サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「人間通」の文学 / 「虚無」と「思想」のあわい

 坂口安吾太宰治について書いた有名なエッセイ「不良少年とキリスト」の中に、次のような記述が含まれている。

 芥川にしても、太宰にしても、彼らの小説は、心理通、人間通の作品で、思想性は殆どない。

 虚無というものは、思想ではないのである。人間そのものに附属した生理的な精神内容で、思想というものは、もっとバカな、オッチョコチョイなものだ。キリストは、思想でなく、人間そのものである。

 人間性(虚無は人間性の附属品だ)は永遠不変のものであり、人間一般のものであるが、個人というものは、五十年しか生きられない人間で、その点で、唯一の特別な人間であり、人間一般と違う。思想とは、この個人に属するもので、だから、生き、又、亡びるものである。だから、元来、オッチョコチョイなのである。

 思想とは、個人が、ともかく、自分の一生を大切に、より良く生きようとして、工夫をこらし、必死にあみだした策であるが、それだから、又、人間、死んでしまえば、それまでさ、アクセクするな、と言ってしまえば、それまでだ。

 太宰は悟りすまして、そう云いきることも出来なかった。そのくせ、よりよく生きる工夫をほどこし、青くさい思想を怖れず、バカになることは、尚、できなかった。然し、そう悟りすまして、冷然、人生を白眼視しても、ちッとも救われもせず、偉くもない。それを太宰は、イヤというほど、知っていた筈だ。

 故人に対する複雑な弔意に満ちたこの文章の解釈には、様々な角度と形態が有り得るだろう。過剰に句読点の多い、幾分読み辛い「不良少年とキリスト」に比べれば遥かに明晰に整理された形で、坂口は同様の問題を「思想と文学」というエッセイの中でも取り上げている。そこで彼が語ろうとしているのは「思想」と「虚無」の違いに関してであるが、そもそもこの「虚無」という概念自体、明瞭な定義を試みるには難物である。

 この「虚無」は、或る意味では仏教的な「無常観」の概念に近しいと言えるかも知れない。厳密に言えば、或いは坂口の口吻に倣って言えば「虚無」は「思想」ではない。「思想」というのは個人の精神に宿った主観的な観念の体系であり秩序である。しかし「虚無」というのは、そういう個人の恣意的な信条や固定観念とは無関係に、若しくはそれらを超越して頑迷に存在し続ける不可避の「真理」のようなものだ。武田泰淳の「異形の者」に置き換えれば、密海という中国人の老練な僧侶が、そのような「真理」を象徴していると言えるかも知れない。あらゆる存在は生滅を無限に反復しており、悠久の宇宙的時間に比べれば、人間の一生など刹那的な閃光のようなものに過ぎない。だから地上的な苦悩、現世的な煩悶には一銭の価値もないと、半ば白骨化したような密海さんは仰せになるだろう。だが、そのような「白眼視」が人間を救済することはないというのが、坂口の言い分である。それは彼がかつて僧侶を志しながら結局は俗世に留まった精神的転回の所産であると言い得る。

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 坂口は「人間一般」と「生身の人間」を区別している。一般化され、抽象化された「人間」という理念だけを重んじるのなら、どんな倫理も道徳も信仰も具体的な肉体性を帯びることはない。個人の思想的格闘が輝かしい軌跡を描くこともない。言い換えれば、「真理」というものは「事実」しか含まないということだ。そして「事実」というものは常に、それ以上の新たな運動を私たちに齎さない。「お前がどのように考えようと、これが事実なんだから仕方ない」という冷然たる理窟に対抗するためには、個人的な「感情」を持ち出して応戦するしかないが、それは敗北を定められた戦いである。その敗北を定められた戦いを直ちに無価値であると看做すのは間違っていると、坂口は言い張っている訳だが、結論はそれほど単純明快な形態を持ち合わせていないように見える。

 何らかの思想的な理念に奉じること、それは文学が社会化していくためには必要不可欠の要素だが、そのような思想的不純物が却って個人的な手触りの減殺に傾くことも確かな事実である。何と言えばいいのか、現実を変革するための具体的な議論が否が応でも「社会的な一般性」に基づくことを避けられないのに対し、個人的な手触りに固執することは「議論の中断」を要求する。「虚無」という言葉に集約された「原本的な人間性」(「思想と文学」)は、発展することも後退することも有り得ない不動の普遍的な「事実」である。そこには「意見の交換」という尤もらしい御題目が入り込む余地すら確保されていない。「私がそのように感じる」ということを超えて、もっと根源的な領域の問題として「原本的な人間性」は存在する。それは時代や環境を超越して、文化的差異にも拘束されることなく、あらゆる人間に「一般的に」妥当するような生存の諸条件である。その「原本的な人間性」に関する事実を描き出すのに「短篇小説」という形式が用いられるのは、それほど煩雑な理窟の絡んだ成り行きではない。「原本的な人間性」に関する事実を述べるのに、多くの言葉を費やす必要がないからなのだ。それは「分かり切った事実」であり、様々な議論が衝突し合う理由も必然性もない。

 「事実の絶対性」に関して、個人の主観的な「意見」が容喙することは不可能である。「どういう死を迎えたいか」という議題に関しては幾らでも無限に「意見」を述べることが可能であるが、「人は必ず死ぬ」という事実に関して「意見」を述べるのは単に無意味である。「死」は「原本的な人間性」の問題そのものだが「死に方」は「思想」の範疇に属する問題である。この垣根は極めて本質的な相違点であって、文学が現に生きている人間の魂に宿った「啓示」を描き出すものであるならば、それは「短篇小説」の枠組みには収まり切らないだろう。そういった意味で「小説」というのは本来的に「議論」であり「意見」であると言える。どうにもならない確かな「事実」を切り取るためには「議論」や「意見」は不要であり、従ってそのような「事実」を巡って綴られた「小説」が堅牢な物語的構成を要求することは考え難い。無論、そうやって杓子定規に定義を固めてしまう必要もないが、そのような傾向が看取されること自体は客観的な事実であろう。「思想」は発展し、生成変化を繰り返すが、「原本的な人間性」はあらゆる歴史的拘束を飛び越えて普遍的に存在し続ける。何れが「文学」か、という議論は率直に言って無益な狭隘さに奉仕する問題構成でしかないと私は思う。両方とも「文学」という領域において真摯に取り沙汰され得る「議題」であると考えるからだ。