サラダ坊主日記

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呪われた「血」の暴発 中上健次「枯木灘」に関する読書メモ 2

 

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 中上健次の「枯木灘」を読了した。最初に購入した高校時代から考えれば、実に十余年越しでの通読ということになる。読み終えて、こんなに重厚で名状し難い感興に囚われる小説も滅多にないだろうと、素朴な結論に達した。私の乏しい読書履歴を顧みても、直ぐに思い浮かぶのは車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂」くらいのものである。

 何故、そんな風に重苦しい読後感に囚われるかと言えば、それはこの小説に描かれ、書き込まれている種々の人間の存在の仕方が、どうにも解決し難い底知れぬ深淵に呑まれてしまっているからだ。一体、何が最適な正解なのかも分からないような入り組んだ難問に巻き込まれ、日々の蹉跌を辛くも乗り超え、凌ぎながら生きている人間の喘ぎや呻きが、この「枯木灘」という小説には充満している。小説としてどうか、小説という文学的ジャンルの一例として評価するならばどうか、といった問いの設定は、この読後感の重さと遣る瀬なさの前では、馬鹿げたほどに意味を失ってしまうだろう。

 複雑な出自を持ち、「路地」と呼称される特異な閉域で生まれ育った主人公の竹原秋幸が、実父である浜村龍造への憎悪を滾らせ、異母弟である秀雄を殴り殺してしまう。この息苦しく陰鬱な惨事が、秋幸の意識を縛り続けてきた「呪われた血」の生み出した凶事であることは明白だ。筋書き自体を要約すれば、単なる父殺しの物語、家族の葛藤の物語ということになるかもしれない。だが、筋書きなどというものに、この作品に漲る重層的な煩悶の残響を還元してしまう訳にはいかない。そもそも、これは単なる「物語」ではない。ここには常に「出来事は反復される」という「物語」への批評的な意識が目覚め、織り込まれているからだ。

 ふと、秋幸は思った。身震いした。秋幸は自分が十二歳の時、二十四で死んだ郁男にそっくりだと思った。郁男の代わりに秋幸は、秋幸を殺した。

 この戦慄すべき禍々しい自覚は、血族を巡る宿業が歴史を超え、時代と環境を超えて「反復される」ことへの蒼褪めるような驚愕に拠っている。同じような悲劇が何度も繰り返され、同じような出来事が歴史的な反復の中で濃縮され、煮詰められていく。それは言い換えるならば「歴史」というものへの生々しい畏怖であり、絶望のようなものだ。それはあらゆる場面で、何度も語り直される「感覚」として存在している。秋幸は自分自身を義兄の郁男に擬し、徹は秋幸に自身を擬する。美恵が美智子を産んだことは、美智子が麻美を産んだことと重ね合わせられる。秋幸の立場は洋一にも徹にも放射され、投影される。つまり、ここには「血」の歴史性という問題が切実な苦悩の対象として刻印されている。

 だが、そのとき注意を払わねばならないのは、「血族」と「家族」は必ずしも合致しないという一般的で素朴な事実である。秋幸は母親の再婚に伴って「竹原」という「家」の一員として迎えられるが、彼は母親を通じて「竹原」という「家族」と繋がっているに過ぎない。根本的には、彼は「私生児」の立場を抛棄することが出来ない。それは「血」と「家」の系譜が乖離を起こしている為である。言い換えれば、「血の繋がり」と「家の繋がり」は必ずしも等号で結び付けられるとは限らないのだ。何れがより根源的かと言えば、無論「血」の方であろう。竹原秋幸が浜村龍造の実子であるという「血」の歴史性は、竹原繁蔵の認知によってその戸籍に迎え入れられたという「家」の歴史性に先行して存在する厳粛な「真実」である。その「真実」の重苦しい圧迫感に苛まれて、秋幸は絶えず懊悩を強いられる。彼が「竹原秋幸」という自己の定義に充足し得ないのは、彼が常に「家」の地下を流れる暗渠のような「血」の存在に意識を向けずにいられないからである。

 家は関係がない。女は下に敷かれ、男の種を孕み、男の快楽のためだけにある。男は言った。離ればなれに暮らすものを一つに統御するものは、家ではなく、孫一の血だった。秋幸は、紛れもなく長男だった。どこから来たのか、何をやって今にいたったのか、過去に口をつぐんだ素性の分からぬ男は、熱病のように浜村孫一を言いたてた。何もかもその浜村孫一が解決する。だが、秀雄は理解できなかった。秋幸も、その男の熱病を分からなかった。

