サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

自分勝手に書くこと 「一般論」という陥穽に抗して

 私がこのブログを運営するに当たって心掛けていることが一つある。誤解され易い表現であることを承知の上で敢えて言わせてもらえば、それは「自分勝手に書く」ということだ。この「自分勝手」というのは、普遍性のある客観的な明快な言葉で書くのではなく、自分の独善的で排他的な主観が染み込んだ、屈折した文章で意見や思索のプロセスを書き綴るというような意味合いである。何故、そんな不毛な方針を自らに課しているのかと問われれば、それは「一般論に向かって滑落する」ことを避けるためであると、とりあえずは言えるだろう。

 無論、このような言種が反発を招き得ることは分かっている。その反発は、様々な形態と論理を持ち得るだろう。わざわざ意図的に小難しく不透明な言葉を選んで文章を草するのは、読者に対する親愛や誠意を欠いた態度であると言えるし、或いは逆に、個性を出そうと主観的な言葉で綴っている積りかもしれないが、その大意を要約すれば至極凡庸な「一般論」の域を出ていないではないか、といった形の批判も有り得るだろう。何れの場合にも、無根拠な言い掛かりだと斥ける訳にもいかない説得力と信憑性が備わっている。読み易く分かり易い文章を推敲と彫琢によって目指すのが誠実な書き手の心得というものであろうし、気取って驕慢な態度で独創性を誇ってみたところで、それは単なる醜悪な自己満足に過ぎず、実際の内容は有り触れた省察を得意げに語っているだけの空疎なものでしかないと叱声を浴びる可能性もあるだろう。だが、それでも私は「自分勝手に書く」という心構えを一種の「倫理」のようなものとして考えてみたい。

 坂口安吾は「思想」が個々人の固有の人生に附随した主観的な体系であるという趣旨のことを、その随筆の中でしばしば語っている。言い換えれば、人間の切実な要求が生み出した「思想」という観念の集積は、世の中の厳密なる「真実」そのものとは本質的な相関性を有していないのだ。それは人間の恣意的な主観によっては断じて動かされることも揺さ振られることもない絶対的な「真実」と対峙する上で、個人が己の特性に基づいて拵える手作りの方法論のようなものである。客観的で普遍的な「真実」を捉えることは、いわば「思想」の原基のようなものでしかない。「人は何れ必ず死ぬ」という命題は「思想」ではなく純然たる「真実」でしかないのだ。だが、その命題から引き出される諸々の思索、例えば「どうやって死ぬべきか」「死が定められたものならば、自分は生きている間、何をすべきか」といった問題は「思想」の領分に属する主題であろう。

 誰にでも分かり易い「普遍性」を目指すとき、私たちは純然たる「真実」以外の命題を発することが出来なくなる。「死ねば総て終わりだ」の一言で何もかも片付けてしまえるなら、そこに個人的な思想が繁茂する必要はない。個人的な信条や意見を声高に訴えて、厳然たる真実に逆らう理由も消え去るだろう。「どうせ死ぬのだから、生きることに意味はない」というニヒリズムは、あらゆる「思想」の拠って立つ基盤を吹き飛ばす爆薬のようなものだ。

  私はおののきながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。実際、泥棒すらもいなかった。近頃の東京は暗いというが、戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締なしで眠っていたのだ。戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。(坂口安吾堕落論」註・青空文庫から転載)

 恐らく「虚無」は「美」と類似した現象である。それは人間から「思想」を奪う絶大な力である。考えることを奪われた人間にとって、言い換えれば「意味」を剥奪された世界に生きる人間にとって、総ては黙って見惚れる以外にどうすることも出来ない絶対的な「真実」でしかない。そこに「人間の真実の美しさ」が欠如していると看做す坂口は恐らく、何らかの「思想」を獲得することこそ人間の「本懐」であると信じていたのだ。「虚無的な美しさ」は、人間の本性に逆らう不自然な、非人間的な美しさである。

 話が脇道へ逸れてしまったが、私にとって「書くこと」は「考えること」に他ならず、従って「考えること」は絶えず「生きること」と結びついている。誰にでも言える一般論、誰にでも当て嵌まる原本的な真実は、私自身の固有の生命との間に緊密な聯関を有することがない。私が考えることは、私が生きることと不可分の関係にあり、そこには普遍的で合理的な一般論を挿入するだけで片付くような問題は一つもないのだ。だとしたら、考えること=書くことは常に自分自身の固有性と向き合うための営みであるべきだ。私が死ねば、私の「思想」は用済みになり、海の藻屑と化すだろう。無論、それが何らかの形で他人の手に渡り、受け継がれることがあったとしても、その瞬間から根源的な「変質」は開始せざるを得ない。だが、それが悪いことだろうか。誰にとっても共有可能な真実など、わざわざ語るには及ばない。何もかも通分して、最大公約数を弾き出して、それが世界の「真実」を穿っていたとしても、それだけでは、その真実は私の生涯の支えにはならないのである。自分の人生は自分の思考と行動に基づいて開拓されるべきものであり、そのためには他人の語る明快な一般論に一から十まで頷き続ける訳にいかない。私が「自分勝手に書くこと」を重んじるのは、書くこと=考えることを、自分自身の人生に少しでも役立てるための極めて小さな「創意工夫」なのだ。