サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「溶解する社会」と情報化 伊藤計劃「虐殺器官」に関する読書メモ 1

 四月に幕張へ建てた新居へ越す為に、休日なのに朝から起き出して役所巡りに慌ただしく時を費やした。戸籍でも住民票でも印鑑証明でも、重要な個人情報の数々が電子化されつつある時代とはいえども、様々な届や請求を行う度に新しい書類へ氏名やら生年月日やら住所やらを繰り返し手書きさせられるのは、余り快い経験ではなかった。情報は電子化されていても、届け出や請求自体が紙ベースの運用から解放されていないので、そういう不毛で煩雑な繰り返しを強いられる訳だが、本人確認や必要情報の入力手続き自体も電子化してしまえばいいのではないか、と思わずにはいられなかった。同じ役所の空間で、転出届を出したり児童手当の申請を出したりする度に同じ情報を何度も改めて書類へ書き入れるのは、明らかに徒労である。何らかの電子的なインターフェースに一度入力して、当日有効期限付きのアカウントでも発行して、そのデータで諸々の手続きが済むようにすれば、書類の無意味な増殖を減殺することが出来るのではないか。

 年度末を間近に控えた月曜日ということも手伝って、役所は船橋花見川区も共に大変な混雑で、転出届の順番待ちだけで二十五人以上という惨憺たる有様であった。だから猶更、煩雑な書類に時間を奪われることが癪に障ったのかも知れないが、兎に角その退屈な待ち時間を遣り過ごす為に私が選んだ手段は、キャスターマイルドを燻らせることと、伊藤計劃の「虐殺器官」を少しずつ丹念に読むことであった。カミュの「異邦人」を読んだ後に「虐殺器官」を読むのも何だか平仄の合わない話だが、予てから読もうと思って家の棚に積んでおいたものだから仕方ない。だが、一見すると物騒な表題を持つ、この優れたSF小説が、役所のベンチに蹲って果てしない「手続き」の牢獄に閉じ込められた私の心象と奇妙にリンクする箇所を含んでいたのだから、こういう奇怪な選書というのも案外に侮れないものだ。

 認証し、認証し、認証する。

 ルツィア・シュクロウプを尾行しているあいだ、ぼくは幾つもの認証を抜けていった。地下鉄に乗るとき、路面電車に乗るとき、ショッピングモールに入るとき。

 九・一一のあと世界はテロとの戦いをはじめた。当時の大統領は自国民を盗聴する許可をNSAに与え、軍隊が街頭に立つようになり、他の国もそれに倣ったが、いくら厳しく締めつけてもテロは起こり続けた。そうした流れが何年にもわたって続き、結果としてモスレム原理主義の手作り核爆弾でサラエボが消えることになる。

 もはやヒロシマナガサキも、その特権を有してはいない。サラエボの町は巨大な穴を穿たれて、死の呪いを撒き散らす不浄の大地と化した。

 こうして幾つもの認証をくぐるのは、その結果だ。ぼくらは自分の存在を分刻みで証明し通知することで、日々の安全を得ている。政府による市民の監視。プライヴァシーの侵害。そういう言葉で不自由を叫ぶ人もいるにはいるが、ぼくを含めて、ごくごく普通の人々は、認証を通りすぎるたびに自分がより安全な場所へと近づいているような感覚を日々体験しているはずだ。

 「認証」ほど役所の窓口に相応しい文学的主題は他に考えられないだろうし、この「虐殺器官」という近未来を舞台に据えた、暴力的でシニカルで同時にナイーブな小説が、そのような卑近な問題を巡って極めて現代的な主題に、その筆鋒を届かせているのは驚くべき力業であると言えるだろう。何というか、私たちにとっては殆ど日常的な事実となっている「認証」の問題が、この作品の内部に写し取られた現代の陰画の中で、重大な主題を考究するための強力なスプリングボードとして用いられていることに、素朴な感銘を受けたのだ。

