サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「人間通」の文学 / 反復する「生」をめぐって

 先日の記事で取り上げたテーマを引き続き敷衍してみようと思う。

saladboze.hatenablog.com

  今日、たまたま立ち寄った市川の有隣堂書店で内田樹の「もういちど村上春樹にご用心」(文春文庫)を買い求め、ぱらぱらと捲りながら読んでいた。その中で内田樹は、村上春樹の小説が「極めて原型的な物語」であり「神話的な構造」を備えているという趣旨のことを述べている。それは彼が予てから繰り返し語っている指摘であり、持論であるが、改めて昨日の夜考えていたことと結びつけると、更に思索が進みそうな気がしたので、今こうしてブログの編集画面を開いている訳だ。

 そもそも昨夜の記事でも私は、坂口安吾太宰治について書きながら、一方では村上春樹の小説についても語ろうと考えていたのだが、紙幅と気力が尽きたために何も触れずに執筆を卒えてしまったのであった。私の考えでは、村上春樹の小説というのは極めて「原本的な人間性」(©坂口安吾)を巡って書かれている。その意味では、彼の文学的才能は芥川龍之介太宰治系譜に連なるものであると言えよう。別の言い方をすれば、村上春樹の創造する文学的作品は、本質的に「物語」であって「小説」ではないと定義し得るかも知れない。村上自身、様々なインタビューやエッセイで「物語」という言葉を偏愛的に用いているし、内田樹の本の中でも、このような記述が含まれているのに先刻眼が留まった。

 蓮實重彦が「村上作品には構造しかない」と指摘していましたが、これはたしかに村上文学の本質を衝いている。ほんとうにそうなんです。ただ、村上春樹はそのことにかなり自覚的だと僕は思います。凡庸な作家は自分が投じられている「構造」には無自覚で、自分がそこに閉じ込められている「構造」の中でそれと知らずに書いている。でも、村上春樹はそうではない。逆に世界に「構造を与える」ことを物語作家の責務だと思っている。たぶん、そうだと思います。だから、村上文学が「神話」になるのは当たり前なんです。

 ここでいう「構造」という観念が、坂口安吾の「虚無」や「原本的な人間性」と重なり合うものであることは明白だ。同時にそれは「物語」であるとも言える。「物語」もまた、或る決まり切った構造の果てしない「反復」であり、時代や環境に左右されない普遍的な超越性を宿しているからだ。その意味で「物語」は近代的な「小説」とは異質な領域である。当世流行の騎士道物語のパロディとして綴られたセルバンテスの「ドン・キホーテ」を嚆矢とすると言われる近代文学=「小説」は、そもそもが既存の「物語」の換骨奪胎や批評的解剖を中心的なエネルギーとして含んでいる。そこには一回的な固有性を刻印された「近代的自我」の問題が常に潜在しており、「個人」としての自立性=完結性が主要なドグマとして称揚される。そのような「近代的自我」のイデオロギーが、太古の昔から連綿と受け継がれてきた神話的な物語の数々と、根本的に異質な次元に属するものであることは論を俟たない。坂口安吾が「原本的な人間性」と呼ぶものは、神話的な普遍性を備えた「物語」であり、反対に近代的な「小説」は「思想」の範疇に包摂されていると考えるべきである。

 遠い昔、村上春樹の「ハンティング・ナイフ」について初めて評論のような文章を草しようと試みたとき、私はその作品に含まれる記述の中に具体的な形で結晶した「思想」を見出すことが出来なくて困惑したことを覚えている。それは恐らく村上の作品が徹底して「原本的な人間性」を巡る神話的な物語として構築されているからであり、そこに生々しく露頭した「個人的思想」の告白を見出せないという事実は、彼が近代的な小説の系譜に従属的ではないことの表れなのかも知れない。手詰まりとなった私は窮余の策として、半ば強引に「アメリカと日本」という政治的=歴史的な図式を捻じ込んで評論の体裁を整えようと試みたのだが、それが作者自身の「思想」とは全く無関係な暴論に過ぎないことは当時から分かっていた。そもそも、そのような暴論を曲がりなりにも適用し得たという事実そのものが、村上の作品を貫く「原本的な人間性」の働きを傍証していると言い得るだろう。

 「物語」は「反復」であり、人間の「生」があらゆる歴史的制約を超越した「物語の反復」によって支配されていることは客観的な事実である。例えば中上健次は「枯木灘」という作品において、そのような「反復」に囚われた実存に対する苛立ちを表明し、その普遍的な「系譜」の破壊を試みていた。親が子を作り、成長した子供がまた身籠って子孫を生み落とす。人類の誕生以来、無限に繰り返されてきた「血の歴史」の原本的な反復性に、中上の作り出した主人公「竹原秋幸」は強烈な抑圧を感じて悶え、暴発するのである。

 最近、少しずつ読み進めている大岡昇平の「野火」にも、このような問題と関連する記述が含まれていたので引用しておく。

 比島の林中の小径を再び通らないのが奇怪と感じられたのも、やはりこの時私が死を予感していたためであろう。我々はどんな辺鄙な日本の地方を行く時も、決してこういう観念には襲われない。好む時にまた来る可能性が、意識下に仮定されているためであろうか。してみれば我々の所謂生命感とは、今行うところを無限に繰り返し得る予感にあるのではなかろうか。

 大岡の書く「今行うところを無限に繰り返し得る予感」という言葉が、生きるということの根源的な反復性を示唆するものであることは自明であろう。「無限の反復」が私たちの生を規定する基礎的な条件であること、それはまさに「物語」の発想である。一方、個人の掛け替えのなさを謳い、そのオリジナリティ=一回性に固執する「近代主義」の思想が、そのような「反復」を否定するものであることも、私たちは同時に視野に入れておくべきである。「反復」を否定することから「思想」は出発する。「虚無」という「原本的な人間性」に頭を垂れて従うことへの深刻な嫌悪が、個人の固有性に異様な執着を示す近代的価値観の原動力なのだ。武田泰淳の「異形の者」に書き込まれた「私」の苦悩もまた、同様の問題を巡っていると言い得る。坂口安吾は「反復」の否定こそ「小説」なのだと煽動することで、物語的な反復に無自覚に埋もれていく傾向の強い、日本の古びた「家」への抵抗の烽火を掲げようと試みたのではあるまいか。それは結局のところ「思想」の問題である。無論「風と光と二十の私と」を徴すれば判然としているように、坂口安吾は一貫して「思想」の擁護者であり、万古不易の「反復性」を憎悪する革命家であった。その急進的な革命主義を愛好し、信奉する人々にとって、村上春樹の「物語的普遍性」が一種の退行のように映じるのは避け難い成り行きであろうが、別の見方をすれば「思想」に固執して「物語」の反復性を峻拒することは「子供の我儘」のようなものであるとも言い得る。その優劣を詮衡し、理非を断じる資格も才能も、私の貧しい脳味噌には宿っていない。だが「思想」のない人生など、退屈であるに決まっている。煎じ詰めればそれは、人生に何らかの「意味」を求めるかどうか、という趣味の問題である。どちらかと言えば、私は「意味」を要求するタイプの人間だ。それが人間の「幸福」との間にどのような相関性を持つのかは、神のみぞ知ることではあるけれども。