サラダ坊主日記

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「血縁」の反復と「地縁」の閉塞 中上健次「枯木灘」に関する読書メモ 1

 最近、中上健次の有名な長篇小説「枯木灘」を通勤の行き帰りの電車で少しずつ読み返している。とはいえ、手元の文庫本自体は高校時代に買ったもので、途中まで読んで投げ出していたから、殆ど初めて通読するようなものである。とりあえず折り返しを僅かに過ぎたあたりまで読み進んだので、備忘録も兼ねて、ここに感想や考えたことなどを書き留めておきたいと思う。

 中上健次の代表作「枯木灘」は徹頭徹尾、性愛の問題を取り扱っている。或いは血縁=地縁の逃れ難い呪縛について、荒々しく簡明なリズムの文章を叩きつけるように綴っている。彼の作品は「血」と「家」に象徴される諸問題への息づまるような愛憎に隅から隅まで浸り切っているのだ。彼の小説を読むという経験が時に圧迫されるような「重さ」を齎すのは、そこに書き込まれている生殖=血縁を巡る無数の記述がどれも、その宿命的な「反復性」を露わにしているからだろう。

 これは「枯木灘」の前日譚に当たる「岬」に関しても言えることだが、主人公の竹原秋幸は複雑な出自の持ち主である。その複雑さは雑駁に言い切ってしまえば「血の複雑さ」と「土地の複雑さ」によって構成されている。複雑な血縁関係の網目に投げ込まれるようにして生を受けた彼は、影のように付き纏う「実父」の存在に愛憎の入り混じった意識を保ち続けている。同時に、若くして柿の木で首を吊って自殺した義兄の記憶にも付き纏われている。或いは、義姉の美恵が精神を病んでしまった時の記憶にも、義父の家に暮らすことの様々な屈託にも、その存在を刺し貫かれている。これらは総て「血縁」の問題であり、「生殖」という人間にとって不可避的な営為によって齎された懊悩である。これらの「血縁」に由来する息詰まるような「しがらみ」に、彼は堪え難い嫌悪を覚えている。彼が土方の仕事に打ち込み、それを特権的に愛するのは、そうした労働の営みが束の間であれ、彼の心身を息苦しい「血縁」の拘束から解き放つからである。

  働き出して日がやっと自分の体を染めるのを秋幸は感じた。汗が皮膚の代わりに一枚膜をはり、それがかすかな風を感じるのだった。自分の影が土の上に伸び、その土をふるはしで掘る。シャベルですくう。呼吸の音が、ただ腕と腹の筋肉だけのがらんどうの体腔から、日にあぶられた土のにおいのする空気、めくれあがる土に共鳴した。土が呼吸しているのだった。空気が呼吸しているのだった。いや山の風景が呼吸していた。秋幸は、その働いている体の中がただ穴のようにあいた自分が、昔を持ち今をもってしまうのが不思議に思えた。昔のことなど切って棄ててしまいたい。いや、土方をやっている秋幸には、昔のことなど何もなかった。今、働く。今、つるはしで土を掘る。シャベルですくう。つるはしが秋幸だった。シャベルが秋幸だった。めくれあがった土、地中に埋もれたために濡れたように黒い石、葉を風に震わせる草、その山に何年、何百年生えているのか判別つかないほど空にのびて枝を張った杉の大木、それらすべてが秋幸だった。秋幸は土方をしながら、その風景に染めあげられるのが好きだった。蟬が鳴いていた。幾つもの鳴き声が重なり、うねり、ある時、不意に鳴き止む。そしてまた一匹がおずおずと鳴きはじめ、声が重なりはじめる。汗が額からまぶたに流れ落ち真珠のようにぶらさがる。体が焼け焦げている気がした。秋幸は、一緒に働いている徹や中野さんもこんなふうなのだろうかと思った。顔をあげた。体をのばした。裸の胸を汗が滑り落ちていくのが見えた。 

  坂口安吾の「風と光と二十の私と」にも通底するような、この自然との幸福な融合の感覚に関する描写は、「枯木灘」という小説の中で幾度も繰り返される。これが秋幸にとって「自涜」のように秘められた幸福であり、享楽であることが何度も執拗に言及される。しかし、これはいわば逃避の幸福であって、血縁を巡る様々な厄介な問題を捨象することで初めて獲得される自閉的な充足の形式である。実際には、このような幸福の感覚は逃避的な欺瞞に過ぎない。無論、そこには切実な理由が関与している。秋幸という一人の個人を取り巻く血縁の錯綜した呪縛は、彼を窒息させかねないほどの強度で、彼の暮らす土地に蔓延しているからだ。

