サラダ坊主日記

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任意と必然 大岡昇平「野火」に関する読書メモ 2

 本日、大岡昇平の『野火』(新潮文庫)を読了したので、個人的な感想を書き留めておく。

 「野火」という小説が所謂「戦争文学」の一つのユニークな絶巓であることは疑いを容れない。フィリピンのレイテ島を舞台に据え、敗兵となった「私」の、死を覚悟した上での極限の彷徨を描いた本作の「時空」が徹頭徹尾、戦争の残虐な側面によって塗り固められていることは事実だ。しかし、それが例えば「反戦」や「厭戦」といったテーマを感傷的に描き出しているという意味ではないことには、注意を払うべきであろう。確かに作者の眼は熱帯の山林を彷徨する「私」の異様な精神状態に憑依しているが、それは戦争の無残な実相を告発することで「戦争」への反発や抵抗を喚起しようというヒューマニズムとは直接的な関連を持たない。

 「野火」を論じる評者の多くが着目するカニバリズム(人肉食)の問題も、その生々しく衝撃的な描写の強度とは裏腹に、作者にとってはそれほど重要な主題ではないのではないかという印象を、少なくとも私は受けた。実際、人肉を食らうという忌まわしい事件が描かれるのは作品の終盤に限られており、復員後のシークエンスでも「私」は次のように述べて、カニバリズムの問題をさらりと流してしまっている。

 ただ連続睡眠とか電撃とか、蓋然的療法によって、私の拒食の習慣が除かれたことだけは、それだけ私の毎日の生活から面倒が減ったから感謝している。

 私の家を売った金は、私に当分この静かな個室に身を埋める余裕を与えてくれるようである。私は妻は勿論、附添婦の同室も断った。妻に離婚を選択する自由を与えたが、驚くべきことに、彼女はそれを承諾した。しかもわが精神科医と私の病気に対する共通の関心から感傷的結合を生じ、私を見舞うのを止めた今も、あの赤松の林で媾曳しているのを、私はここにいてもよく知っているのである。

 どうでもよろしい。男がみな人食い人種であるように、女はみな淫売である。各自そのなすべきことをなせばよいのである。

 この奇妙なほどに徹底された現実への無関心と蔑視が、彼の経験した「戦争」の記憶に由来するものであることは確かである。だが、それは怒りでも反発でもない。最も根本的に、私がこの「野火」という小説に感じる特異性は、この奇怪な無関心と裏腹に「私」の精神を領している已み難い「認識への欲望」である。その欲望の強烈さが、作品の文体に偏執的なまでの「明晰さへの意志」を附与しているのだ。

 無論、重要なのは、戦争の残酷な断面をこれ見よがしに克明に描写して、読者の鼻先に陳列してみせることではない。作者の駆使する文体の徹底された明晰さは、そのような感傷的な煽動とは根本的に無縁である。彼は戦争の倫理的な罪悪という問題に、その関心の本質的な部分を宛がっているのではない。これほど強烈で苛酷な経験を詳さに言葉へ置き換えているにもかかわらず、彼の最も重要な主題はあくまでも彼自身の「意識の変容」なのである。どれほど熱帯の風景の描写が克明であろうとも、彼は「世界」の探索よりも「精神」の探索の方に重きを置いている。言い換えれば、彼は戦場の経験を礎として「自己」という存在の本質を剔抉しようと試みているのだ。

 引き返そうか、という考えが頭を過ぎたが、これまで来た泥を、帰って行くことも、出来そうな気がしなかった。ままよ、行けるところまで行って、動けなくなったら、殺されてもいいではないか。死ぬまでだ。これまでにも幾度か、そう自分に納得さして来たではないか。

 死の観念は、私に家に帰ったような気楽さを与えた。どこへ行っても、何をしてみても、行手にきっとこれがあるところをみると、結局これが私の一番頼りになるものかも知れない。

 私は不意に心が軽く、力が湧くように思った。泥から足を抜く動作の一つ一つも、最早私にはどうでもよい、任意のものと感じた。そして早く進んでいるような気がした。

 この安易な感覚に伴って、一つの奇妙な感覚が生れて来た。私は自分の動作が、誰かに見られていると思った。私は立ち止った。しかし音もない暗闇の泥濘の中で、私を見ている者がいるはずはなかった。私はすぐ自分の錯覚を嗤い、再び前進に戻った。

 しかし私は間違っていた。私を見ていた者はやはりいたのである。証拠は、見られているという感覚を否定してからは、私の動作は任意、つまり自由の感じを失い、早くなくなったことである。

 この不可解な感覚の報告は何を意味しているのか、文体の明晰さにもかかわらず、その具体的な内実を精確に捉えることは難しい。端的に言い得るのは、彼の中で「任意」と「必然」という二元論が決して小さくない意義を有しているということだけだ。死ぬことを覚悟することで、いわば生きることへの執着を投げ捨てることで、却って力が湧いてくるという心理的な経路自体は、それほど奇異なものではない。だが、その後の「見られている」という感覚への言及は何を意味しているのか。しかもそれは「任意」と「必然」という二元論的な構図の稼働に影響を及ぼす「何か」なのである。

 「見られている」という感覚が生じるとき、同時に「任意」の感覚が生じるのだとすれば、その「見られている」という感覚の内実は、必然性からの解放を意味するもの、つまり総てを「偶然」に置き換えるような力の働きだということになる。総てが絶対的な意味を持たずに恣意的な、即ち「任意」の結果として現れているとき、人間は積極的な意志を失い、外界からの乖離を強いられることになるだろう。何もかもが偶然であるならば、人間的な意志が固有の「意味」を宿すことはない。

 思索が縺れてきたので、一旦ここで擱筆する。また次回、続きを書くことにする。

野火 (新潮文庫)

野火 (新潮文庫)