲイロンは段平を鞘に納め、サルファンを振り返った。

「怪我してねえか」

 ラシルドとフェロシュが警務官相手に見せた立ち回りも凄かったが、この男も負けていない。全身から放たれる戦士の貫禄に、サルファンは射竦められたように動けなかった。

「さっきまでの度胸は何処へ消えたんだ? 名前ぐらい名乗ったらどうなんだ、俺は命の恩人だぜ」

 銜えたガーシュに火を点けながら、カゲイロンは言った。

「助けてくれて有難う。俺はサルファン」

 棒読みの自己紹介が、精一杯の応答であった。カゲイロンは頬の返り血を乱暴に拭い、煙を吐いた。

「俺はカゲイロン。ラシルドの古い戦友だ」

「店長の?」

「お前にとっては店長か。奇妙な響きだな。あいつは殉国隊の隊長だった男。単なる揚物屋の親父じゃねえ」

 カゲイロンは屈み込んで、サルファンの眼を間近で見凝めた。

「俺だって、今は贋物だが、昔は本物の警務官だった。南方警務院の暴徒制圧局長として、並み居る悪党どもの失禁を誘ってたのさ」

「今でも充分、凄いんじゃないか」

 先刻の立ち回りが、眼裏に染み込んで拭えそうにない。港で偶に見かける船員の喧嘩など、顔を背けたくなるほど残虐に感じることもあったが、今の彼には児戯としか思えなかった。顔を背ける遑すらない、血風の飛び交う圧倒的な光景。

「案外落ち着いてるじゃねえか、悪餓鬼」

 カゲイロンは嬉しそうにサルファンの肩を叩いた。手加減しているだろうに、床に尻が減り込みそうだ。

「お前、一緒に来るか」

「一緒に? 何処へ?」

 思わぬ提案に、サルファンは眼を丸くした。

「此れからラシルドを追って帝都へ向かう。お前も連れて行ってやるよ」

「俺は、この街を離れる気はない」

 慌てて訴えるサルファンに、カゲイロンは肩を竦めてみせた。

「この街に残るのは危ねえ。分かるだろ」

「何でだよ」

「お前は警事局を脱獄した重罪人だ。今まで通り平和に暮らすなんざ、夢物語さ」

「何も悪いことをしていないのに、一方的に連行されたから逆らっただけだ」

「そんな言い分、通ると思うか」

 カゲイロンはサルファンの瞳を覗き込んだ。

「偶然とはいえ、お前は警事局の闇に触れちまった。闇を覗いた人間を、連中が無事に生かしておく訳がねえ」

「そんな」

「お前は警務官を殺したんだ」

 反駁を遮って、彼は語気を強めた。

「罪人さ。殺されたくなきゃ、逃げるしかねえ」

 理不尽だと憤りたくなる一方で、警務官の喉に刀子を突き立てたときの生々しい手応えが甦り、サルファンは悄然と唇を咬んだ。如何なる申し開きも人殺しの事実を取り消すことにはならない。成り行きとはいえ、自分もラシルドと同じように、この手を人の生き血で穢してしまったのだ。

「大人しく官憲の縄に掛かり、処刑台に登るか? お前がそれを望むなら、俺は止めねえ」

 意地の悪い光を瞳に浮かべて、カゲイロンが囁く。処刑台。そんな未来を想像したことは嘗て一度もない。だが今は、それが身に差し迫った危機として厳然と存在している。その劇しい落差に、当惑と絶望が眩暈のように視界を塞いだ。

「行くしかないのか」

 躊躇いがちに訊ねるサルファンの肩に、カゲイロンは逞しい掌を添えた。

「生き残る道を選んだ方がいいんじゃねえか? 未だ若いんだからな、糞餓鬼」

「さっきから餓鬼餓鬼うるせえな、海坊主」

「おっと、威勢が良くなってきたじゃねえか」

 店長の戦友だと名乗るこの禿頭の剣客を何処まで信用していいのか分からないが、少なくとも悪い奴じゃなさそうだと、サルファンは密かに安堵の溜息を吐いた。