サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

NHK礼讃 / 「テレビ」凋落の時代のなかで

 私はここ数年、余りテレビを見なくなった。元々朝が早く夜が遅い仕事で、それほどテレビを見る時間がないというのも背景にはあるだろうが、年々関心が薄れていることは確かである。十代の頃、御世辞にも活動的とは言い難い少年であった私は寧ろ、比較的熱心なテレビ視聴者であったのだが、社会に出て、時間に追われる毎日を過ごすうちに、テレビの視聴に時間を割くことへの虚しさのような感情が募るようになったのだ。

 テレビが恐ろしいのは、それが「時間を吸い取るメディア」であるということだ。同じことはネットサーフィンなどにも言えることだが、とにかくテレビというのは極めて受動的なメディアで、過剰なまでの視聴者に対するサービス精神に貫かれている。手を変え品を変え、視聴者にチャンネルを変えさせないように涙ぐましい努力を積み重ねている所為か、そのコンテンツ制作の手法は徹底的に視聴者の負担を軽減することに重点を置いているように感じられる。バラエティ番組など、夥しい量のテロップが飛び交い、細かな註釈が入り、視聴者に不快感を与えるような発言や表現はかなり厳格に自主規制されている。至れり尽くせりの饗応振りと言えよう。その御蔭で、視聴者は何の努力も要さずに、画面から放出される諸々の情報をスナック菓子でも摘まむように無限に受け容れ続けることが出来る。難しいことを考えなくとも、意味を理解しようと気を張らなくとも、私たちは容易くそれらの情報を咀嚼して呑み下すことが出来る。極端に言えば、口の中に離乳食を流し込まれているようなものだ。

 無料で放映される民放各局の番組は、視聴者への迎合を金科玉条とし、広告主への気兼ねもあって視聴率の確保に異様な執着を示しているから、必然的に幅広い層の客を取り込めるように智慧を絞っている。その結果として、放映される番組がマニアックな色彩を帯びることは、深夜帯でもない限りは容易なことではない。誰でも気楽に食べられるメニューばかりを徹底的に追求するものだから、必然的にコンテンツの内容はどれも圭角のない、舌触りの滑らかなものばかりに限定されてしまい、歯応えのある料理をテレビ画面の中に探し求めることは酷く困難な作業と化している。その善悪を問うても仕方がない。テレビというメディアの性格上、それは必然的な成り行きであると潔く認めるのが礼儀というものだろう。誰にでも受けるもの、一人でも多くの視聴者に許容されるものを首尾一貫して追い求めていけば、その代償としてハードコアな魅力を失っていくのは、テレビに限らず、あらゆる表現媒体に課せられた摂理のようなものである。

 だが、それが退屈であることは事実だ。何でもかんでもオブラートに包まれ、丁寧に雑味を取り除いた献立ばかりが並んでいる世界で、予定調和を食い破るような健全な刺激を掴むのは不可能に近い。極度に社会化されたメディアが、意想外の方面からのバッシングに備えて危険な綱渡りを避けるようになるのは、適応の仕方としては自然なものであろう。過激なバラエティが直ぐに叩かれ、罵られるような時代であれば猶更だ。スポンサーの豊富な資金力をバックに据えて、奔放なコンテンツを生み出してきた「テレビ」というメディアの寵児は、ネットの隆盛も相俟って、すっかり往時の栄光を喪失している。それが様々な外在的条件に強いられたものであったとしても、その外在的条件に逆らわず、視聴者への迎合を貫いてきたのは、他ならぬテレビ自身なのだ。

 そんな中、私が比較的関心を持って見るのはNHKである。視聴者の関心を惹くために旺盛な幇間精神を発揮して、手段を選ばずに暴走し続けてきた民放各局のコンテンツが決まり切ったマンネリズムの泥濘に沈み込みつつあるのとは対照的に、受信料や経営委員会の問題などで逆風を浴びてきた近年のNHKが却って、気骨のあるコンテンツの開発に余念がないように見えるのである。

 NHKが公共放送であり、堅苦しい正義や建前の牙城であるように思われてきたのは昔の話で、昨今では寧ろ受信料収入を資金源として、視聴率への過敏な意識を保たなくとも済むという条件を活かし、民放よりも遥かに圭角のあるコンテンツの制作に血道を上げているように感じているのは、私だけではない筈だ。例えば先ほど放送されていた「ドキュメント72時間」などは、その典型的な事例である。今回の放送内容は、大阪の天神橋筋の商店街に置かれているベンチに座りに来る人々を只管に撮り続け、インタビューを試みるというだけの、奇妙な情熱に支えられたもので、こういう番組を見ると、NHKがドキュメンタリーという表現の様式に注ぎ込んでいるエネルギーの豊かさに感嘆させられる。以前には、只管国道十六号線を走って撮影とインタビューに徹する「オン・ザ・ロード 国道16号の“幸福論”」というのもあって、視聴率や広告主の御機嫌を窺っていては絶対に作れなかっただろうなと思わされるようなコンテンツが目白押しなのである。少年の頃は、公共放送という堅苦しい金看板に縛られて自由に物が言えないテレビ局であると思い込んでいたが、大人になって改めて民放と比較してみると、その「不動の尊大さ」みたいな姿勢が却って魅惑的なコンテンツの開発に大きく寄与しているのだなという正反対の感想を懐くようになった。NHKというのは、そういう「気骨のある」テレビ局なのである。

 極限まで突き詰められたポピュリズムが、誰にとっても平板であるような最適解に行き着くのは論理的必然であり、同じ目標に向かって苛酷なラットレースを強いられてきた民放各局が、テレビというジャンルの成熟に伴って固着した袋小路に追い込まれてしまったのは、皮肉な結末と嘆じるしかない。無論、NHKがそのような通弊と全く無縁だと言い切ることは出来ない。「紅白歌合戦」や「大河ドラマ」や「朝の連続テレビ小説」といった往年のキラーコンテンツが、視聴率の低迷に四苦八苦して迷走気味の試行錯誤に落ち込んでいることは客観的な事実だろう。その点では、民放と同じラットレースを生きていると言える。だが、やはりNHKは「テレビのプロフェッショナル」であるという感想は揺るがない。「朝ドラ」の打率の高さは、フジテレビの「月9」枠の低迷とは対蹠的に、瞠目すべき水準に達しているし、音楽番組の分野でも、近年では「SONGS」や「COVERS」など丹念で良質なコンテンツを世の中に送り出している。それ以外でも「ブラタモリ」のようなマニアックな番組を制作していることも重要な功績だろう。「地形」や「風土」をテーマにした微温的バラエティを継続的に作れる体力は、近年のテレビ業界から徐々に失われつつあるものである。また、ETVにおける幼児教育系コンテンツの蓄積の大きさと深さにも、讃辞を惜しむべきではない。「若者」ばかりをターゲットに据えた民放各局のコンテンツ制作の方針とは異質な「幼児・児童向け番組」と「高齢者向け番組」の品揃えの豊富さは、少子高齢化の亢進が危惧される現代社会において、卓越したコアコンピタンスであると言い得る筈だ。NHKほど、「幼児」という金にならない視聴者のことを真剣に考えてきたテレビ局は他に類例がない。