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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第四章 平穏の終わり 4

創作「刃皇紀」

「日没まで時間がない。夜更けの海を、こんな小さな船で動き回るのは危険だ。何処かの島に船を停めて、夜を明かすのが一番だろう」

 艫に陣取り、呪動機の調整と操舵に当たっていたエトルースが、行く手に広がる壮麗な落日に眼を細めて言った。穏やかな夕凪の海面に、様々な濃淡の紅い光が硝子の欠片のように鏤められている。舳先に立って日没の風と光を全身に浴びていたサルファンは、宵闇に呑まれていくイシュマール港の灯りに視線を転じた。西のコントラ湾からバルフェル運河を経由して東のディラム湾へ抜ける航路は、帝国における廻船の大動脈である。海面が藍色に暮れ泥み始めても、行き交う船舶の数が減る気配はない。

(もう、帰ることはないのかな)

 改めて痛切な哀感が、胸底を引き裂くように迫り上がった。ラシルドが警務官を殺したという噂は、麻疹の如く瞬く間に広まるであろう。そんな醜聞に穢されては店の再開など儘ならないし、仮に常連の支援があったとしても、警事局の怨嗟に満ちた容喙を斥けるのは、腕っ節も鼻っ柱も強いクルスコと雖も恐らく簡単ではない。それに広まるのは、ラシルドの噂だけとは限らない。彼ほど大物でなくとも、食事用の刃物で警務官の目玉を抉った狂暴な悪餓鬼への中傷は、潮風に乗って街中に行き渡り、無責任な噂話の絶好の肴に選ばれるに違いない。やっぱり孤児は、性根が腐ってるのさ。愛情も教育も足りない、栄養不良の畸形児さ。いや、そんな悪質な誹謗を、店の仲間たちが許す筈がない。馴染の客たちも、孤児という生い立ちを暴力沙汰と結び付けて考える偏見とは、縁遠い人々だと信じたい。揚物屋「海鮮のラシルド」は、ラシルドとクルスコが力を合わせて、更地に築き上げた希望の光であり、その発展に当たっては、あの粗野で陽気な船乗りたちの引き合いが、大きな支えであったのだ。彼らは店の復興を喜んでくれるに決まっているし、その為ならきっと、罪を犯した哀れな油番の小僧も、巷の冷遇から庇ってくれるに違いない。

 それが甘ったれた希望的観測に過ぎないことは、サルファンにも分かっていた。人を殺したという事実は、どう足掻いたところで粉飾のしようがない。殺された人間にとって、或いはその遺族にとって、彼が許し難い仇敵であることは永遠に揺るがないのだ。その足枷は死ぬまで付き纏うに決まっている。もう二度と、無垢で平穏な日々に舞い戻ることは出来ない。クルスコやセリダンと再びあの厨房で汗を流し、腕が上がらなくなるまで働くことは、見果てぬ夢に変わってしまったのだ。

(今頃、店は大騒ぎだろうな)

 そこまで考えて、俄かに呼吸が止まった。不吉な悪寒が、背筋を駆け上がる。脳裡に甦るアスタークの禍々しい声音が、耳の奥に鳴り響いて刻々と強まっていった。

(ラシルドの関係者というだけで、充分に粛清に値する。雑草を刈り取るときには、土壌ごと掘り返すのが我々の流儀だ)

「カゲイロン」

 船底に座り込んで、目映い落日を睨みつけていた命の恩人に、サルファンは強張る喉を懸命に奮い立たせて呼び掛けた。

「一つ訊きたいことがあるんだ」

 啻ならぬ形相で詰め寄るサルファンの顔を、カゲイロンは訝しげに見返した。

「何だよ」

「アスタークが捕まえたのは、俺だけじゃないよな」

 その一言を聞いただけで、サルファンが何を言いたいのか悟ったのであろう。舷側に凭れて、彼は徐に頷いた。

「お前だけじゃねえ。ラシルドの店の関係者は残らず、警事局の連中が引っ立てた筈だ」

「クルスコも、セリダンも?」

「名前は知らねえが、帝都治安本部の猟犬どもが獲物を見逃すことはねえ」

 息を詰めて見守るイスナの前で、サルファンは拳を固く握り締めた。

「他の皆は、助かったのか」

 開けてはならない扉の隙間から滲み出る不吉な光に、抗い難く瞳を奪われてしまう。無言のまま、ガーシュを銜えて火種を探すカゲイロンの横顔は、古びた彫像のように頑迷に見えた。

