「それ」は極めて簡潔で平明な口調によって、あくまでも淡々と、何気ない日常の連なりとして語られ、描写される。
丸山健二の「夏の流れ」という短い小説に通底するのは、このような「語り」の方針である。「それ」は語られるべき対象であり、小説において虚構的に築き上げられる物語の一切である。どんなことも平坦且つクールに語られるべきであり、殊更に誇張や強調を、いわばわざわざアンダーラインを引くようなことは必要ない。そのような語りにおける禁慾的なストイシズムが、少なくとも「夏の流れ」という佳品には埋め込まれているように感じる。
勿論、これは私の勝手な感想に過ぎず、作者がそのような原理原則を自らに課しているという意味ではないのだが、読者には幾らでも誤読する権利があるものだ。刑務官の日常を描いたこの短い作品において、作者はあくまでも平淡なリアリズムを貫いている。その貫き方が徹底されている所為で、却って衝撃的な要素が浮かび上がる。引き算のような書き方と称すべきか、敢えて殊更に語らないことによって、語られるべき最も本質的な要素が自ずと露頭するような仕上がりになっているのだ。
同僚との会話、妻子との会話が、この作品にはしばしば長ったらしく綴られるが、その会話の内容自体に特別な意味はない。その会話を通じて重大な問題や機密が物語られる訳でもない。寧ろそれは重大な本質から読者の関心を逸らすために織り込まれたかのように、無機的で平淡なのだ。この平淡さは明らかに意図的に演じられたもので、それが意図的であることを暗黙裡に示すかのように無暗に長い。囚人の死刑が執行される場面でも、囚人が暴れて取り押さえられる場面でも、そのような意図的な平淡さは乱れることがない。言い換えれば、これは不自然な平淡さであり、或る意識的な努力の末に達成されるような精神的態度なのである。それはつまり、本質から眼を逸らそうとする努力であり、不条理で遣り切れないほどに重苦しい「人生」という難解な代物を乗り切るために編み出された精神的な詐術のようなものなのだ。
この国では暴力は律法によって禁じられており、いかなる理由があろうと人に暴行を加えたり殺人を犯したりすることは容認され得ない。だが、ここに登場する刑務官たちは紛れもなく人を殺すことによって給金を得ている。無論、それは国家の正式な認可の下に成り立つ正業であり、従って彼らは何ら法律的な罪悪の問題によって苦しめられる筋合いはないが、だからと言って犯罪者を監督したり拘束したり場合によっては処刑するような一連の営為が、それを実行する人々の魂に何の陰翳も投げ掛けない筈がないだろう。そこには様々な逡巡や苦悩が萌芽する余地が充分に存在している。だが、見かけ上は、この作品における語り手の「私」は己の生活の規則的なリズムに疑問や懸念を表してはいない。それは彼がその問題に関して何の痛痒も覚えていないからではない。それを一旦問い始めたら幾ら思い悩んでみても絶対に光明に満たされた出口へは辿り着けないことを、彼自身が充分に悟り切っていることの結果であろう。
だからこそ、この作品に通底する冷徹な、いわば徹底的に貫かれた「日常性の感覚」が要請されたのだとも言い得る。本来であれば、刑務官というのは実に奇妙な職業であって、人を殺した人間を罰するために人を殺すというのは不可解な背理を常に含んでいる。世界的に死刑廃止の趨勢が支配的となっている現代においては猶更、それは奇怪で悩み多き職業とならざるを得ない。それは一旦本格的に問い質せば絶対に解けなくなる複雑な結び目のような問題であるから、作中の「私」はそれについて哲学的な考究や倫理的な探索を試みようとはしないし、新入りの中川という看守がその「結び目」の重圧に堪えかねて辞めても、それを重大な問題として、いわば「我が身の問題」として積極的に振り返る訳でもない。だが、その報いが何もないという訳にはいかないだろう。彼は恐らく「倫理的な渇き」のようなものに蝕まれているのだ。その内なる病巣を欺き、闇へ深々と沈める為に、あのような「日常性の感覚」が徹底的に堅持されているのだとしても、そのような観念的な健康法が普遍的な強度を保ち得る筈もない。
「あの人にはむいてないのよ」妻が言った。
「何が?」
「あなたのお仕事」
「俺はむいているかい?」
「そうね、堀部さんなんかも」
「そうかな」
「そうよ」
子供たちの築いた砂山がちょっとした波に崩れた。
「あっ」
妻が小さく叫んだ。
「どうした?」
「なんでもないわ」と妻は言った。「おなかの赤ちゃんが動いたの」
「そうか」
妻は水平線の遠くを走る、白い漁船の群を見ていた。
「子供たちが大きくなって、俺の職業知ったらどう思うかな?」
「どうして? あなた今までそんな事言ったことないわ」
「そうか」と私は言った。「ただ、思ってみただけだ」
漁船の群が一斉に汽笛を鳴らした。驚いた海鳥が波間から飛び立ち、旋回しながら高く空に吸い込まれた。
妻が大声で子供を呼んだ。子供たちは足を砂だらけにして走って来た。
大きくなった子供たちは、父親のように倫理的な苦悩から心を乖離させるような健康法に「正義」を見出すだろうか。或いは中川のように「人を殺すこと」の倫理的な重さに堪えかね、その不条理で残酷な真実に押し潰されてしまうだろうか。私は決して刑務官という職業に従事する人々を悪く言う積りはない。「誰かがやらなければいけない神聖な職務」であることは、少なくとも死刑が合法化されている現代の日本においては紛れもない事実であるからだ。だが、そのことは死刑に纏わる倫理的な重圧を聊かも軽減しないだろう。「あんなこと釣と同じに考えてりゃいいんだ」という堀部の言葉に象徴されるような種類の倫理的麻痺状態を伴わなければならない職業を「誰かがやらなければいけない」日本の現実に、何らかの疑問符を突きつける必要があることだけは、確かだと言えないだろうか。