サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

誰のための「神」なのか? 遠藤周作「沈黙」をめぐる断片的省察

 遠藤周作の代表作とされる小説「沈黙」を初めて読んだのは数年前のことで、その作品の名声については、それこそ高校時代の現国の便覧などにも記載があったから耳にはしていたが、実際に繙くまでには随分と長く時間がかかった。キリスト教の信仰を主題に据えた作品という断片的な予備知識は、キリスト教の信仰と何の縁もなかった私にとっては余り関わりのない小説であるという予断を懐かせたのだろう。それが何を契機に繙読することになったのか、その詳しい経緯はもう何も記憶していない。

 読後数年が経過した今でも、その独特の陰惨な印象は消え残った雪のように私の胸を濡らしている。いや、そんな洒落た言い回しでは何も語ったことにはならない。そんな生易しい「陰惨さ」ではないからだ。この小説を読んでいる間、ずっと深刻な渇きのように私の心を犯し続けていた或る「陰惨な感覚」は、名状し難い圧迫感となって、私の脳味噌をずっと押さえつけていた。

 その陰惨な印象が何に由来するものなのか、一口で言い当てるのは難しいが、敢えて暴論も承知で言い切ってしまうならば、それはこの小説が只管に「人間の弱さ」ということを執拗に追究し続けているからであると、一応は結論付けることが出来るだろう。そのような読み方が正鵠を射ているのかは心許ない。だが、少なくとも私という個人が感じ取った息詰まるような「陰惨」の正体は、作中で綴られ、徹底的に抉り出される人間の倫理的な「惰弱」を濫觴としているに違いない。

 キリシタン禁制の時代、ポルトガルから日本への宣教の為に訪れた司祭の苦闘と敗北の過程を克明に綴った作者の情熱が、いかなる問題意識に基づいているのか、私には知る由もない。ただ、この作品がキリシタン禁制時代の日本を舞台装置に選び、敬虔な司祭の「背教」の問題を通じて、人間の弱さというものの正体と、日本という風土に根差す独特の陰湿な権力構造を照らし出した、或いは照らし出そうとした作品であるという言い方は、それほど的外れなものではないと思う。

 この作品においてキリスト教の信仰ということが重要な位置を占めていることは疑いを容れないが、だからと言ってこの物語が「キリスト教の信仰を巡るもの」に尽きていると看做すのは早計だろう。表面的な舞台装置を剥ぎ取り、衣裳を破り捨ててみれば、読者の眼に浮かび上がるのはもっと普遍的で本質的な「魂」の問題である。或いは「信念」と呼び換えてもいいかも知れない。この息苦しい抑圧と敗残の苦みに満ちた小説の世界は徹頭徹尾、人間の「信念」が敗北していくプロセスを描き出すことに異様な情熱を示しているからだ。

 日本という風土が「信念」を許容しない空間だという訳ではない。西欧的な思想の系譜と日本的な思想の系譜とが根源的に異質だということを、声高に訴えている訳でもない。そのような角度から「沈黙」を論じることは無論可能だろうが、私が関心を寄せるのは、そういう思想史的な問題ではない。ここに突き詰められ、凝縮された形で描き出される「弱さ」の問題を、どのように捉えればいいのか、ということが最大の関心事なのである。それは、この作品において追究されているような問題が、所謂日本の近代文学の文脈から眺めたとき、どうにも異質な文脈に則っており、断絶と孤立の中に野晒しにされているように見えるからだ。

 幾多の苦難に耐え忍びながら、ロドリゴの敬虔な「信念」は徐々に摩耗していく。彼は最終的に、拷問に掛けられている日本人の信者の呻き声を耳にして、遂に棄教へと傾斜していくことになる。いや、このような簡便な要約だけでは、作者が捉えようとした複雑な思想的問題の隘路を浮かび上がらせることにはならない。だが、そのとき「神の沈黙」が問題になる。誰も神のために苦しむ者を、神自身さえも救おうとしないとき、信仰を堅持することに何の意味があるのか、つまり「沈黙」の中で尚、信仰を貫くことにいかなる意味があるのかと、ロドリゴの尊敬する教父フェレイラは語る。

 この「沈黙」は、宗教に限らず、あらゆる人間の「信念」に付き纏う問題であり、客観的な絶望の深淵に呑み込まれた後でも、その「信念」を貫き通すことがいかに困難であるかを、克明に物語る象徴のような言葉である。言い換えれば、この「沈黙」は「神の教え」との間にいかなる整合性を持つのか、ということでもある。だが、これはイエス・キリスト磔刑以来、キリスト教という一つの巨大な世界宗教の体系の内部で、絶えず問い詰められ続けてきた問題であって、それを単に日本という風土へ移し替えただけでは、この作品が孕む異様な緊張感と息苦しさは保証されなかっただろう。

 そのとき、再び「日本」ということが問題になる。

「彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで」フェレイラは自信をもって断言するように一語一語に力をこめて、はっきり言った。「神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう」

 その言葉は動かしがたい岩のような重みで司祭の胸にのしかかってきた。それは彼が子供の時、神は存在すると始めて教えられた時のような重力をもっていた。

「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない」

「基督教と教会とはすべての国と土地とをこえて真実です。でなければ我々の布教に何の意味があったろう」

「日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」

「あなたが二十年間、この国でつかんだものはそれだけですか」

「それだけだ」フェレイラは寂しそうにうなずいた。「私にはだから、布教の意味はなくなっていった。たずさえてきた苗はこの日本とよぶ沼地でいつの間にか根も腐っていった。私はながい間、それに気づきもせず知りもしなかった」 

  苦しむ者がいても、神は何もなさらないという意味での「沈黙」に加えて、ここにはもう一つの救い難い沈黙、いわば「日本というものの沈黙」が告示されている。「我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」というフェレイラの悲痛な述懐は、日本という風土に固有の思想的な問題に繋がっている。私たちが日常的に有している神仏への曖昧な距離感、神学的な追究を欠いた怠惰な関係性は「デウスと大日」を混同するような権現的思想へ当たり前のようにスライドしてしまうのだ。この宗教的な地滑りによって、フェレイラの絶望は限りなく深められた。遠藤周作の「沈黙」の文学的な画期性は恐らく、このような「神の沈黙」と「日本の沈黙」という二つの思想的な課題を、宣教師の棄教という物語の中にくっきりと浮かび上がらせ、冷徹な解剖の眼差しを注いでみせた点に存するのではないだろうかと、私は思う。

 

沈黙 (新潮文庫)

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