サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「書くように読むこと」で浮かび上がる知見 村上春樹「若い読者のための短編小説案内」

 小説を読むことは一つのささやかな個人的趣味であることを免かれない。この命題は、大して特別な意味を持つものではなく、私たちの暮らす社会において至極有り触れた一般的な感覚を指し示しているに過ぎない。小説は今日、一つの文化的な「商品」であり、それが出版社や取次や書店を通じて流通する「商材」であることは、例えば衣服や食品や宝飾品が「商材」であるということと、本質的には同型の話であろう。

 だから、商品がどれだけ優れていようとも、それに関する様々な見解が世界を震撼させる革命的な思想として炸裂することは有り得ない。どんなに感銘を受けようと、精神を昂揚させられようと、所詮それは凡庸な「消費」の一例でしかない。衣服を買う、食品を買う、本を買って読む、これらは何れも極めて個人的な「愉楽」であって、そこに画期的な社会性が宿ることはない。小説を読むことは、個人的な「生」の現場と結びついた小さな営みであり、そこに大いなる「社会的意義」を見出すのは独善的な陶酔でしかないだろう。

 だが、それでも時に「小説を読む」ことは個人の精神に対して革命的な影響を及ぼすことがある。そのような「革命的影響」が広範な領域に亘って共有されることは殆ど起こり得ないが、だからと言ってそれが無意味であると決めつけるのは酷な話だ。「小説を読む」という小さな営為が、或る個人の実存に齎す影響の大きさは、その社会的な重要性とは無関係に定められる。誰かにとって退屈極まりない或る作品が、他ならぬ「この私」にとっては掛け替えのない崇高な価値を伴って、記憶の一隅に留まり続けることがある。本来、読書という経験はそのような個人的経路を辿ることによってのみ、人間の心に影響を及ぼすのであって、その作品が孕む「社会的評価」などという怪しげな外在的規範に個人が振り回される筋合いはないのだ。「小説を読むこと」は常に「個人的な営為」であり、従ってその個人にとっては極めて重要な意義を孕み得る。無論、そうした個人的な感興が他の人の心にも伝播していくことが有り得るとすれば、それは実に素敵な「共有」であると言える。そうやって地道に繋がり合っていく「感興」だけが、芸術というものの本質的な価値として、私たちの存在を呪縛するのだ。

 村上春樹は言うまでもなく優れた「作家」である。しかし彼がいかにも理屈っぽい学究肌の作家でないことは、彼の文章を読めば直ぐに判然とするだろう。それは彼があくまでも作家として「野性的な出自」を辿り、しかもその個性的な経歴への「執着」と「信頼」を保ち続けてきたことの結果であると私は思う。彼は超越的な理念に奉仕するのでも、商業的な評判に阿諛追従するのでもなく、あくまでも読書から得られる「個人的感覚」だけを道標に据えて、作家としてのキャリアを積み重ねてきたのだ。だから、彼の「読解」に難解な理論性が入り込む余地はない。彼自身がそのような「難解さ」を求めていないのだから、それは当然の現象である。

 文章を書き綴るということは本質的に「自己との対話」であり、自己の中に深く蔵い込まれた様々な想念の束と向き合い、整理整頓し、発掘し、紡ぎ合わせていくことが要諦であると私は信じる。その意味で、書くことは常に「個人的な営為」として結実せざるを得ない。この「若い読者のための短編小説案内」という薄い本において、作家は実に丹念に「緻密な読解」を試みているが、その読解のプロセスが読者の心を惹きつけるのは、そこに極めて個人的な「眼差し」と「息遣い」が行き渡っているからである。例えば吉行淳之介の「水の畔り」というマイナーな短編小説について、彼は分かり易い言葉遣いで、丁寧に自分の感想を書き綴り、その感想をパン生地のように延ばし、広げていく。その見解が学術的=社会的な評価の「権威性」と全く無関係なものであることは、作家自身が何度も但し書きを附している。だからこれは「評論」ではなく「読書案内」と称すべきものであると、謙抑的な口調で附言している。実際、この書物に収められた文章の性質は大上段に構えて振り下ろされた「解釈」などではないだろう。こんな個人的な読解に何の意味があるのか、単なる読書感想文じゃないかと苛立つ読者は、本来「文学」が極めて個人的な営為の総体であることを迂闊にも閑却している。文学という領域に「客観的正解」などという概念が通用する筈がない。それは個人的であることによって他者との共有を可能にするのであり、言い換えれば「自己との対話」を突き詰めていくことだけが、他者への回路を逆説的に拓くところに特色があるのだ。これは近代的な「偏見」に過ぎないだろうか? だとしても私は、文学が常に「個人性」と不可分の関係にあることを信じて疑わない。

 もう一つ、このささやかな「読書案内」が特徴的であると感じられるのは、これが優れた「書き手」によって綴られ、試みられた「読解」であるという点だ。村上春樹は何よりも先ず自身が優れた「文学的創造者」であり、言葉と日々向き合いながら様々な作品を生み出してきた芸術家である。そのことが、彼の読解に類例のない説得力を与えている。単なる玄人の観衆が外野から偉そうに並べ立てる「文学論」ではなく、あくまでも書き手としての実感と経験に支えられた「読み方」が、この本の価値を形成している。この本を読めば、私たちは村上春樹という作家が文学に関してどれほど「思慮深い人物」であるかということを、否が応でも悟らずにいられないだろう。その稠密な読解のプロセスは極めて平易で明快な言葉で表現されているが、そこに詰め込まれた「思索の重量」は生半可なものではない。彼にとって「小説を読む」こと、或いは「読んだ内容について考えること」は非常に切実な関心と情熱に裏打ちされた、重要な営為なのだ。その異様な執着が、村上春樹の卓越した「作家的才能」を構成する大事な礎石であることを、私たちはこの平明な「読書案内」から学び取ることが出来るのである。

 

若い読者のための短編小説案内 (文春文庫)

若い読者のための短編小説案内 (文春文庫)