 作中の世界が「テロリズム」の問題と緊密な接合を果たしていることは明瞭である。よく言われるように、世界貿易センタービルの爆破テロ以来、私たちの世界は「国家」という単位に準拠する「戦争」の近代的な理念を半ば抛棄しつつある。イスラム国やアルカイダに限らず、内戦状態に陥っている様々な地域で、既に「国家」という概念は深刻な溶解を遂げつつあるのだ。それは昔から繰り返されてきた血腥い現実に過ぎないだろうか? 実際、近代的な「国家」の成立が、或る歴史的な条件に支えられていたことは事実であり、その明晰極まりない国境線の画定競争が、時代の趨勢によって蝕まれ、形骸化すること自体はそれほど奇異な現象ではないだろう。だが、それが凄まじい速度で亢進していく「情報化」の奔流によって一層強化されていることは、私たちの暮らす時代に固有の「現代的症候」であるのかも知れない。

 「情報化」という営為自体は、現代の人類に限って許された画期的な特権であるとは言えない。アナログな情報をデジタルな電子データに置き換えることは、確かにこの数十年間の時代的な特性であるが、電子化だけが「情報化」の本質という訳ではないからだ。手書きで綴られた書物、例えば聖書の写本を活版印刷で刊行するのも一つの「情報化」であり、或る土地の地形や、そこに築かれた人工物の配置や種別を「地図」に書き起こすのも「情報化」の手続きである。もっと問題の根源に遡行すれば、例えば「言葉」や「数」といった人類にとって極めて普遍的なツールさえも「情報化」そのものであると言い得る。電子的な技術の急速な発達が、それらの古典的な「情報化」への志向性を爆発的に加速させていることは事実で、少なくとも高価な写本の製作に従事していた中世の修道士に比べて、私たちが指先だけで無限に「コピー&ペースト」を繰り返し得るほどに「情報化」の果実に恵まれていることは認めなければならないだろう。

 そうやって驚異的な速度で進化し続ける「情報化」の潮流が、近代的な「国家」の概念さえも突き崩してしまう。無論、歴史を顧みれば明らかなように、近代的な「国家」の概念自体が、或る地方的な共同体の「情報化」によって成立したことを思えば、更なる情報化の亢進が「国家」の発展的な破綻(奇妙な言い方だが)を招くのも、さほど不自然な成り行きではない。「虐殺器官」の描き出す私たちの世界の似姿においては、例えば「認証」の問題も、極限の情報化によって対処されている。だが、そのような「情報化」の極限的な進化から零れ落ちた無名の存在(即ち「ジョン・ポール」)が、完璧な情報化によって支配され掌握された社会的構造に対峙することになるのは、皮肉な命運としか言いようがない。それはデジタイズの不可能性を意味するものではないが、情報化によって包囲し得ない「何か」、情報化に抗い続ける「何か」が脅威として存在するというのは、私たちの暮らす世界の現代的な特性にとっては象徴的な筋書きであると言えるだろう。

 かつて安部公房は「燃えつきた地図」や「他人の顔」といった諸作品を通じて、都市化の進行に附随する「匿名化」の問題を、あれらの実験的な作品の中に象嵌してみせた。極論すれば、失踪した人物の行方を追跡していくうちに自分自身の「定義」を失っていく探偵の孤独は「認証の不全」という問題に繋がっている。極端な情報化は、個人のアイデンティティ=自己定義の様態から、物理的な実在性を奪ってしまうのだ。貨幣が銀行の預金残高に置換され、「私」という人間の証明が様々な数字の羅列へ置き換えられてしまう現代社会の特質は間違いなく、近代的な「匿名化」の問題、地縁と血縁によって相互に結び付けられた中上健次的な「共同体」の解体と同期している。「虐殺器官」が見凝めているのは、そのような「溶解」の現代的な表象の形式なのだ。

 まだ130ページほどしか読み進めていない段階の感想なので、結果的には的外れな解釈ということに落ち着くかも知れないが、備忘録としてここに書き留めておくことにする。

 

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)