サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「イノベーション主義」への反発(報われることのない愚痴)

 ネットに流布する西洋占星術の断片的な情報を徴する限り、私は太陽が蠍座、月が獅子座で、個人のパーソナリティを構成する最も重要なサインが二つとも「不動宮」(Fixed Sign)に属するという筋金入りの頑固者である。子供の頃から癇が強くて強情な気質であり、嫌いなものは絶対に嫌いという偏狭さが幾つになっても払拭出来ない。頭が固く、冒険心が欠如しており、自分の選択した事柄に異常な執着を示す。これらの要素は、私が自分自身を顧みた結果として導き出されたものであって、西洋占星術が不動宮の特質をそのように規定している訳ではない。

 いきなり何故、星占いの話が出てくるのかと戸惑われる方もおられるだろう。特別に深甚な意味合いがある訳ではなく、単なる前置きである。占星術が、天体の運行を象徴的に解釈して、地上の現象と結び付ける前近代的な科学であるのだとしたら、その教義を尤もらしい口振りで引用するのは「オカルト」に過ぎないと、不快に思われる方も少なくないだろう。だが、占星術という奇妙に精緻な観念の体系は、非常に長い歴史と伝統に根差していて、耳を傾けてみれば意外に興味深い認識が抽出され得る分野なのだ。

 何も自分の性格や体質の成り立ちを、夜空の星々の運行に委ねる積りもないし、占星術に関する精確な知識を有している訳でもないのに、こうやって生半可な引用を行なうのは礼を失した振る舞いであろうが、一つの解釈の方法として、占星術の用語を取り出してみるのは魅惑的な実験である。統計学的なデータから様々な知見を引き出すのも、天体の配置を写し取ったホロスコープから多彩な仮説を取り出すのも、精神の働きの構造としては本質的に異なるものではない。星占いをオカルトに類するものだと決めつけるのは、凡庸な人間でも直ちに為し得る初歩的な批判には違いないが、知性の働きそのものを捉えれば、結局は個人の見識ということに総ての問題は帰結するのではないかと思う。

 無暗に長い前置きはそろそろ切り上げて本題に入る。尤も、大して中身のある本題が控えている訳でもない。私という人間が、年を重ねてみればみるほどに、保守的で頑迷で強情な性格の所有者であることが明瞭になってきたという話をしたいだけである。

 獅子座は陽気で自己顕示欲が強く頑固、蠍座は執念深くて凄まじく強烈な感情を徹底的な抑制の沼地に沈めていて頑固、これが一般的な星占いのイメージであり、象徴的な定義の典型であろう。それらのイメージは、私自身の性格を反省してみたときには、相応の説得力を伴って意識に迫ってくる。一見すると相反する要素を抱えているようにも見えるが、それらが「自己への固着」という病態に通じている点は共通しているのではないだろうか。要するに私は、革命的な変化というものが嫌いなのである。

 無論、蠍座というサインには、死と再生という極端な振幅のイメージが附随しており、革命的な変化と結び付けて語ることは可能だろう。しかし、それは結局のところ、自分自身の決断に対する執着の所産として発生する現象なのであり、見方を変えれば自己の信念を保存するためなら突飛な選択も厭わないということなのだ。過去を遡れば、私は大学を一年で中退したのだが、そのときの決断に迷いはなかった。二十歳で付き合っていた女性を妊娠させてしまったときも、当然綿密に検討されるべき堕胎という選択肢に心が揺れることもなかった。良くも悪くも、私は極端な決断を積み重ねてきたのであり、その決断を下した後に彼是と後悔したりすることは滅多にない。それは私の頑迷な魂の歴然たる証明に他ならないだろう。

 仕事をしていると、経営陣は当然のように「変革」という言葉を好んで口にしたがるし、社会的ダーウィニズムの理念を持ち出して、過去の否定こそ生き延びるための唯一の方途だと口を酸っぱくして言い募るものだという認識が徐々に養われていく。私はビジネス書や自己啓発本の類は虫が好かないので殆ど読まないが、きっとそれらの膨大な書籍のページには、そのような革命的志向性が「イノベーション」という薄っぺらなカタカナ語で表現され、氾濫しているのだろう。確かに人類の歴史が過去の否定と革命的な変貌を繰り返すことで発展してきたことは事実である。だが、あらゆる企業や人間が悉く「変化」を愛好し、志向しなければならないというのは、流石に極論過ぎるように思える。

 世の中には目紛しく移り変わっていくことが尊いという信憑が瀰漫しており、そうした思考に洗脳された人々によって、古びたものは古びているだけで、変わらないものは変わらないというだけで、劣っていると見咎められる。新しいことに手を出さないのは退嬰的な発想だと罵ることが、社会全体の成長と発展に寄与する進取的な正義だと思い込んでいるのだ。それが尤もらしい理論武装に守られていることは認めざるを得ないが、新しいものが新しいというだけで讃えられるのは奇妙な症候であり、「新しさ」それ自体に過大な期待を懐くのは寧ろ反動的な退嬰性の表れではないのか。私たちは何時までも未知の辺境を目指す、アメリカ西部開拓時代のカウボーイではいられない。過去の成功体験の否定、新しい取り組みの推進こそ生き延びるための唯一の道であるという言明、そうした観念の乱舞に、私は辟易している。本当に新しいものが、そう簡単に見つかる訳はないし、新しいことに挑んでいる積りでも、実際には同じことの繰り返しに延々と時間を奪われるということもあるだろう。

 私たちが信じる革命的な新しさ、所謂「イノベーション」が努力と工夫次第で無限に生み出せると思い込むのは馬鹿げている。画期的な変化というのはそもそも、個人の力で操れるものではなく、個人の力で成し遂げたことだと信じていても、単なる時代の流れに過ぎないことも珍しくない。人間の可能性は限られており、それは退嬰的である以前に普遍的な「真実」なのだ。新しいものには価値がある。いや、私たちは畳替えのようなレベルの刷新を「イノベーション」だと言い立てることに夢中になっているだけではないのか。あらゆるものは生滅を繰り返す、朝露の一瞬の光のように儚い存在でしかない。誤解して欲しくないが、私はニヒリズムやペシミズムの奴隷ではない。刻々と変化する社会に夢中でキャッチアップし続けることが「幸福」への扉を押し開くという妄想に、引き摺られながら生きたくないだけである。