サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「人間通」の文学 / 「反復」を拒絶する「思想」

 ここ数日『「人間通」の文学』と称して連続的に同一のテーマを取り上げている。

saladboze.hatenablog.com

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 先日の記事では、私は大岡昇平坂口安吾の作品を導きの糸として「反復」という概念について考察を加えてみた。本日はその続篇である。

 生きることが「反復」であるという考え方は、決して目新しいものではない。卑近な事例を挙げれば、例えば私たちは毎日のように食事を取り、睡眠を貪り、排泄を行なう。心臓は片時も休まずに脈打って全身の血流を維持しているし、少なくとも私は週の大半を通勤電車に揺られて職場へ出掛けていく。もっと時間的に範囲を広げてみれば、例えば私たち人類は皆、度重なる「生殖」によって何度もコピーされながら長い歴史を踏み越えてきた。それが「生殖」の「反復」であることは言うまでもない。生きることは常に同一の行為が微妙な差異を孕みながら反復されていくプロセスであり、私たちはそれら様々な波長の「律動」の強制力から逃れることが出来ない。

 比島の林中の小径を再び通らないのが奇怪と感じられたのも、やはりこの時私が死を予感していたためであろう。我々はどんな辺鄙な日本の地方を行く時も、決してこういう観念には襲われない。好む時にまた来る可能性が、意識下に仮定されているためであろうか。してみれば我々の所謂生命感とは、今行うところを無限に繰り返し得る予感にあるのではなかろうか。

 大岡昇平の「野火」に含まれるこの省察は、生きることが「反復」に他ならないことを明確に示唆している。中上健次が「枯木灘」で執拗に問い詰め続けたのも、このような「生きること」に纏わる不可避的な反復性への二律背反的な感情であろう。それは彼の場合、極めて重層的な形で問い質され、描出されていると言える。土方仕事に従事する竹原秋幸は、労働を通じた自然との交歓を「反復」という形式によって感受する。それは紛れもない「愉楽」なのだが、一方で彼は「生殖」の反復性に対する嫌悪の情も併せ持っている。これは咄嗟の思い付きに過ぎないが、秋幸が「生殖」に附随する「血の反復」を呪うのは、それが絶えず微妙な「ズレ」を含んでしまうからではないだろうか。つまり「反復」というものには幾つかのバリエーションがあり、「自然」における「反復」と「人間」における「反復」との間には微妙だが決定的な「ズレ」が刻み込まれているのではないか。いや、この構図は精確ではない。

 労働における「反復」には言い知れぬ「自涜」めいた愉楽を覚える秋幸が、血族の「反復」には何故か重苦しい閉塞を見出してしまうのは、若しかするとそれが「反復し得ないもの」であるからではないか。「岬」でも「枯木灘」でも、或る特権的な事件として繰り返し言及されるのは、雛祭りの朝に起きた義兄の自殺である。郁男の縊死は、秋幸にとって容易に書き替え難い決定的な記憶として存在し、名状し難い影響を及ぼし続けている。それは秋幸にとって義兄の自殺が「反復し難いもの」或いは「反復に逆らうもの」として存在し続けるからではないのか。自然的な反復は「固有名」を持たないために幾らでも無限に反復され得るが、人間の歴史には必ず「固有名」が付き纏い、一つ一つの出来事が抜き差しならない特権性を帯びてしまう。その特権性が「反復」に対する齟齬のようなものとして機能するために、秋幸は生きることそのものへの即自的な癒合を遂げることが出来ない。それが心理的には「鬱屈」として表出されるのかも知れない。言い換えれば、人間の固有性とは「反復への抵抗」に存するのではないか。

 例えば仏教には「六道輪廻」という考え方があり、その無際限な「反復」を断ち切るために「解脱」を果たすことが重要な理念として掲げられている。そこに「反復への抵抗」を目指す特異な運動性を見出すのは欺瞞的な暴論であろうか。だが、坂口安吾が「虚無」に「思想」を対置したことを踏まえるならば、強ち詭弁とも言い切れないように思う。只管に繰り返される同型の出来事に「固有の傷痕」を齎すことが「人間の固有性」だとするならば、例えば坂口安吾が「風と光と二十の私と」で次のように述べたこととも符合するのではないだろうか。

 私は放課後、教員室にいつまでも居残っていることが好きであった。生徒がいなくなり、外の先生も帰ったあと、私一人だけジッと物思いに耽っている。音といえば柱時計の音だけである。あの喧噪けんそうな校庭に人影も物音もなくなるというのが妙に静寂をきわだててくれ、変に空虚で、自分というものがどこかへ無くなったような放心を感じる。私はそうして放心していると、柱時計の陰などから、ヤアと云って私が首をだすような幻想を感じた。ふと気がつくと、オイ、どうした、私の横に私が立っていて、私に話しかけたような気がするのである。私はその朦朧もうろうたる放心の状態が好きで、その代り、私は時々ふとそこに立っている私に話しかけて、どやされることがあった。オイ、満足しすぎちゃいけないぜ、と私を睨むのだ。
「満足はいけないのか」
「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。できるだけ自分を苦しめなければならぬ」
「なんのために?」
「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」
 本当だろうかと私は思った。私はともかくたしかに満足には淫していた。私はまったく行雲流水にやや近くなって、怒ることも、喜ぶことも、悲しむことも、すくなくなり、二十のくせに、五十六十の諸先生方よりも、私の方が落付と老成と悟りをもっているようだった。私はなべて所有を欲しなかった。魂の限定されることを欲しなかったからだ。私は夏も冬も同じ洋服を着、本は読み終ると人にやり、余分の所有品は着代えのシャツとフンドシだけで、あるとき私を訪ねてきた父兄の口からあの先生は洋服と同じようにフンドシを壁にぶらさげておくという笑い話がひろまり、へえ、そういうことは人の習慣にないことなのか、と私の方がびっくりしたものだ。フンドシを壁にぶら下げておくのは私の整頓の方法で、私には所蔵という精神がなかったので、押入は無用であった。所蔵していたものといえば高貴な女先生の幻で、私がそのころバイブルを読んだのは、この人の面影から聖母マリヤというものを空想したからであった。然し私は、あこがれてはいたが、恋してはいなかった。恋愛という平衡を失った精神はいささかも感じなかったので、せめて同じこの分校で机を並べて仕事ができたらいいになアと、私の欲する最大のことはそれだけであった。この人の面影は今はもう私の胸にはない。顔も思いだすことができず、姓名すら記憶にないのである。(註・青空文庫から転載)

 恐らく「反復」に淫することは、秋幸が「労働」に淫することで秘められた「愉楽」を感じたように、本来は動物的な生存の形態である。それ自体の是非を安直に断ずることは出来ないが、少なくともそのように考えることは暴論でも詭弁でもない。私の考えでは、坂口の言う「苦しむこと」は「反復への抵抗」と同義である。言い換えれば、「反復への抵抗」を試みることこそ「人間の尊さ」なのだ。