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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 二十一 ハイジェリー商会の顔役

 入港の翌朝、仕度を早々に済ませて訪れたハイジェリー商会のヘルガンタ支店は、石造りの古びた建物で、罅割れた煉瓦の隙間は暗い緑色に苔生しており、彼らがヘルガンタという街で営んできた商売の歴史の長さと重さを間接的に物語っていた。助手のポルジャーを伴い、水先案内人であるバエットと共に支店の玄関を仰ぎ見ながら、私は慣れ親しんだ土地から遠く隔てられた皇国の辺境でも、自分たちと同じように様々な品物を売買する人々が存在して、日々額に汗して齷齪と働いているという現実に感慨深い心境へ雪崩れ込んだ。

「ハイジェリー商会は今年で創業百周年を迎えるそうですね」

 何時もと同じように襟の開いた厚手のシャツを着込んだバエットは、逞しい肩の輪郭を明瞭に浮かび上がらせて、腰回りに両手を押し当てながら言った。

「古くから海外貿易に積極的で、異国の人間を雇い入れることにも躊躇いがない。内陸の大商会よりも遥かに開明的で、進歩的な連中の集まりという訳です」

「詳しいですね。以前から付き合いがあるんですか」

「商売柄、我々は色々な商会の人間と関わりを持ちます。自分自身が絡んだことはなくても、噂だけなら幾らでもこの両耳に流れ込んできますよ」

 豊饒な知識を褒められたことに然して嬉しそうな反応も示さないのは、彼が熟練の護送員であることの証左であろう。だが、本職の商館員である私は、各地を飛び回って大事な積荷を守り抜き、無事に宛先へ送り届ける為に様々な情報を掻き集めて、その玉石混交の噂話を命懸けで腑分けしなければならないバエットの、足許にも及ばぬほどの僅かな知識と経験しか持ち合わせていなかった。ハイジェリー商会の名前くらいは記憶の片隅に、劇しい嵐に吹き飛ばされ壊れてしまった雨傘のように投げ捨てられていたが、彼らがどのような特性を備えた集団なのか、きちんと行き届いた勉強を事前に済ませておいたとは到底強弁のしようもないくらいに無知であった。

「ダドリアの混乱が始まって以来、彼らの身辺は益々忙しないものになっていることでしょう。王党派、中でも皇太子のフランタネルを首班とする摂政派の連中は、コロディットの陸軍派に対抗する為に、武器弾薬の調達に躍起になっている。自分たちこそ、王国で唯一の正統な為政者なのだという大義名分を掲げて、フェレーンの支援を引き出す為に東奔西走の有様ですよ。ビアムルテ州の州侯家は、難民の受け容れ問題で大変な御苦労をなさっておられる様子だが、足許の商館員連中は甘い汁を貪ることに夢中だ」

 卑しく浅ましい人間の本性を嘲笑うように、バエットは頬を歪めて言い捨てた。その凛とした眦には然し、そのような現実への義侠心に満ちた憤りのようなものは滲んでいない。誰だって若い頃は理想主義者で、齢を重ねる毎に少しずつ理不尽な現実の歪みに慣れ切っていくものだ。清廉潔白は確かに美しく崇高な夢想だが、大人になれば崇高な夢想を運営する為にも日夜算盤を弾き続けることになるのだから、人間というのは熟、難儀な生き物である。

「まあ、此処で世を憂えていても仕方ない。早速参りましょう」

 ヘルガンタ支店の内部は、古びて朽ちかかった外観とは裏腹に清潔で、隅々まで行き届いた清掃の効果が優雅な気品として表れているような空間であった。広くゆったりとした待合の広間には臙脂色の毛足の長い絨毯が念入りに敷き詰められ、純白のアンダレールシャツに様々な意匠を凝らした小奇麗なセレナジャケット(アンダレールシャツ同様、商館員が好んで身に着ける、襟刳りの寛いだ上衣だ)を羽織った商人たちが、卓子を囲んで書類を広げ、低い声で何やら相談事に耽っている姿が三々五々、見受けられた。如何にも典型的な商館の広間という感じで、正面の奥まった場所に並んでいる象牙色の机には、受付の事務員たちが陣取って次から次へ押し寄せる客の応対に追われている。

「コスター商会のパドマ・ルヘランと申します」

 名刺を差し出し、来意を告げると、応対した男性の事務員は私たちを待合の長椅子へ案内し、暫く待っているようにと言い残して何処かへ姿を消した。十分ほど経ってから戻ってきた事務員は、辺りを憚るように声を潜めて私に耳打ちした。

「商館長のラクヴェルが御話を伺います。何卒此方へ」

 立ち上がり、広間を突っ切って壁際の狭い通路を擦り抜けると、恐らくはこの商館の事務室が集合していると思しき区画へ出た。がらんとした廊下に面して、幾つも扉が並んでいる。廊下の突き当たりには大きな窓が切ってあり、硝子戸は開け放たれ、清々しい外気と豊かな午前の光が流れ込んで、灯りを抑えた広間の薄暗さに慣れた私たちの瞳を驚かせた。

「此方の部屋で、ラクヴェルが待っております」

 やけに腰の低い事務員の態度に戸惑いながら、私たちは商館長の執務室へ通され、帽子を脱いだ。ポルジャーはすっかり緊張して憐れみを催すほどに強張った横顔を、懸命に解そうと指先で揉んでいた。私は正面の革張りの椅子に腰掛けた、如何にも上品で金の掛かったセレナジャケットを僅かの乱れも緩みもなく着こなした初老の人物に向かって、大仰に頭を下げて挨拶してみせた。

「ようこそ、いらっしゃいました。ハイジェリー商会ヘルガンタ商館の総責任者を務めております、シュノバ・ラクヴェルです」

 立ち上がる訳でもなく、椅子に踏ん反り返ったままで、女性の秘書から渡された名刺を眺めながら、ラクヴェル氏は余裕に満ちた微笑みを浮かべた。

「お掛けなさい。重大な案件ですな」

 言われるがままに私とポルジャーは長椅子へ腰を下ろしたが、バエットは秘書の勧めを断って壁際に毅然と直立し、両手を腹の前で組み合わせて唇を引き結んだ。護送員は飽く迄も商館員の荷物を護衛しながら運ぶことが役目であって、商館員同士の遣り取りには差出口を叩かず、又客人として遇されることも固辞するというのが、私たちの業界における古くからの慣習であり、職務に熱心なバエットはその固陋な偏見に毒された仕来りに、涼しい顔で忠実に従ってみせたのであった。