サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第四章 平穏の終わり 3

 西日の射し込む部屋に座り込んだイスナは、肌を蒼白に染めて顫えていた。扉が開き、サルファンと眼が合った瞬間、堰を切ったように大粒の涙が頬を伝い、襟首へ染み入る。覚束ない足取りで立ち上がり、恋人の胸に顔を埋めて嗚咽する華奢な背中を、彼は励ますように何度も摩った。

「心配させたな」

「無事で良かった。殺されてしまったんじゃないかって、怖くて」

 力強く抱き竦めても、総身を這い回る怯えが鳴り止む気配は見えなかった。

「大丈夫。この通り生きてるさ」

「幻じゃないのね。亡霊じゃないよね」

「亡霊は抱き締められないだろ」

「分かんないよ。会ったことないもん」

 泣き腫らした瞳を宝石のように輝かせて、イスナは強張った口許に笑みを浮かべた。

「どうやって逃げて来たの。無罪だって分かってもらえたの?」

「そんな生易しい相手じゃなかったよ」

 脱出の経緯を頭から語って聞かせようと口を開きかけた途端、査問室で若い警務官の眼窩に突き立てた刀子の感触が、掌に生々しく甦った。

(話す訳にはいかない)

 サルファンが人を殺したと知ったら、彼女はきっと絶望するであろう。固より争いや暴力を忌み嫌う彼女に、生き延びるためとは雖も殺人者の汚名を身に纏ったことを、正しい行ないとして納得させられる自信はない。

「どうしたの、サルファン」

 気遣うように向けられる眼差しを避けて、彼女の躰を強く抱き寄せる。眼が合えば、内心の動揺を根こそぎ悟られてしまうであろう。

「ちょっと、苦しいよ」

逞しい腕に縛られて眉を顰めるイスナの眼差しが、玄関に佇んで此方を眺めている禿頭の武人を肩越しに捉え、躓いたように動きを止めた。

「サルファン、あの人は誰なの」

 繊細な顫えを蒸し返したその声に背後を振り返り、命の恩人を外へ立たせたまま、感動の再会を夢中になって演じていた己の迂闊さを、サルファンは恥じた。

「忘れてた。カゲイロン、入ってくれ」

「忘れてたとは御挨拶だな。俺がいなけりゃ、お前は今頃豚の餌にされてたところだぜ」

 カゲイロンは鍛え抜かれた巨体を揺らして、二人の暮らす小さな部屋に足を踏み入れた。

「心配しなくていい、イスナ。この人は、俺を警務官から守ってくれたんだ。要は命の恩人さ」

 慌てて恋人から身を引き剥がしたイスナは、乱れた衣服を手早く整えて、綺麗な御辞儀をしてみせた。

「イスナです。サルファンを助けて下さったのですね。心から御礼を申し上げます」

「カゲイロンだ。そんなに畏まらなくたっていいぜ。警務官の一人や二人、薙ぎ倒すのは朝飯前だ」

「強いんですね」

 無邪気な瞳を輝かせて素朴な感嘆を口にするイスナに、カゲイロンは踏ん反り返って威張ってみせた。

「まあな。俺ほど強い男は、なかなか見つからねえだろうな。此れでも現役を退いてからは、だいぶ腕も鈍ったが、それでも警務官相手に獅子奮迅の大立ち回りさ」

「凄い!」

 益々感動を深めていくイスナの世間知らずに毒気を抜かれて、サルファンは深い溜息を吐いた。

「おい、サルファン。お前の女は、なかなか物分かりのいい娘だな」

「自分で自分を褒めちぎって恥ずかしくないのかよ」

「恥じらいなんてものは、髪の毛と一緒に時空の彼方へ置き去りにして来たのさ」

 二人の冗談めかした遣り取りに、イスナは口許を綻ばせた。その姿を横目で確かめ、密かに胸を撫で下ろしたサルファンは、彼女に伝えなければならないことを思い出して、気を引き締めた。

「イスナ。話さなきゃならないことがあるんだ」

「話さなきゃいけないこと?」

「大事な話だから、落ち着いて聞いて欲しい」

 忍び寄る陰鬱な予感に、イスナの顔から笑みが消えた。

「俺と一緒に、この街を離れて欲しい」

 覚悟を決めて切り出した言葉に、彼女の瞳が油膜のような当惑に覆われていく。

「どうしてなの、サルファン」

「俺は警事局を脱獄した。釈放された訳じゃない。カゲイロンに助けてもらって、命懸けで逃げ出して来たんだ。此処に留まっていたら、遅かれ早かれ追手が遣って来るだろう。もう一度捕まれば、今度こそどうなるか分からない」

 呼吸を忘れたように、イスナの顔が蒼褪める。不安に顫えるその唇を見凝めながら、サルファンは黙って歯を食い縛った。もう一度捕まれば、きっと殺されるに違いない。何故なら俺は、この手で警務官を殺したからだ。同胞の命を奪われた恨みと屈辱を、彼らが水に流してくれる理由はない。

「逃げ切れるのかな」

 不安げに問い掛けるイスナの腕を掴んで、言い聞かせるようにサルファンは告げた。

「時間は限られている。今直ぐ、此処を離れるんだ」

「誰にも挨拶せずに行くの」

「俺が挨拶に行けば、その人に迷惑が掛かるだろう。誰にも何も告げずに、この街を去るのが一番正しい選択なんだ」

追い詰められ、虐げられた野鳥のような彼女の瞳に、遣り場のない切なさが迫り上がる。どうして、こんなことになってしまったのだろう。何時もと変わらない一日の始まりだと、無邪気に信じ込んでいたのに。