「それを訊いて、どうするってんだ」

「どうするって」

「真実ってものは、迂闊に触れば火傷する。それを分かった上で、俺に答えを求めてるんだな?」

 試すように問い返すカゲイロンの表情が、逆光に紛れて巧く確かめられない。真実は火傷する? 何故、真実に触れることが、こんなにも苛酷でなければならないのだ?

「仲間の安否を、気遣わずにいられる訳がないだろ」

 高ぶる感情に抑えが利かなくなるのを辛うじて食い止めようと、押し殺した声で訴えると、カゲイロンはガーシュの煙を深々と吐き出しながら、素気なく言い捨てた。

「殆どは、死んだろうな」

「死んだ?」

「暴れるお前を連れ出すので、精一杯だったんだ。悪く思うな」

 華奢な指先が、遠慮がちにサルファンの袖を掴んだ。振り向くと、唇を咬んで押し黙ったイスナが怯えた瞳で此方を見凝めていた。落ち着いてと諭しているのは直ぐに分かったが、奔馬の如く駆け出した衝動に、轡を嵌める術が思い浮かばない。

「査問所には他にも何人か、お前の同僚が勾留されていた」

 淡々と語り始めたカゲイロンの言葉が、単なる音の羅列のように虚しく鼓膜を通り過ぎていく。膝の力が抜けて、思わず倒れ込みそうになるのを、縋りついたイスナの細い腕が懸命に支えた。

「警事局の拷問を受けて、口を割らずにいられるほど、頑丈な素人がいるとは思えねえ。知ってることは洗い浚い、吐いただろう。終われば、用済みになる。後はどうする? 想像がつかねえ訳じゃねえだろ」

 敢えて平静を装っているのであろうと見当はついたが、それでも感情を抑えた無機的な口吻が癇に障った。一歩前へ踏み出して、カゲイロンの顔を睨み据える。

「殺したのか。警務官が、何の罪もない人間を」

 劇しい憤怒に、声が詰まった。名状し難い感情に胸底を掻き回されて、吐き気が迫り上がる。

「俺たちは、何も悪いことはしてない。巻き込まれただけだ。何で、それなのに」

「お前は幸運だった。警務官を殴って脱走しただろう。あれで時間が稼げたんだ。査問の順番が巡ってくる前に、俺に助けられた。紙一重の差で、貴重な命を拾ったのさ」

「幸運だと? そんな曖昧な言葉で、総てを片付ける積りなのか。あんた、分かってるのか? 人が死んだんだ。俺の仲間は殺されたんだぞ!」

 肚の底から絞り出した絶叫は、呪動機の騒音と波の轟きに紛れて虚しく響き渡った。ガーシュを銜えたまま、徐に立ち上がったカゲイロンの表情は、サルファンの糾弾に全く傷ついた様子がない。

「お前の純情はよく分かった」

 間近な距離から獰猛な瞳に睨みつけられて、サルファンは思わず後退りした。

「だが戦場じゃ、人は飯を食ったり女を抱いたりするのと同じように死んでいく。助かるのは、運のいい奴だけだ。善人だろうと、悪人だろうと、死ぬことに理由なんかねえ」

「此処は戦場じゃないし、俺たちは兵士じゃない」

 恐懼を押し殺して言い返そうとしても、声の顫えまでは隠せなかった。

「俺たちは毎日、朝から晩まで夢中で働いていた。金を盗んだことも、女を犯したこともない。誰かを殺したり、殺されたり、そんな惨たらしい出来事とは無縁のまま、これからも暮らし続けていく筈だったんだ!」

