サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「追憶」の、様々な側面

 既に日付が変わってしまったが、2011年3月11日に発生した東日本大震災の甚大な災禍から、早くも私たちの国は五年の歳月を閲したことになる。

 昨日はマスコミでもネットでも、様々な場面で「あの日」の追憶が語られ、綴られていた。あの悲劇を二度と繰り返してはならないという論調の下に、多様な対策が検討されるのも大事なことだが、何よりも複雑な気分にさせられるのは、震災によって直接的な被害を蒙った方々の中では、未だに「時間」は停止したままであるという厳粛な事実の動かし難い実在性である。様々な人々が様々な視野に基づいて、様々な追憶を語っているが、被災者の方々の中には、それを語るための言葉を今も見出せないまま、深刻な悲嘆と底知れぬ沈黙の暗がりに心を沈めたままの人もおられるだろう。社会的な問題として、その解決や予防を討議するとき、無暗に私的な感傷を持ち込むのは障碍にしかならないが、傷ついた人たちの魂の「化膿」を置き去りにしたまま、尤もらしい顔で防災の重要性や経産省・東電の責任を論じても詮無いことだ。だからと言って、私に何が出来る訳でもなく、あれから五年間、私自身は絶えず無責任な平穏の中に埋もれて暮らしてきただけである。無論、方法は幾らでもあるだろう。今でも被災地ではボランティアの助けを必要としているのかも知れないし、特別な才能や技術など持たない私でも、雑用ぐらいのことは引き受けられるかも知れない。だが実際には、私は私の人生を営み、押し寄せる些末な問題の数々を克服するだけで精一杯で、理窟では被災者の方々の置かれている苛酷な境涯に人並みの共感を示している積りでも、客観的に見れば明らかに呑気な傍観者の一人でしかないのだ。そんな私が、震災から五年が経過したという事実に刺激され、マスコミの報道に触発されて「あの日」の記憶を巡る簡素なメモワールを綴ろうと思い立つのは、浅ましい野次馬根性以外の何物でもない。

 だが、あの巨大な歴史的災害の記憶を、生々しい直接的な被害者の方々の回想だけで縁取り、社会的な記憶として受け継いでいくだけでは、その全貌をリアルに、綜合的に捉えて保全していくことは出来ない。被災者の方々の凄絶な「痛み」の記憶は断じて風化させてはならないものだが、それだけでは片手落ちなのだ。あのとき、日本中の人々が「震災」の報道を通じて結びつき、やがて時間の経過と共に少しずつ切り離され、平常に復していった。今も「平常」に還ることの難しい状況にある人々の「追憶」とは異なる角度から、私は私なりの拙い言葉で、2011年3月11日の出来事を思い返し、このブログに書き遺しておこうと思う。百年後には、こんな拙劣な雑文であっても、震災当時の日本人の「記憶」を分有する資料として、多少なりとも重宝されるかも分からないのだ。

 当時、私は千葉県の市川市で働いていた。2011年2月1日付の人事で、それまでの配属先であった茨城県つくば市から異動したのである。未だ真新しい環境に馴染み切れていない頃で、何だか借りてきた猫のように恐る恐る働いていたような気がする。しかし今になって思えば、当時の手探りの日々は未だ序の口で、本当の「暗中模索」は震災以降に始まったのだ。

 その日は、何の変哲もない一日だった。ホワイトデーを間近に控え、私の配属された商業施設にもそれなりに賑やかな空気が流れていたのではないだろうか。私は厨房で、揚げ物の支度に取りかかっていた。ボウルに小麦粉と水と生海苔を入れ、ホイッパーで念入りに掻き混ぜて、磯辺揚げの衣を作る。ネタの形を丁寧に整え、作った衣の中へ浸して潜らせる。そして180度に温まったフライヤーの前に立って、それを抛り込もうとしたそのとき、劇しい揺れが訪れた。フライヤーの油が波打って零れるのを辛うじて回避し、私は厨房の外へ出た。誰もが経験したことのない強烈な地震の衝撃に驚いて、呆然としていた。私は折角の揚げ物の準備が無意味になったことを悲しむ暇もなく、任せられていた売り場の状況を点検した。幸い、従業員は怪我もなく、物品の破損も見当たらなかった。一人、関西出身の女性のスタッフがいて、彼女はその強烈な揺れが地震によるものであることを認識すると、床に屈み込んでボロボロと泣きじゃくった。阪神大震災の遠い記憶が、太平洋から押し寄せる巨大な津波のように、彼女の意識を攫ってしまったのだ。

