サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

時空を超えて / 「読むこと」の秘蹟をめぐって

 大岡昇平の「野火」を読み終えたので、今度は以前に購入して数ページ読んだまま放置していたアルベール・カミュの「異邦人」(新潮文庫・窪田啓作訳)を読み始めた。

 本国のフランスで「異邦人」が出版されたのは1942年のことで、アルベール・カミュがこの小説を世に問うてから既に七十年以上の歳月が流れ去ったことになる。未だムルソーの母親の葬儀に関する叙述を読み終えたばかりの段階だが、これは名訳の誉れ高い窪田啓作の日本語の効果だろうか、実にすらすらと滑らかに読み進めることが出来ている。無論、その根本にはカミュの偉大な文学的才能が作用しているのであろうが、それにしても奇妙なことは、七十年以上前に遠い異国の地で見知らぬ外国人の青年によって書き綴られた或る個人的な小説(この小説の文体には「個人的」という修飾が相応しいように感じる)を、1985年に生まれた日本人の私が日本語で読んでいるという事実の徹底的な「平凡さ」である。これはカミュの作品に限らない。例えば大岡昇平の「野火」(1951年に雑誌「展望」に発表された)にしても、戦争を知らない世代である私にとって、完全なる未知の領域である「戦時下のフィリピン」の風景が、只管に活字を追いかけ咬み締めるという営為を通じて、脳裡に再生されるというのは、奇怪な絡繰であると言えないだろうか。無論、そこに描き出された風景が「現実の忠実な反映」であると思い込んでいる訳ではないが、少なくとも「野火」を書き綴る作者の筆先に、或いはそのインクに生々しい従軍の記憶が染み込んでいることは確かな事実であろう。その混入した他者の「記憶」が文字を通じて、辛くも復員した作者より遥かに年少の無知な日本人の意識に伝播されるという現象は、人間が「言葉」という出所の定かでないシステムを持ち合わせていなければ起こり得なかったことだ。私は作者の言葉を通じて、つまり見知らぬ他人の遺した「書置き」を媒として、見たことも触れたこともない遠い昔のレイテ島やアルジェの風景に仮想的に関わっていくことが出来る。それは本来、有り得ない秘蹟のようなものではないか。

 私は夏目漱石の「吾輩は猫である」という小説を愛好しているが、この作品も百年ほど前に書かれたものであって、同じ国とはいえ百年もの時間的な隔たりがあれば、当然のことながら思考のスタイルも価値観も倫理的な信条も経験も知識も何かもが異なっている。幕末に生まれ、大正の始まりに亡くなった夏目漱石の生涯と、昭和の終わりに大阪で生まれ育った私の半生との間に、完璧な照応を示す出来事や属性など一つも存在しないだろう。にもかかわらず、私が漱石の書き遺した文章に魅せられ、何度も繰り返しページを捲ってきたのは、時空を飛び越えても通じ得るものが何かしらあったからだ。それが具体的に何なのかは、感覚的な問題なので巧く言葉に置き換えることが出来ない。部分的にでも重なり合い、シンパシーを覚えられる箇所が間接的にでも存在したことは事実であろうが、それ以上にきっと、私は漱石に固有の異質な世界に眼を開かれたことで魅了されてしまったのだ。「吾輩は猫である」には明治時代に暮らす或る階級の日本人の感性や思想が結果的に刻印されている。その確かな息遣いが、古めかしくも充分に現代的な措辞の行間から、私の脳裡へ吸い込まれた訳だ。それは恐らく夏目漱石の小説を繙かない限りは決して知ることのなかった「異界」であり、彼が何一つ書き遺さずに逝去していたならば、私はその固有の「異界」が齎す様々な刺激に触れないまま生涯を卒えることになっただろう。その意味で、誰かが書いた文章を「読む」ということは、紛れもない「秘蹟」に他ならない。魔法のように、私は印刷された活字を読解することで、未だかつて味わったことも経験したこともない「異界」の感覚を自らの魂の内側へ招き入れることになる。漱石だけではない。誰かの書いた文章、他人の息遣いや鼓動が象嵌された文章を読むことで、私は私の属さない「範疇」へ足を踏み入れることが出来るのだ。戦時下のレイテ島の密林を彷徨し、マランゴという田舎町で慎ましく営まれた母親の通夜(無論、私の母親ではないが)に参列することが出来るのは、それが自分にとっても他人にとっても存在する共通の媒体である「言葉」に置き換えられ、幸運にも保存されていたからである。彼らが書かなければ語り継がれることのなかった「記憶」や「経験」(それらが虚構であるかどうかは無関係である)が、それが偶然にも「書き遺された」という事実によって、時空を隔てた私の精神へ届いたのだ。それは奇怪な経験であるに違いない。しかもそれは私に限らず、世界中の多様な人々によって共有されることが可能な「経験」なのである。

 若しも「読むこと」が崇高な営為で有り得るとすれば、それは「読むこと」が条件付きではあっても「時空の超越」を可能にするからである。見知らぬ土地で生まれ育った異国の言葉を喋る人間とさえ、直接的に言葉を交わすことはなくとも、私たちは「読むこと」を通じて繋がり合い、その思惑や価値観の一部を分かち合うことが出来る。それは殆ど「祈り」のようなもので、本当に繋がり合えているかどうかは、少なくとも作者が既に物故している場合には確かめようがない。だが、繋がり合えていると信じるのは個人の自由であろう。私が「分かち合えている」と信じるとき、書き遺された文章は無限の可能性に向かって開かれ、その領域を押し広げられる。「文学」という手垢に塗れた観念に価値が宿るとすれば、まさにその「押し広げられる」瞬間を除いて他には考えられない。だから私は今日も文章を読むのであり、その書き手が自分と異質な「赤の他人」であればあるほど、「読む」という平凡極まりない行為は益々、宗教的な「秘蹟」のようなものへと近似していくのである。