サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「物語ること」への奇怪な欲望 身も蓋もない「真実」を遮るために

 人間が或る纏まった「物語」を語って聞かせようとする奇妙な欲望に取り憑かれたのは、一体いつ頃からの話なのだろうか? 無論、太古の昔から人間が空想的な物語を、恐らくは現実の事件や記憶を材料に、それを空想的な物語へ置き換えて徐々に筋書きを整備していったことは、世界中で受け継がれる民族固有の神話の数々を眺めれば、自ずと推測され得る歴史的な事実であろう。或る名状し難い出来事(悲劇であれ、喜劇であれ)に遭遇した人間が、それを誰かと共有したいと考えるのは人性の必然であり、それ自体は特に奇異であるとも思われないことだ。しかし、私たちは何故、実際の事件ではない、架空の出来事さえも共有することに積極的な態度を選択し得るのだろうか?

 例えば身内の不幸を血の繋がった一族が懐かしむように悼むように語り合うのは(例えば「枯木灘」の登場人物たちが何度も故人を思い出して言葉を尽くすように)、紛れもなく客観的な事実の共有であり、そこには潤色や誇張が有り得たとしても、純然たる虚構が容喙することは一般的には考えられない。それは歴史的な「事実」の共有であって、全くの絵空事を語り合うのとは次元も範疇も異なる問題である。私が知りたいと思うのは、純然たるフィクションを語ることと、それに耳を傾けること、それら一連の営為が何故、私たちの日常的な生活において普遍性を備えて現れるのか、ということだ。

 神話の世界の物語が、当時の人々によって半ば信じられていた「真実」であったとしても、それが豊富な寓意を含んだ「虚構」として受け取られていたことも「真実」の一つの側面であっただろう。この問題は実に微妙な両義性を含んでいて、一義的な裁断を許さない。例えば敬虔なキリスト教徒の信じる神々の教えは「虚構」だろうか? 恐らく誰かが歴史上の或る地点において発明した「虚構」であることは概ね確実だろうが、例えばアメリカのキリスト教原理主義者のように、ダーウィンの進化論を否定して造物主の偉大な功績を盲信し続ける人々が現実に存在するとき、それらの「物語」をどこまで「虚構」と呼べるのかということは、確定した結論を持ち得ない重層的な問いである。

 いや、もっと思い切って言ってしまえば「物語」にとって「虚構性」ということは重大な要点ではない。物語ることは、固より「事実」と「空想」の複雑な混淆として営まれるのが通例だ。だが、それでも映画や小説などを通じて、具体的な事実に即さない、フィクションとしての純度の高い「物語」が量産されていくのを眺めるとき、私は奇妙な感慨に囚われずにはいられない。何故、人間はこれほど多くの「嘘」に精神の内奥を掻き回されることに積極的な親愛を示すのか? 無論、その嘘が「実話」を背景に据えることで、「純然たる虚構」よりも更に劇しい表現力や伝達力を確保する傾向があることは、私たちの社会においては常識である。しかし、実話に基づいた「虚構」が持て囃され易い時代にあっても、その傾向が直ちに「純然たる虚構」の価値を貶めるという訳ではない。私たちは純粋に、或る意味では単純明快なほどの素朴さで「嘘」を追い求める。その理由を説明するためには、私たちの有する「真実」の苛烈さに根拠を求めるのが適当であろう。言い換えれば、身も蓋もない苛烈な「真実」を直視することは常に、人間の魂に残酷な打撃を与える。その残酷な打撃から少しでも身を躱す為に、耳障りではない素敵な「嘘」が捏造され、活況を呈する訳だ。そのような心理的絡繰は、数千年前から衰えることを知らない人類の習慣であり伝統であると言えるかも知れない。

 人間は何れ必ず死ぬ。それは極めて単純でありながら、同時に白骨のような寒々しさを喚起する崇高な「真実」であり、誰かの個人的な思惑によって左右されることのない峻厳な絶対性を帯びている。人間は「無意味に死ぬ」ということに堪え難い苦痛を覚える奇特な生き物で、言い換えれば「無意味に死ぬ」ことに堪えられないからこそ、人間は他の動物から独自の分離=乖離を遂げたのだ。そのとき、人間は様々なイメージや記憶を存分に駆使して「何れ必ず死ぬ」ということに何らかの救済的な「意味」を刻み込もうと悪戦苦闘する。あらゆる宗教が「死」を巡って豊饒な思索を積み重ね、教義を錬磨してきたのも、煎じ詰めれば「死ぬこと」に「意味」を孕ませようとする欲望を振り切れなかったからだろう。もしも「意味」を授けることに失敗すれば、人間の魂は「虚無」の深淵に沈みこんでいくしかない。坂口安吾が「虚無」を「原本的な人間性」と結び付けたのは、私たちの人生が根本的に、そのような「虚無」の地獄の上に成り立っていることを省察していたからだ。無論、それは坂口の個人的な独創ではなく、人類全体が何千年も見凝め続けてきた「不都合な真実」である。

 どんな「物語」も結局は人間の抱え込んでいる根源的な「虚無」の邪悪な効果を減殺するために存在していると言える。「物語ること」への熱烈な欲望は、そのような「虚無」に対する健気な挑戦であり、超克のプロセスである。それは武田泰淳の小説「異形の者」において「仏教」が象徴していたような世界の実相の根源的な「冷酷さ」に対する果敢な否認の身振りなのだ。無論、生半可な物語で乗り超えられるほど、世界の実相は生易しい姿をしていないが、それでも抗い、戦わずにいられないのが人間の生得的な本性である。それさえも否定してしまえば、人間は人間であることの理由を失ってしまうだろう。つまり「物語」とは人間の存在する「意味」そのものなのである。