 潮が引くように、館内にいた買い物客の姿は減っていった。JR市川駅のコンコースへ行くと、列車の発着予定を報せる電光掲示板の時刻表示が軒並み消え去り、赤い文字が点滅しているのが見えた。どうやら電車は軒並み運転を休止したらしい。そしてコンコースには、行き場を失ったサラリーマンや主婦や学生たちが、同じ一点を見凝めて棒立ちになっていた。普段は首都圏の路線図を映し出している画面に、異様な光景が出現していた。漆黒の濁流のような津波が、物凄い勢いで地表を覆い、何もかも呑み込んでいるのだ。しかも、その津波は焔を上げていた。戸建ての家が玩具のように押し流され、画面の上端に表示されたテロップは、宮城県内の浜辺で200名以上の遺体が発見されたと告げていた。信じ難い言葉だった。身元も精確な人数も確かめられた訳ではない、夥しい数の屍。それは「現実の言葉」では有り得ないように感じられた。一体何が起こったのか。地震であるということしか分からず、東北地方でどんな惨劇が繰り広げられているのかも分からなかった。

 首都圏の鉄道網が軒並み息絶えたように運行を停止してしまったため、私のいた商業施設も急遽、夕方17時に閉店することになった。それも情報が混乱していたせいか、閉店の五分前に館内へ流れた緊急のアナウンスで初めて、私たちは17時で閉店することを知ったような有様だった。日持ちのしない商材を扱っていたので、慌てて値引きをして叩き売ろうとしたが、もう間に合わなかった。未曾有の天変地異が起きたというのに、損失を懸念して叩き売りに走るあたり、職業的習慣というものの惰性的な影響力は侮り難いものがある。卑しいと言われれば、その通りだろう。

 とりあえず出勤していたメンバーで慌ただしく片づけを済ませると、私はこれからどうしたらいいのか、途方に暮れてしまった。携帯電話の通信回線はとっくの昔にパンクしていて、松戸に住む妻子に連絡を試みても一向に繋がらない。メールを送っても、問い合わせをしないとメールが受信されない。市川駅北口のロータリーには路線バスが4台くらい数珠繋ぎで渋滞していて、タクシーは綺麗さっぱり出払っていた。電車も動かず、止むを得ず私は黄昏の市川駅を離れ、疎覚えの道順を辿って松戸の家まで歩いて帰ることにした。酷く肌寒く、そして喉が渇いた。混乱し、動揺していた私は、漸く繋がった電話で当時の妻に「車で迎えに来てくれ」と頼んだが、怖いから嫌だと断られ、それが原因で口論になった。今になって思えば、なんて身勝手な夫だったろうと、我ながら恥ずかしくなる。

 それでも松戸の伊勢丹の近くで、私は渋々車を走らせて駆けつけてくれた妻子と合流した。彼女は不機嫌で、私も不機嫌だった。それから三箇月と経たぬうちに私たちが離婚へ至った原因の一つは、そのときの諍いであったかも知れない。震災後、世間では「絆」という言葉が持て囃され、震災の恐怖を契機に結婚へ踏み切った人々が少なからず存在した。有事に際し、改めてパートナーの重要性や有難味を思い知ったという訳である。逆に私たち夫婦の場合は、その有事における振る舞いが最終的な引鉄となった。以前から持続していた「不和」は震災を契機に抜き差しならない決裂へ発展したのだ。私は私の醜さを、独善的な人間性を野蛮な獣のように剥き出しにした。前妻はきっと、心の底から呆れ果てたに違いない。

 火を使いたくないから夕食の支度はしないと言い張る彼女の運転で、私たちは市立図書館の近くの弁当屋へ立ち寄ったが、材料が払底しているとのことで、注文したカツ丼は随分と粗雑な仕上がりであった。私の勤め先でも、館内のスーパーは連日大盛況で、特にパンや揚げ物が飛ぶように売れていた。トイレットペーパーなどの生活必需品もあっという間に消えていった。あの頃の特異な雰囲気は最早、記憶の彼方で薄れてしまっているが、兎に角、町中に「有事」の臭気が立ちこめていた。

 あれから五年間が経ち、私は再婚して、間もなく娘が生まれようとしている。勤め先も市川から柏へ移り、知らぬ間に思いも寄らないところへ辿り着いたような気もする。たった五年の歳月でも、人生の局面が一変するには充分な長さであるということだろう。昨年末、船橋ららぽーとで「海街diary」を鑑賞したとき、私は「時間」とは「希望」であるという感想を持った。「時間」の存在しないところに「希望」は生まれ得ない、どんな哀しみも苦しみも、流れ去る「時間」の偉大な効果によって緩和され、いつか澄明な「思い出」へと姿を変えるのだと、幾分感傷的な気分で考えたものだ。だが、被災者の方々にとっては、こんなものは呑気な「戯言」に過ぎないだろう。五年の月日が過ぎ去った今でも尚、多くの人々にとって「時間」は、ずっと停止したままなのだ。凍結されていた原発が再稼働しても、見た目の上では「平常」が戻ってきたように感じられても、滞ったまま動き出せずにいる「魂」の数は少なくない。それを忘れてはならない。無論、それを忘れてはならないと強く念じていても、いずれ必ず忘れてしまうのが人間の性である。だから、こうしてここに書き留めておく。忘れ難い悲惨な「追憶」に今も苦しみ続けている人々の「幸福」を祈るように、ここに書き留めておくのだ。