サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「制御し得る暴力」という妄説について 2

 先日の記事の続きを書く。 

saladboze.hatenablog.com

 暴力、それも国家によって独占的に管理された合法的な暴力としての「軍事力」の行使が、様々な歴史的反省を踏まえて、諸々の規律に厳しく締め上げられ、自由や放埓と無縁の委縮の中に閉じ込められていることは知っている。文民統制の概念が現代の常識として採用され、軍部の暴走に歯止めを掛ける為の色々な方策が講じられていることも知っている。それらの厳格で予防的な措置の数々は無論、過去の戦争において惹起された猛烈な悲劇と惨禍に対する「記憶」に基づいているのだろう。だが、その「記憶」が常に社会的な集合性の下に保たれ続けるとは限らないのが、人間という生き物の度し難い側面である。

 安保法制の成立と施行が、その内奥にどのような経緯を含んでいるのかという問いに対して、市井の無知な凡人たる私が正しい答えを引き当てられる訳がない。従って、ここに書き殴られる文章に孕まれた見解は身勝手な憶測でしかない。前回の記事で私は、集団的自衛権の承認が日米同盟の片務性の解消を企図するものではないかという考えを述べた。だが、本当はそういう政治的な計略に類する事実は副次的な重要性しか持っていない。あれほど大規模なデモが国会を取り囲んだのも、日米同盟に象徴される私たちの国家の安全保障政策に関する明晰な議論が、巷間を賑わせたからではないだろう。もっと漠然とした直観的な不安が、民衆の精神に働きかけたということではないだろうか。「民衆」などと大上段の言葉を選んでしまったが、それは現代の日本に暮らす人々の「集合的無意識」を指し示す為の選択である。

 集団的自衛権という観念の具体的な導入が、私たちの国家を「戦争」へ接近させるものであることは疑いを容れない。安保法制を「戦争法案」と捉えて劇しい反発の声が湧き起こった背景には、そのような素朴な理解が介在しているに違いない。そうした現実に対して冷笑的な見方を持つ人々は、それが一種の「アレルギー」のようなものに過ぎないと批判的に述べているが、そこに何の妥当性も存在しないと決めつけるのは余りにもシニカルであり過ぎるだろう。緊迫する東アジア情勢を鑑みれば、日本も自衛隊を飼い殺しにしておく訳にはいかない、有事に備えて厳格な憲法判断の軛を緩めておく必要があると、彼らは冷徹な政治的認識に基づいて信仰しているのかも知れない。だが、そのような考え方は「制御し得る暴力」という根源的な信憑の存在を前提としない限り、生じ得ぬ見解である。そして私たちの世界が、過去に幾度も巻き起こった悲惨で残虐な「戦争」の経験から学び取った僅かな真理の一つは、どんなに明瞭で説得力に満ちた理路や、民衆の素朴な情熱に依拠したとしても、結果的に「暴力は人間の制御を振り切ってしまう」という命題に集約されている筈なのだ。

 このような考え方の形式、つまり「制御し得る暴力」への単純な信仰は、この国では少しも珍しいものではない。何故なら私たちの国家は、東日本大震災に際して発生した原発事故の甚大な災禍を生々しく記憶している渦中でありながら、原発の再稼働という選択に深々と傾斜しているからだ。そこには「原発は制御可能である」という奇妙な情熱的思想が息衝いている。あれほどの災禍を目の当たりにしながらも尚、その信仰に致命的な衰弱は見受けられないのである。しかも私たちの国家は歴史が教える通り、世界で唯一の核兵器による被曝国である(無論、核実験による被曝は他国の大地でも起きているし、核兵器の強大な破壊力は、撒き散らされる放射能となって容易に国境を超越していく)。ヒロシマナガサキの忌まわしい記憶は今も、私たちの国家の中枢を根深く呪縛し続けている筈なのだ。にもかかわらず、原発の再稼働へ向けて政権が努力を積み重ねているのは、最早自己破壊的な発作としか言いようがない。

 東日本大震災と附随する福島の原発事故から、私たちは「制御し得る暴力など存在しない」という重要な認識を引き出した筈であった。そのように考えなければ、あの悲惨な不幸を経験したことの意義が失われてしまう。ただ無意味に、東北地方は原発事故によって穢されてしまったのだ、と考えることは、国家の未来に対する怠慢であると言い得るだろう。私たちの制御し得る領域を容易く飛び越え得るものとして、この世界には様々な「暴力」が存在し、どこまでも果てしなく根を下ろしている。それは原発に限らず、例えばナチス・ドイツホロコーストや、クメール・ルージュによる大虐殺など、枚挙に遑の無いほど数多くの世界史的な事例によって裏書きされている絶対的な真実なのだ。その絶対的な真実を巡る貴重な「記憶」を踏み躙ることでしか、恐らくは「制御し得る暴力」という観念を実体的に結像させる術はないだろう。つまり、私たちの国家の政治的な決断、不壊の日本国憲法を歪め、その語釈を捻じ曲げてでも「制御し得る暴力」という信憑に挺身する為の熱狂的な決断は、歴史的な教訓の無残な破壊の上に成り立っているのである。

 イラク戦争のとき、米兵によるイラク人捕虜への虐待が問題視されたが、あのような事態は、どれだけジュネーブ条約の威光が輝かしいものであったとしても、どの土地でも容易く起こり得る惨劇である。それは米兵が殊更に邪悪な存在である為に巻き起こった「例外的な」悪行ではない。問題なのは、所謂「暴力」という残忍な衝動の引鉄が絞られる背景には、先ず間違いなく「恐怖」という原始的な情念の働きが関与している、という経験的な事実である。暴力的であることは、生得的な邪悪さとは無関係であり、寧ろその基盤は「恐怖」という極めて人間的な感情に由来している。言い換えれば、私たちはいつでも「恐怖」に駆られることで巨大な「暴力」へ傾斜することが出来る生き物であり、その意味で極めて脆弱な存在なのである。「自衛」が目的ならば「暴力」は是認されるという考え方は、国家的な暴力の発動を「侵略」と「自衛」にすっぱりと切り分けられると信じ込んでいる極端な人々の偏った「常識」である。極限的な状況に追い込まれたとき、そのような観念的理性が自らの役割を投げ出さずに働き続けることはとても難しい。だからこそ、「暴力」の行使に関しては厳密な規制が加えられなければならないのであり、私たちの国家はたとえアメリカという宗主国から押し付けられたものであっても、「交戦権の抛棄」という画期的な理想の取り扱いに関して、もっと注意深く敬虔に振舞うべきなのだ。北朝鮮や中国やロシアの脅威と、「制御し得る暴力」という妄説の肯定を、一繋がりの数珠のように軽々しく結びつけて受け容れてしまうのは余りにも危険な「政治的短慮」であると私は信じる。