サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「斃す」のではなく「隠れろ」 「メタルギアソリッド」の齎した革命をめぐって

 長い間、私にとってゲームとは「敵を倒す」ことこそ正義であるような世界だった。次々に現れる敵を倒すべく、例えば「ぶちスライム」を延々と棍棒で殴り殺して経験値を溜め込んでいくような作業も、強くなる為だと思えば退屈でも堪えられたものだ。レベルが上がり、各種のパラメータの数値が向上していくに連れて、画面の中に存在する私のアバターは間違いなく強くなっていったし、新しい技や魔法も習得して、冒険の始まりの頃には手強い印象のあったモンスターたちも、雑草のように容易く刈り取れるようになった。そうやって自分自身を錬成して、いかなる強敵も倒せるように進化していくことこそ、ゲームという世界の絶対的な摂理として、コントローラーを握り締めた私の眼前には堂々と君臨していたのだ。

 その厳格な掟を覆すようにして、PSの「メタルギアソリッド」は登場した。敵を倒さず、敵に発見されないように鮮やかに行動し、目的を達成することこそ「強さ」であるというメタルギアの根本的な原理は、それまで私がプレイしてきたゲームとは異質な「正義」の産物だった。鍛え上げた力で敵と正面から対決し、叩きのめすことが、このゲームにおける「強さ」の定義ではない。見つからずに潜入し、成る可く合理的に智慧を使って任務を遂行するというスマートな戦い方、それこそがデフォルトであるようなアクションゲーム(アクションRPG?)に興じるのは生まれて初めての新鮮な経験だったのだ。

 しかも物語は重厚でいかにもハードボイルドな空気が漂う。それは決して表層的な雰囲気だけの話ではなく、物語の設定や構成、背景自体がスケールの大きな思想的問題に接続している。例えば「核兵器」「遺伝子」「バーチャルリアリティ」といった現代的なタームが、物語にも人物造形にも深く関与しており、それが美麗なグラフィックと突き詰められたシナリオによって濃密に表現され、独特の奥行きを附与されている。

 だが、先ず何よりも重点的に語られるべきは物語の時空を支える神話的なフィクションの壮大なスケールではなく、その世界の躯体とも言うべきシステムの画期性だろう。「敵に見つからないように潜入する」という命題を徹底的なリアリズムで画面の向こうに再構成してみせた特異な情熱こそ、最も優先的に称賛されるべき革命的な手柄なのだ。勿論、私はビデオゲームというものの歴史的な総体に関しては子供のように無知であり、メタルギアソリッドのようなコンセプトを追究した作品が他に存在するのかどうか知らない。だが、例えばドラゴンクエストファイナルファンタジーのような国産RPGにばかり血道を上げていた私にとって、たまに巡り逢う「原理の異なったゲーム」の中でも、メタルギアソリッドの斬新な衝撃は圧倒的だった。壁を叩いて相手を誘き寄せ、反対側から回り込んで首を締め上げる? そんな複雑なアクションが、家庭用ゲーム機の世界で仮想的に体験し得る可能性を、それまで私は一度も想定したことがなかったのだ。

 そのシビアなシステム的特性も相俟って、メタルギアソリッドという時空には絶えず大人っぽいリリシズムが充満していた。背負うべきものの巨大さ、戦うべき相手の陰湿さ、張り巡らされた謀略の複雑さは、結局、どんなに深刻ぶっても超自然的なガジェットによって生温く中和されてしまいがちな国産RPGの絵に描いたような「ファンタジー」とは一線を画していた。ハードな軍事謀略サスペンスの風合いが隅々にまで浸透し、ピリピリとした硬質な感触を絶えず画面に露出させている。そういうゲームを体験するのは初めてのことで、十代のナイーブな感受性に対して、その独特のオーラは忘れ難い印象を刻み込んだ。

 これは単なる個人的な回想の断片に過ぎない。この作品の魅力は、既に多くの人々によって実際に確かめられ、称賛されている筈だ。この作品に流れ、漲る「魅力」の正体は、ビデオゲームというジャンルに固有のシステムとの間に不可分の関係を取り結んでいる。その点に着目しなければ、メタルギアソリッドはハリウッド映画によく見られるような軍事サスペンスの一例として消費されてしまって終わりだろう。実際にコントローラーを握り締めて挑戦してみない限り、その魅力の具体的な核心を味わうことは絶対に出来ない。