「大丈夫だよ、あたしは」

 不意に授けられた恩寵のように、柔らかな声音が鼓膜を打った。

「二人で生きていけるなら、何処に行くのも平気だから」

 力強い言葉に思わず唖然として、サルファンは彼女の玉蜀黍色の瞳を見凝めた。無意識に伸ばした腕が、その華奢な躰を奪うように抱き竦める。何かを伝えようとして、言葉にならない荒い息遣いが生温い吐息を耳朶に吹きかける。イスナ、君は何も知らないんだ。俺は人を殺したんだよ。この両手は、焼けるような生き血に穢れてしまった。それを知っても君は変わらずに、この俺を愛してくれるだろうか。

 不安を押し殺すように一層強く力を籠めて、その首筋に唇を寄せて黙っていると、態とらしい咳払いが背後から耳を衝いた。

「盛り上がってるところ、悪いけどな。あんまり暢気に構えてる場合じゃねえんだ」

 傍聴人の存在を思い出して、二人の耳朶は茹で上がったばかりの蛸のように赤らんだ。慌てて腕を振り解き、高ぶった感情の置き場を懸命に探す。ガーシュを銜えたカゲイロンは意地の悪い笑いを浮かべて、ゆっくりと煙を吐いた。

「何しろ俺たちは、アスターク殺しの犯人だからな。捜査統括局の重鎮を、得体の知れねえ禿頭に仕留められたとなりゃ、東方警務院の面子は丸潰れだ。草の根を分けても、下手人を捕縛しようと、躍起になるだろ」

 迫り上がる恐怖が、心臓を荒縄で締め上げる。騒動の顛末は既に警務庁の上役たちの耳にも入っているであろう。卓子を叩き、歯咬みして犯人を捕らえろと息巻いているに違いない。再び捕手が現れるかも知れないという懼心に、二人は急き立てられるように荷物を纏めた。周囲の様子を窺いつつ、小走りに長屋の階段を駆け下りる。身を屈めて、人目につかぬように海岸沿いの道を渡り、港へ降りる石段まで辿り着くと、カゲイロンが低い声で言った。

「仲間に、船を用意させてある。さっさと逃げるぞ」

 導かれた先は、港の西端に位置する、寂れた倉庫街であった。埠頭から離れた不便な立地ゆえに稼働が悪く、荷役に勤しむ人影は見当たらない。西風を遮る為に植えられた丈の高い防風林も、目眩ましには好都合である。

「待たせたな、エトルース」

 岸壁からカゲイロンが声を掛けると、漁師の形をした男が振り向いた。簡素な舟艇に陣取り、ガーシュを銜えた男の肌は、赤銅色に日灼けしている。

「遅いぞ。何時まで水母みたいに浮かばせておく積もりだ」

「悪い、ちょっと手間取ってな」

 短く答えると、躊躇う素振りも見せずに、カゲイロンは小舟へ飛び移った。衝撃に船体が傾いでも、舷側に腰掛けたエトルースの逞しい上体は、微動だにしなかった。

「早く飛び乗れ」

 カゲイロンは岸壁の上に佇む二人を手招きした。サルファンは古びた石畳を蹴り、緩やかな弧を描いて、舳先の近くに着地した。然し、イスナは岸壁の縁に佇んだまま、青い海面を見凝めるばかりである。

「どうした、便所か?」

「違います!」

 カゲイロンが大声で訊ねると、イスナは眉を吊り上げて叫び返した。

「飛び移るのが怖いんです」

「時間がないんだぞ」

「だって、怖いものは怖いんです」

「警務官に捕まるよりマシだろうが」

 焦れるカゲイロンの肩に、サルファンは掌を載せた。

「俺が説得します」

彼は舷側に近付き、両腕を祈るように大きく広げて、イスナを見据えた。

「飛び移るんだ、イスナ。俺が受け止める」

「でも」

「大丈夫だよ。俺は何があっても、君を守り抜く」

 住み慣れたイシュマールを離れ、此れからどうなっていくのか、見当もつかない。況してや、この両手は、人殺しの烙印を刻まれてしまった。染みついた血の臭いに軈て、イスナは眉を顰めるであろう。そのとき、二人の絆は解けてしまうかも知れない。然し、如何なる危機に直面しようと、彼女を守ることが、己の使命であることに変わりはないのだ。真実を告げる勇気は、直ぐには掴めそうにもないが、今は黙って、彼女の懼心に向き合い、その繊細な顫えを、この血塗られた掌で受け止めよう。

「飛ぶんだ、イスナ。俺を信じろ」

サルファンの言葉に、彼女は静かに頷いた。恐懼を堪えるように強く瞼を閉じ、息を整えて、岸壁から思い切り身を躍らせる。低い軌道を描いて飛び込んだ彼女の躰を、サルファンは力尽くで奪うように抱き留めた。そのまま、縺れ合いながら船底へ倒れ込む。衝撃に沈み込んだ船体が、浮き上がり際に海水を抄い、ガーシュを銜えたエトルースの顔に、冷たい飛沫を浴びせかけた。

「若い連中ってのは、見てて気恥ずかしくなるね」

 船底に寝転がり、弾けるように笑い始めた無邪気な二人を横目で睨むと、彼は火の消えたガーシュを海原へ抛り捨てた。