 しかもそれは、彼にとっては一時的な拘束ではない。作者の眼は、秋幸というキャラクターを通して、そのような血縁の問題が「永劫に反復される因縁」であることを冷静に見通している。

 その赤ん坊の美智子が大きな腹をして帰ってきたのだった。秋幸には、そっくりそのままかつて昔あったことを芝居のように演じなおしている気がした。いや、自分が、かつて十六年前の兄と同じ役を振り当てられている気がした。兄の郁男は、美恵をどう思っていたのだろうか、と思った。

 郁男は美智子が生まれた翌々年に二十四の齢で、独り住んでいた家の一本あった柿の木に首をくくって死んでいた。秋幸にはその自殺がいくら解いても解いても新たに仕掛けられる謎だった。

  何度も何度も、人類が生殖を繰り返す度に類似した悲劇が再演されることの不毛と虚無に、秋幸は堪え難い閉塞感を味わっている。同時にその閉塞感は、誰もが顔見知りのように肩を寄せ合い、様々な「噂」に取り巻かれながら暮らしている「路地」という土地の呪縛によるものでもある。常に誰かから「見られている」という感覚が付き纏い持続する、独特の閉鎖的な環境によって、秋幸も他の登場人物も皆、圧迫され、拘束されている。言い換えれば、この「枯木灘」という作品世界においては、自立した近代的な「個人」として実存することが許されないのだ。

「男や男や言うてね」美恵が言った。美恵は秋幸を見た。秋幸には美恵が自分の顔など見ているのではなく、秋幸のむこうに二十四で独り身のまま死んだ兄を見ているのだとわかった。その美恵の眼がうっとおしいと思った。おれはまったくおれ一人だ、と思った。

  だが「おれはまったくおれ一人だ」という秋幸の考えが、この狭苦しい土地で認められることはない。誰もが血筋や因縁に縛られ、自立した個人ではなく「家」の一員として生きることに疑問を懐いていないからだ。秋幸の苛立ちは、そのような「家」の論理に対する絶望と憎悪の反映である。「血縁」と「地縁」による二重の閉塞と呪縛を集約する言葉として「家」というのは最適な表現かもしれない。「家」の論理が総てを支配し、拘束しているなかで、秋幸はそのような「家」の論理の欺瞞性に敵意を向けざるを得ない。その背景に、彼が浜村龍造という悪評の多い男の息子として生まれながら、実父とも兄弟姉妹とも切り離され、分断されて存在しているという現実が関与していることは確実だろう。その複雑な出自、いわば正統な「家」の論理から見限られた「私生児」のようなポジションに立っているからこそ、彼の眼には様々な「家」の欺瞞が見えてしまう。それが単なる「擬制」でしかないことを明瞭に悟ってしまう。彼はそのような「家」の呪縛を覆そうとして、実父である浜村龍造との対決、或いは浜村龍造への「復讐」に赴くのである。

 「岬」において描かれた義妹との姦通の問題が、彼にとっては重要な爆弾のような意味を備えることとなる。それは「家」の論理を崩壊させる禁忌であるからだ。美恵と郁男に付き纏った「きょうだい心中」の穢れた噂も、そのような「家」の論理に抵触するものである。インセストの問題は常に、家族というシステムにおいて絶対的な「禁忌」として定められている。その「禁忌」を犯すことによって、秋幸は「家」という擬制に附随する壮大で頑強な虚構を破壊しようとしたのではないか。しかし、残念ながらその思惑は外れることになる。秋幸の命懸けの試みは、総てを吸い込み肯定するような浜村龍造の「達観」によって打ち砕かれてしまう。贋物の「祖先」の石碑を仰々しく建立し、己の血統に架空の「物語」を覆い被せようとする龍造の前で、秋幸の試みは脆くも潰えてしまう。それは「家」の論理の人類史的な根深さを傍証していると言えるだろう。近親相姦ぐらいでは揺さ振ることの出来ない強靭な「虚構」として、「家」の物語は存在している。その壮麗な虚構の前では、個人としての自主独立など、取るに足らない譫言のようなものに過ぎないのだ。

 

枯木灘 (河出文庫)

枯木灘 (河出文庫)