サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「美醜」の階級性 谷崎潤一郎「刺青」

 谷崎潤一郎の実質的な処女作「刺青」は、一篇のグロテスクな御伽噺のような風合いを備えている。その印象の所以は、この作品が写実的なリアリズムとは全く無関係な原理に基づいた戯画化を施されている点にある。ここには、自然主義的なリアリズムとは無縁の審美主義が息衝いており、その観念を極端に誇張することで「刺青」という作品の世界は構築されている。

それはまだ人々が「愚」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。殿様や若旦那の長閑な顔が曇らぬように、御殿女中や華魁の笑いの種が尽きぬようにと、饒舌を売るお茶坊主だの幇間だのと云う職業が、立派に存在して行けた程、世間がのんびりして居た時分であった。女定九郎、女自雷也、女鳴神、―――当時の芝居でも草双紙でも、すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。誰も彼も挙って美しからんと努めた揚句は、天稟の体へ絵の具を注ぎ込む迄になった。芳烈な、或いは絢爛な、線と色とがその頃の人々の肌に躍った。

 冒頭に掲げられた上記の一節が「刺青」の世界を支える根本的な原理であることは、作者自身が包み隠さず高らかに宣言しているので、何ら新奇な発見ではない。寧ろ作者は積極的に、自分の文学的な方針を明示しようとして筆を執ったのではないか。彼は日本的な現実そのものに直截な関心を寄せていない。そういうことは、写実主義金科玉条の如く崇められていた当時の文学的風潮に染まった人々が力を尽くせばよいことだ。自分はそんなことには興味がない、自分が書きたいと思うのはもっと怪しくてエロティックで幻想的な物語なのだ、と言っているように感じられる。

 谷崎潤一郎の作品を「耽美主義」というレッテルで一括りにするのが野蛮で無粋な態度であることは重々承知している。しかし、少なくとも処女作である「刺青」の内部に、そのような「美の絶対化」という思想が氾濫していることは明白ではないか。無論、それは未だ思想と呼べるほどの観念的な体系性を獲得してはいない。だが、その萌芽のようなものは瑞々しい成長を着実に遂げようとしている。「すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった」という一文は、そのような作者の基礎的な「思想」を明示する簡潔で明快な要約である。それを「美醜の階級性」という言葉に纏めてみたのは、単にそれが尤もらしい表題のように思えたからの話だ。

 美しい者が強く、醜い者が弱い、という原理は、様々な社会的制約を破砕するような、身も蓋もない動物性に貫かれている。動物が交尾するに当たって相手を探すとき、例えば体毛の色や骨格の逞しさなどに惹きつけられるように、人間も特殊とはいえ動物の一種である以上は、美醜という感覚的な基準から自由ではいられない。だが、美醜が総てではないことも一面では真実であり、知性やら収入やら、様々な基準が優劣の判別を難しくさせ、混乱させるのが、私たちの暮らす世界の習いである。その中で「美醜」だけを特権的な基準として高めるのは、或る均衡を外れた思想の形式であろう。だからこそ、作者は「刺青」の冒頭に分かり易い注意書きを掲げているのだ。「それはまだ人々が『愚』と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった」という一文は、この世界が様々な社会的基準を解除された特殊な領域であることを念頭に置くようにと、読者に予め告げている。

 一見すると何の変哲もない若い女が、女郎蜘蛛の刺青を背中に負った途端、悪女の風格を漲らせ始めるという筋書き自体、それが世間的な常識や一般論とは隔絶した「原理」の産物であることを明示している。美しさが総てに優先するということは、確かに私たちの暮らす社会でも局所的には見られる現象である。美しさを売り物にした商売は、実際に巨額の金銭を動かす原動力として作用し、流通している。だが、それが総ての価値判断の基準として是認されているとは言い難い。その耽美的な享楽主義の烽火は、様々な道徳的理窟によって拉がれ、窒息させられているものだ。

 だが、谷崎潤一郎という作家は終生、そのような「美の絶対化」や「美しいものに対する拝跪」という思想的な体感を手放そうとしなかった。晩年の「瘋癲老人日記」に至るまで、その文学的な欲望の対象が一貫していることは、作者の「美的なもの」に対する並々ならぬ執着を歴然と傍証している。尤もらしい理窟を差し置いてでも、「美しいもの」への露わな欲望を堅持し続けるというエロティックな精神は、文学者としての谷崎の旺盛な想像力を支え、駆動させる重要な源泉であったに違いない。小難しい論理を並べ立てる以上に、そのような「美しいもの」への直截なエロティシズムが発酵することこそ、芸術家の天性であると言えるのではないだろうか。

 谷崎の作品にサディズムマゾヒズムの要素を見出す指摘は珍しいものではない。だが、それは「美の絶対化」に附随する現象であって、それ自体を取り出して重要な本質のように持ち上げるのは短絡的だと私は思う。確かに、清吉が刺青の仕事の最中に感じる嗜虐的な快楽は、他者を屈伏させることに付き纏うエロティックな感覚の一例であるに違いない。或いは、女の背中に燦然と輝く蜘蛛の刺青を眺めて恍惚へ至る清吉の姿は、美しいものに支配される男の快楽を暗示しているかもしれない。しかし、それは断片的な解釈と看做すべきであり、最も重要なのは「美に対する奉仕者」としての清吉の芸術家的な生き様ではないだろうか。権力と性愛のアマルガムとしてのサディズムマゾヒズムを論じるよりも遥かに本質的であると思われるのは、清吉に仮託して語られた谷崎自身の芸術家としての矜持である。その点では、芸術もまたエロティシズムの一つの形態であると考えるべきだろう。言い換えれば、清吉にとっての「刺青」は谷崎にとっての「文学」なのである。単なる被虐的な性癖の問題に、谷崎文学を還元する訳にはいかないに決まっている。重要なのは「美しいもの」こそが芸術的関心の最大の対象であると看做す谷崎の「信念」である。それは西洋から移入された「小説」という芸術を、日本的な道徳規範から解き放つための真摯な宣戦布告だったのではないか。「私小説」に象徴される日本的リアリズムを至高の理念として奉じることに、彼の才能は反抗的であった。そこでは「美」よりも「真実」が重んじられたからである。だが、谷崎にとっての「文学」は「真実」の尤もらしい価値に隷属するような退屈な営為ではなかった。「思想がない」という批判を受けても動じることなく、己の方針を貫き通したのは、そして「刺青」のように特殊な原理に支配された「異界」を描くことに躊躇も逡巡も示さなかったのは、彼にとって「文学」が「美に奉仕すること」に他ならなかったからである。そのような動物的とも言える「思想」の確かさは、実際に彼の豊饒な作品を通じて実証されている。つまり「美醜の階級性」とは、谷崎文学の芸術的な原理を拘束する絶対的な規範の名称なのである。

刺青・秘密 (新潮文庫)

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