サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「人間通」の文学 / 「滅亡」という特殊な時間性

 引き続き「反復」という主題を巡って妄言を列ねることにする。

 三島由紀夫の「金閣寺」に次のような一節がある。

 私にとって、敗戦が何であったかを言っておかなくてはならない。

 それは解放ではなかった。断じて解放ではなかった。不変のもの、永遠なもの、日常のなかに融け込んでいる仏教的な時間の復活に他ならなかった。

 三島の言う「仏教的な時間」が「反復」という観念に照応していることは、概ね確かな事実であると私は考える。「永遠なもの」は「死=涅槃」と結び付けられるべきではない。寧ろそれは「反復する生」との間に分かち難い緊密な関係性を有しているのだ。そう考えないと、私たちは「金閣寺」という作品に精緻に刻み込まれた三島の「思想」の様態と内実を見誤ることになるだろう。「私」の目的はあくまでも「反復する生」の破壊であり、無際限に繰り返される「反復」の閉塞性に決定的な打撃を与えることなのである。だからこそ、彼は「敗戦」が「解放ではなかった」ことを執拗に強調するのだ。何故なら「敗戦」によって「私」は、「金閣寺と共に亡びる」という甘美な夢想の実現を妨げられてしまったからである。

 私を焼き亡ぼす火は金閣をも焼き亡ぼすだろうという考えは、私をほとんど酔わせたのである。同じ禍い、同じ不吉な火の運命の下で、金閣と私の住む世界は同一の次元に属することになった。

 「滅亡」することへの「私」の奇怪な執着は、それが「生」の根源的な反復性に対する致命的な打撃を意味することに基づいている。戦時中の日本人が悉く「死の予感」を胸底に宿らせていたことは恐らく歴史的な事実であり、その当時、私たちの国土を覆っていたのは三島の言う「仏教的な時間」とは異質な「時間性」であったと考えられる。それは「反復」が断ち切られる可能性を行住坐臥、総ての局面において鋭敏に意識し続けなければならない「戦場の時間」である。或いはもっと端的に「滅亡」と称してもいい。何れ必ず滅び去るであろうという不吉な予覚が、日頃の私たちが当たり前のように受け容れている生存の枠組みを、即ち生存の「反復性」という概念を根底から覆してしまうのだ。

 敗戦は私にとっては、こうした絶望の体験に他ならなかった。今も私の前には、八月十五日の焔のような夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと人は言うが、私の内にはその逆に、永遠が目ざめ、蘇り、その権利を主張した。金閣がそこに未来永劫存在するということを語っている永遠。

 天から降って来て、われわれの頬に、手に、腹に貼りついて、われわれを埋めてしまう永遠。この呪わしいもの。……そうだ。まわりの山々の蝉の声にも、終戦の日に、私はこの呪詛のような永遠を聴いた。それが私を金いろの壁土に塗りこめてしまっていた。

 敗戦によって「死」の絶対性が解除された瞬間から始まる「私」の苦悩は、生きることに染み込んだ「反復」の絶対性への煩悶に由来している。だが、このような考え方は特殊なものではないだろうか。言い換えれば、生きることの絶対的な反復性から逃れるための手段が「滅亡」しか存在しないというのは、余りに極論へ傾き過ぎていないだろうか。

 いや、見方をもう少し切り替えてみる必要がある。中上健次の「枯木灘」において描出された「労働」における「反復」が、人間の精神に附与する即自的な「快楽」を思い浮かべてみるとき、恐らくは大多数の人々にとって「敗戦」は、そのような「反復」の復旧という意味合いで「解放」であり「救済」であったに違いない。にもかかわらず、三島の描き出す寺僧は何故か、そのような「生の反復」への回帰を「呪わしいもの」として嫌悪している。その逆転が特異で病的なものを含んでいるとしても、それだけを理由に彼を狂人のカテゴリーに押し込めて事足れりとする訳にはいかない。本来、人間にとって不快の源泉となるのは「反復し難いもの」「反復され得ないもの」の存在である。「反復」の恢復は、寺僧である「私」にとっても悦ばしい奇蹟であるべきなのだ。恐らく、このとき問題になるのは「金閣」という不変の存在、寺僧の脳裡で極限にまで高められた美的象徴としての「金閣」の介在であろう。端的に言えば、この作品の語り手である「私」にとって「金閣」は「反復され得ないもの」の特権的な象徴なのである。だからこそ、彼は「金閣」を焼き亡ぼすことによって「反復され得ないもの」を消し去り、生きることの根源的な反復性を奪還しようと企てたのではないか。そのことによって彼は「金閣」に附与されていた「永遠性」という幻想を剥奪し、歴史の風雪に堪え抜いてきた堅固な「金閣」さえも、森羅万象を押し流す巨大な世界的「反復」の過程の一部に過ぎないことを証明しようとしたのである。

 おしなべて生あるものは、金閣のように厳密な一回性を持っていなかった。人間は自然のもろもろの属性の一部を受けもち、かけがえのきく方法でそれを伝播し、繁殖するにすぎなかった。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。私はそう考えた。そのようにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、一方では人間の滅びやすい姿から、却って永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、却って滅びの可能性が漂ってきた。人間のようにモータルなものは根絶することができないのだ。そして金閣のように不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人はそこに気がつかぬのだろう。私の独創性は疑うべくもなかった。

  「反復する生」から逃れることが救いであるならば、単に自殺すれば済む話だ。しかし「反復する生」への回帰を妨げる「反復され得ぬもの」の存在が問題であるならば、様相は異なってくる。三島にとって「反復され得ぬもの」とは「時間の凝固物」であり、「金閣」の特権的な美しさは、それが「反復され得ぬもの」であるという存在の条件によって支えられている。その礎を突き崩し、破綻させることで、彼は「反復」を取り戻そうと試みる。だからこそ金閣寺を焼いた後、作品の結末で寺僧は次のように述べるのだ。

 別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一ㇳ仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。

 「反復され得ないもの」は、人間の「反復」の快楽を阻害し、停止させる。生まれ育ち、子を生し、年老いて死んでいくという動物的な「自然過程」に自足出来るのならば、私たち人間にとって、それ以上に幸福なことはない。だが、それは或る意味では「幸福の閉鎖性」とも言うべき状態であって、人間の「尊厳」が問われるのは寧ろ「反復され得ぬもの」との根源的な対決を強いられるような局面においてなのだ。坂口安吾が「苦しむこと」を「人間の尊さ」と結びつけたことには、これらの消息が関与している。反復することの不可能な固有性に呪縛されること、言い換えれば単なる思い出へと済崩しに一般化させることの出来ない「特異な経験」を記憶し続けること、或いはそうした種類の経験に精神と存在の総てを規定され続けることが、人間の「苦悩」の種子となるのだ。中上健次の「枯木灘」で、竹原秋幸が浜村龍造の「血」に苦しめられるのも、義兄である郁男の縊死の記憶に拘束され続けるのも、それが容易に書き替えることの出来ない絶対的な「固有性」を刻印された「反復され得ぬものの経験」であるからだ。だが、何故それらは「反復され得ない」のだろうか?