サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

新しい環境 新しい思想(春に寄せて)

 あと数日経てば、関東のソメイヨシノも開花しそうだと、先ほどNHKのキャスターが笑顔で伝えていた。未だ肌寒い日が続いているが、暖かくなり始めれば一挙に桜が咲いて、冬のことなど忘れてしまうだろう。そうやって何度も何度も、季節は何食わぬ顔で私たちの世界を訪れる。それが単なる物理的な繰り返しに過ぎないと知っていても、喉元を過ぎれば熱さを忘れてしまうのが根っからの習い性である私たち人間にとっては、四季の移り変わりというのは特別な意味を持った現象なのだ。

 最近少しずつ読み進めているアルベール・カミュの「異邦人」に、このような一節がある。

 主人はパリに出張所を設けて、その場で取り引きを、しかも直接大商社相手にとり結ばせたい、という意向を持っていて、そこに出かける気があるか、と私に尋ねた。そうなればパリで生活することになろうし、また一年の何分の一かは旅をして過ごすことになる。「君は若いし、こうした生活が気に入るはずだと思うが」私は、結構ですが、実をいうとどちらでも私には同じことだ、と答えた。すると主人は、生活の変化ということに興味がないのか、と尋ねた。誰だって生活を変えるなんてことは決してありえないし、どんな場合だって、生活というものは似たりよったりだし、ここでの自分の生活は少しも不愉快なことはない、と私は答えた。主人は不満足な様子で、君の返事はいつもわきへそれる、といい、君には野心が欠けているが、それは商売にはまことに不都合だ、といった。

 私がムルソーと同じ立場に置かれたとしたら、こんな風に露骨に無気力な言種で異動辞令の内示をあしらうことは出来ないだろう。受け容れるにせよ、拒むにせよ、もう少し角の立たない言い方というものを、足りない頭を絞ってでも考え付くべく努力するだろう。だが、ムルソーという人物は徹頭徹尾こういう調子で人生に処しており、そこには殊更に反抗的な敵意が備わっている訳でもない。彼は或る意味で、恐ろしいほどの「正直者」なのだ。自分の方針や感想や信条を、何の衒いもなく淡々と述べているだけで、その精神そのものが病的な邪悪さに染め抜かれているのではない。もっと言えば、ムルソーの懐いたような感情の形態というのは、この作品の執筆から七十余年を経た異国の地である現代の日本でも普遍的に見出され得るものではないだろうか。

 「草食系男子」とか「ゆとり=さとり世代」とか、所謂「今時の若者」を形容するためのキャッチコピーは、相応の説得力があるのか、広く世間に膾炙している。物欲や性欲が稀薄で向上心が乏しく、最低限の生活水準で満足してしまうような、上昇意識の欠けた人々という意味で使われているのだと私は解釈しているが、そういう姿に「野心の欠如」を見出して彼是と口さがなく言う人は少なくない。覇気がないとか、自ら学ぼうという気魄がないとか、そういう社会の諸先輩方の言い分には、私も共感出来る部分が幾らかある。だが、野心に燃えて重戦車の如く突き進む生き方だけが正しい訳ではないし、社会的な常識の形というのも、時代が移ろえば同時に変遷していくのが普通である。それだけで「異邦人」呼ばわりされてしまう社会の窮屈さに、ムルソーはずっと一貫して「戸惑い」続けているように見える。それを「反骨精神」のようなものとして解釈するのは恐らく的外れであり、彼は単純に自分自身への誠実な態度を堅持しているだけなのだ。

 私も社会人として働き続けるうちに世慣れてきたのか、俗塵に塗れてしまったのか、油断すれば忽ちムルソーの無気力な態度に呆れ返り、憤怒を禁じ得ない予審判事のような考えを剥き出しにしてしまうことがある。世間の常識を弁えない新入社員を「異邦人」扱いしているのは、小説の中の登場人物たちだけではないのである。

 以前、ブログでも取り上げた部下の社員も先日、本社の偉い人から新たな配属先を呈示されて転職の決意に迷いが生じているらしく、もう一度考え直してみると言ってきた。

saladboze.hatenablog.com

 環境が変わるだけで、人が直ちに華々しい成長を遂げるとは考え辛いし、様々な問題の原因を環境の側へ一方的に押し付け、自分自身の言動を改めないようでは、眼前の状況が好転する見込みは限りなくゼロに等しい。だが、環境の変化が齎す影響を過小に評価する必要もないだろう。春が来れば、また次の新入社員が配属されることになる。そうやって人は順繰りに環境を乗り換えて、新しい考え、新しい思想を手に入れていくのだ。その長期的な循環の過程で束の間、迷いが生じるのは自然な現象である。

 それにしても「野心」というのは不思議な観念だ。それは総ての人間が劇しい熱情と共に生涯持ち歩くべきものではない。ムルソーのように「生活の変化」を望まないことも、一つの明瞭な「思想」であるだろう。何も望まず、何も求めないことを、つまり現状に満足することを「覇気の欠如」だと悲憤慷慨するのは個人の自由だが、寧ろ「幸福」という観念と相性が良いのは、そのような「現状維持」の堅実な思想の方である。燃え上がるような「野心」はいつでも、高望みし続ける「快楽原則」の領域に含まれている。快楽を突き詰め、その甘美な昂揚に晒されていなければ「生きる意味」を感じられないという一種の「変態」であることを、万人が自らの性質として受け容れる必要はない。人間は誰でも齢を重ねるうちに脚が萎え、眼が見えなくなり、耳が遠くなり、急激な変化に堪え得るだけの気力と体力を衰えさせていくものである。そういう「自然過程」の呼び声に耳を塞いでも仕方がない。