 男尊女卑の誹りを免かれ得ないとしても、今はこの文章の道徳的な善悪を論じるのは棚上げしておこう。重要なのは「家」の論理が「女たち」のものだということだ。例えば、作中で何度も無責任な噂話を垂れ流す厄介な存在として登場するユキのことを考えてみればいい。彼女は常に「竹原」という「家」に対する責任感と固着した愛情に衝き動かされて、自らの行動を律している。聖化された「竹原仁一郎」の偶像は、彼女にとっては殆ど宗教的な信仰と敬愛の対象にまで高められている。いや、こうした特質はユキに限らない。秋幸の母親フサも、秋幸の義姉たち(芳子、美恵、君子)も皆、集まる度に「昔話」に花を咲かせ、いなくなった人々の思い出に無限の哀惜を寄せる。それを秋幸が「うっとおしい」と感じるのは、彼が「家」の論理の絶対性を信じておらず、より根源的な「血」の問題に拘束されているからだ。どんなに「竹原家」の人間として振舞おうとしても、秋幸という存在の根底に「浜村龍造の血」が底流している事実は書き換えられない。

 その実父への歪んだ感情が、秀雄の撲殺へと発展する。いや、実際にはそれほど主体的で個人的な「犯罪」ではない。秋幸自身、何かに取り憑かれ、唆されるようにして、秀雄を夢中で殴り殺してしまったのだ。その暴発は、「呪われた血」が惹き起こした惨劇であり、個人の犯罪でも悲劇でもなく、あくまで「関係性の悲劇」であると言い得る。秋幸は「家」と「血」の拮抗の狭間で、惨たらしい偶発的事故に際会してしまったのだ。それは繰り返される悲劇に過ぎず、個人の思惑や信条を超越している。

 郁男と秀雄を殺した。仕方がなかった。二人を殺さなければ、秋幸が殺された。秋幸はそう思った。いや秋幸は、秀雄が、あの時、郁男に殺された秋幸自身であり、実際には首を吊って自死する郁男のような気がした。郁男が諫めるように死んだ十二歳の時から、秋幸は郁男を殺したと思ってきた。すでに人は殺していた。その時から秋幸は、声変りがし、陰毛が生え、夢精をし、日増しに成長する秋幸自身におびえた。骨格は、その男に似て太かった。自分の毛ずね、地下足袋をはく足、それらは獣のものであって到底人間のものとは思えなかった。それは人殺しの体だった。

 恐らく「枯木灘」において反復される宿命として演じられ、描き出された惨劇の実相は、悪評を纏った実父への憎しみによる報復、といった単純で皮相な筋書きには還元することが出来ない。秋幸が憎んでいるのは「血」の歴史性そのものであり、無責任で邪悪な父親そのものではない。いわば浜村龍造は一つの醜悪な「象徴」に過ぎないのだ。

 もう少し問題を抽象化して捉えてみることも可能だろう。単なる父子の相剋といった表層的な筋書きに制限されずに考えれば、自分自身が背負った「呪われた血」への愛憎はそのまま、被差別部落をモデルとして描かれた「路地」の子であることへの愛憎に転写し得る。被差別部落に生まれたという宿命的な事実、自分自身の力では書き換えることの不可能な「事実」によって、絶対的に拘束されてしまうというカースト的な苦しみは、浜村龍造の「呪われた血」から逃れられないということと類比的である。秋幸が土方という労働を通じて、己の存在を「純化」しようと試み続けるのは、それが「呪われた血」の問題を解除するための観念的な方法として優れていたからだろう。

 秋幸は土方を好きだった。日と共に働き、日と共に働き止める。一日、土を掘り、すくい、石垣を積み、コンクリを打った。土を掘りすくっても、物が育ち稔るわけではなかった。石垣を積み、側溝をつくり、コンクリを打って、自分が使うのではなかった。人には役立っても秋幸には徒労だった。だがその徒労がここちよかった。組の現場監督の秋幸は銭勘定ではなく、日を相手に働くその事だけでよかった。

 「物が育ち稔るわけではなかった」という然り気ない断片は重要な意味を帯びている。言うまでもなく、「呪われた血」の問題が発生するのは、人間が生殖という営為を止めないからである。親が子を作り、子が更に親となって子を生す、という無限の類的な「反復」が「血の歴史性」を不可避的に構築してしまう。土方を通じて、自然との観念的な融合を遂げる秋幸の私的な「愉楽」は、そのような「血の歴史性」の逃れ難い宿業を忘却させる効果を孕んでいる。だが、それが束の間の観念的な幻術であることは疑いを容れない。結局、彼はカースト的な因縁の呪縛から逃れることに失敗した。それは秋幸の恋人である紀子の妊娠によっても、端的に示されているだろう。

 これらの複雑な「血」の問題は、例えば平凡なサラリーマンの家庭に生まれた私のような人間にとっては縁遠い「異界」の出来事のように聞こえる。しかし、実際には縁遠いのではなく、単に直視していないだけに過ぎない。複雑な出自を運命づけられた中上健次という作家は、それらを直視せずにいられない「場所」で生まれ育ち、言葉を習い覚えて血を吐くように語り始めた。その凄絶な告白の切なさを、他人事だと退けるのは欺瞞的な態度だ。忘れてはならないのは、「枯木灘」が総ての人間にとって普遍的であるような「神話」だという厳粛な事実である。そこに描かれた原型的な問題構成を閑却して、「人間」について、或いは「生きること」について語ることなど不可能であるに違いない。

枯木灘 (河出文庫)

枯木灘 (河出文庫)