 躊躇っていたイスナの指が、意を決したように彼の腕を掴み、痣が残るのではないかと思われるほど強く握り締めた。その咬み締めた唇の隙間から、氷雨に打たれた野良猫のような嗚咽が漏れる。

「俺だって出来ることなら、そういう暢気な日々に埋もれて死にてえと思ってるさ」

 感傷とは無縁の乾き切った声で言いながら、カゲイロンはガーシュを船縁の向こうへ投げ捨てた。

「仲間が死んだことは、確かに悔やむべきことだ。だが、幾ら憤ったって死人は甦らねえ。自分一人でも生き長らえたことを、神帝様に感謝するんだな」

「何だと」

 勝ち目はないと分かっているのに、伸ばした腕がカゲイロンの胸倉へ乱暴に絡みついた。イスナが泣きじゃくりながら縋りつき、懸命に引き剥がそうとする。それでも引き下がれずに、ファジルは喉を開いて力の限り吼え立てた。

「人の命を、気安く値踏みするな!」

 不運な善人は、死ぬしかないと言うのか。殺されても、文句は言えないのか。そんな不条理が罷り通るのか。虚しい訴えであることくらい分かっている。然しそれでも、何かに祈るように喚き立てずにはいられなかった。

「お前の仲間を救ってやれなかったのは、確かに俺の力不足だ。腹が立つと言うなら、打ん殴ってもらっても一向に構わねえ」

 血走ったサルファンの瞳を堂々と睨み返して、カゲイロンは言い放った。

「だが、俺たちには、もっと大きな使命がある。命を救えなかった無力が、どれほど重い罪だとしても、此処で躓いている訳にはいかねえ。ラシルドだって、戦場に戻ることを望んじゃいねえだろう。ずっとイシュマールで商家の親父を演じていたいに決まってるさ。だけどな」

 それが叶わぬ夢に変わり果ててしまったことは、サルファンにも分かっていた。

「彼奴は、一介の商人で終わっていい男じゃねえんだ。本人が何を望もうと、世の中には天命ってもんがある。その天命の呼び声に耳を塞いで逃げ回る訳にはいかねえのさ。この国を救う為に、隊長には一肌脱いでもらわなきゃ困る」

 この国を救う為に? そんな大それた、崇高な理想の為なら、どんな悪事も暴虐も許されると言うのか。人が死んでも平然とした顔で、明るい未来を夢見ろと言うのか。

「俺には、分からないよ」

 襟首に食い込んだ指先から、少しずつ力が抜けていった。真実に触れれば火傷する。その忠告に従わなかった自分が、愚かだということなのか。

「お前にとって、ラシルドの下で働いてきた日々が、どんなに美しく、充実した想い出として残っていたとしても、あいつが嘗て、殉国隊の隊長として、数え切れないほど多くの人間を殺したという事実は永久に消えねえ」

その場に崩れ落ちそうになるサルファンの躰を片手で掴まえ、支えてやりながら、カゲイロンは静かな口調で言った。

「実際、あの戦争では、それまで人を殺すなんて夢にも思わなかったような連中が、国の未来を憂えて兵士に鞍替えした。その殆どは、無様な犬死だったさ」

「犬死にも価値があったと言いたいのか」

「違う。いいか、サルファン。自分の幸運に感謝するのは、死んだ人間の無念を引き受けることと、矛盾しねえんだ。好きな女と一緒にこうして息が吸える。怒鳴ったり、喚いたり、悲しんだり出来る。それだけでも、奇蹟だと思わねえか」

「そんなの、言い訳に過ぎないだろ」

 仏頂面の油長の顔が眼裏に浮かび上がった。戦地へ赴くと告げたラシルドに、最後まで咬みついていたクルスコも、警事局に囚われて劇しい責め苦に苛まれたのであろうか。

「言い訳でも、奇蹟は奇蹟さ。仲間の分まで、生きるしかねえ。それがお前の天命だ」

 それが天命なら、俺はこんな世界で生きるのは願い下げだと呟きながら、サルファンは顔を背けて船底へ座り込んだ。