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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

それは凡庸で退屈な感傷に過ぎないのだろうか? リュック・ベッソン監督「レオン」

 私は熱心な映画愛好家ではなく、映画館に足を運んで二時間余りの沈黙に閉ざされた視聴に金を払う習慣とも、それほど親しい訳ではない。映画館へ足を運ぶ習慣が多少なりとも自分自身の生活サイクルに入り込むようになってきたのは、ここ数年間の話で、それも緩慢な間隔に過ぎない。先日娘が産まれたので、今後暫くは映画館の暗闇へ抱かれるために出掛けていく機会も益々減るだろう。だから、私にとっての映画体験は今、遠い記憶の断片を繋ぎ合わせることでしか、構成され得ないのだ。

 リュック・ベッソン監督の「レオン」はテレビで見た。何度か見た覚えがある。何故、この作品に限って熱心な視聴者の節度を守り抜くことに成功したのか、その理由は欠片ほども覚えていない。私には幼女を愛する趣味もないし、暗殺に関心がある訳でもない。麻薬についても特段の興味を懐いたことはない。つまり、この「レオン」という著名な映画に盛り込まれた様々な要素に対して、私の感受性が特別な親和性を孕んでいるということは言えないのである。それでも、時には人間の感受性は奇妙な傾斜を示すことが有り得るし、その偶発的な傾斜が忘れ難い「鑑賞」の記憶を脳裡へ半永久的に定着させるということも有り得るだろう。私にとって「レオン」という映画は、そのような作品であった。

 具体的な筋書きは幾らでも調べられるだろうから、細かいことは説明しない。そもそも、映画が筋書きに還元され得る論理的な経験でないことは、わざわざ注意を喚起する必要もないほどに自明の話であるだろう。私にとって、この映画の内包している価値は「夢想の破れ」ということである。或る苛酷な現実を乗り超えるために、人間は往々にして様々な願望や希望の「イメージ」に取り縋る習慣を持っている。その習慣は必ずしも悪いものではないし、誰もが苛酷な「真実」に直面しながら生きなければならないと決まった訳でもない。だが、少なくともこの映画の主題は、甘酸っぱい夢想の「不可能性」を告示することに存するように思われる。いや、製作者の意図ということは、鑑賞者の立場からすれば、一つの参照すべき項目に過ぎず、それに依拠しなければ「鑑賞」という経験自体が成立しないということは有り得ない。私たちは誰でも自分勝手に画面に映し出される出来事の意味を解釈する原理的な権利を授かっているし、その映像の美しさに個人的な救済を求めることが出来る。

 私にとって、これが「不可能な夢想」を描いたファンタジーであることは、必ずしも私に固有の偏見とは言い難いものであるだろう。無学な殺し屋と、悪辣な麻薬取締官に家族を殺された少女の間の束の間の愛情。その愛情を基盤とした「再生」への切ない希望。そして踏み躙られ、枯れ果ててしまった「希望」の萌芽。物語の終盤、ナタリー・ポートマン演じるマチルダは、レオンの雇い主であったトニーに「ゲームは終わったんだ」と言い聞かせられる。子供にくれてやる仕事はない、ゲームは終わったんだ、レオンは死んだんだ、と。その台詞に堪えかねて泣き崩れるマチルダの哀傷と絶望は、今思い返してみても胸に迫る。無論、それは凡庸で退屈なセンチメンタリズムに過ぎないのかも知れない。殺し屋と少女の愛、などという幻想が、本当の意味で魂を震撼させることなど起こり得るだろうか? レオンの鉢植えを地面に植えるシーンも、一つの追悼のシーンとしては美しいかもしれないが、いかにも型通りのクリシェに囚われていないだろうか?

 その意味で、この「レオン」という作品は断じて芸術的な野心の産物という訳ではないのだろう。だが、映画というジャンルを通じて描き出された、マチルダとレオンの幻想的な象徴性は、人々の心を打つには充分な迫力を備えている。それが凡庸で退屈な感傷に彩られているとしても、つまり型通りの筋書きに縛られ、操られ過ぎているとしても、それでも二人を映し出すリュック・ベッソンのビジュアルな表現力は、そのようなクリシェに独特の異彩を附与している。彼らの置かれている苛酷な環境は、それ自体がフィクショナルな想像力の産物であるが、しかし、彼らを呪縛する袋小路の論理には、誰しも見憶えがある筈だ。

 レオンが死に、再生への希望を失ったマチルダは学校へ戻る。そしてレオンの鉢植えを学校の庭へ植える。これから彼女が健全な意味での再生を遂げられるかどうかは未知数だが、極めて残酷なことに、彼女が夢見ていた「レオンとの生活」は、追い詰められた者同士の孤独で脆弱な紐帯に過ぎなかったのだから、彼女にはもう、学校以外に生き延びるための選択肢は残されていないのである。それは「青春との訣別」であるとも言える。所謂「アドレセンス」の破綻、夢見ることの不可能性、そこから忍苦の習慣を通じて個人の「成熟」が始まり、魂が陶冶されていく。この映画自体は、学校の寄宿舎へ入ったマチルダの後日談を描いていないし、或る心理的な外傷と不幸なアドレセンスを背負い込んだ彼女の「成熟」が円滑に進められる保証はどこにもない。つまり、この「レオン」という映画は「青春の瑕疵」の生々しさだけを描いているのであり、だからこそ凄腕の殺し屋であるレオンは、その卓越した技倆にもかかわらず、マチルダとの触れ合いの場面では「無知な少年」の面影を示すのである。彼はネオテニーとでも称すべき奇妙な「成熟の停止」を内包している。言い換えれば、この作品が描き出している経験はマチルダだけではなく、レオンにとっても「青春の瑕疵」であり「アドレセンスの終焉」なのだ。それが比類無い「抒情」を掻き立てるのは、それが永遠に還ることの出来ない、所在の不明な「領域」であることを、私たちが或る痛ましさと共に知悉しているからである。

 

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