サラダ坊主日記

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「リヴァイアサン」の現代的表象 伊藤計劃「虐殺器官」に関する読書メモ 3

 伊藤計劃の「虐殺器官」を読み終えたので感想を書き留めておく。

 テロリズムと監視社会、という如何にも現代の社会情勢の推移に相応しい主題が鏤められたこの作品を、或る種の時事的な想像力の所産として位置付けることは容易である。高度に情報化された社会構造、バイオメトリクスによるIDの「認証」が社会の隅々にまで浸透している日常の風景など、その近未来的な想像力が描き出す世界像は、私たちの普段の暮らしと地続きになっている。また、極めて露骨で即物的な暴力描写、その無機質で唯物的なニュアンスも、情報化によって総てが加速された社会の性質に親和的であると言えるだろう。

 それらの細部に亘るまで鮮明な想像力の旺盛な行使が、この「虐殺器官」という作品に極めて優れた「SF」としての栄誉を齎した要因であることは論を俟たない。そのようなカテゴライズに基づいて、その奔放且つ繊細なイマジネーションの強度を褒め称えるのも、読者に認められた崇高で幸福な権利には違いない。だが、例えば「虐殺器官」という刺激的な表題や、作中に織り込まれた生々しく身も蓋もない暴力の描写(そもそもこの作品の冒頭は、大江健三郎の「死者の奢り」を想起させるような屍体の描写によって飾られている)に引き摺られ、読解の焦点をそのような作品の表層だけに宛がうのは、実際には勿体ない短慮だと言わざるを得ない。

 この作品を埋め尽くす暴力の陰惨で露骨な表出は、決して「虐殺器官」の野蛮な無神経を意味するものではない。寧ろ、この作品の全篇を通じて底流しているクラヴィス・シェパード大尉の独白には絶えず、繊細極まりない感情と思索のアマルガムが附随しているのだ。言い換えれば、この作品の随所に陥入している血腥い暴力描写の連打は、挑発的な表題が附された「虐殺器官」において中心的な主題ではないし、そのこれ見よがしな強調が文学的な主眼である訳でもない。

 私の考えでは、この作品を貫く重要なキーワードは二つある。一つは「愛するがゆえに殺す」、もう一つは「人々は見たいものしか見ない」である。

 ジョン・ポールの跳梁によって世界中の国々で平和な均衡が打ち破られ、内戦の惨禍が惹起されること、その手段として「虐殺の文法」が用いられているということ、それらの要素は、見た目ほど作品の本質的な構造に食い入っている訳ではない。「虐殺の文法」という考想自体は、実際には具体的な説得力の不足した、物語のバックボーンに留まっている。だが、重要なのは、そういう表層的な媒介物ではなく、何故「虐殺」が惹き起こされるのか、という主題に関する一つの仮定された回答である。

 勿論、小説は受験問題ではないし、主題を読み解くことが、小説を享受する経験の本質だと強弁する積りはないが、どんな小説にも、極めて迂遠な方法を経由することで徐々に段階的に浮上する「主題のようなもの」を想定することは不可能ではない。それは作者の「意図」ではないし、寧ろ時には具体的な結論への抵抗を示す秘められた真実として作動する場合もある。

 どのように虐殺を惹き起こすのか、という一種の謎解き的な関心はやがて、何故ヒトはヒトを虐殺するのか、という本質的な疑問へと転化していく。愛することと殺すことの不可分な関係性、それらが何れも進化論的な適者生存の原理によって培われたものであること、そうした認識が語られることによって、私たちは一つの原理的な解決に到達するのではない。或る意味では、この「虐殺器官」という小説は極めてペシミスティックなヴィジョンに取り込まれている。語り手のクラヴィス・シェパード大尉は結局のところ、虐殺の論理、或いはその原理的な不可避性の問題を解決出来ずに、寧ろジョン・ポールの「わたしは、愛するがゆえに殺す」という信仰告白へ屈従してしまう。その結果、アメリカを虐殺の坩堝に叩き込むことで、その他の世界に平穏を齎すという極端な解決に手を伸ばす訳だが、そこには「類的な憎悪の総量は書き換えられない」という悲劇的で冷徹な認識が陥入している。憎悪は削減出来ず、それが発揮される領域を移動させることしか出来ないという、出口の見えない認識が、ジョン・ポールやシェパード大尉の辿り着いた邪悪な結論なのである。

 同時にそれは、人間が「見たいものしか見ない」という認識論的な症候に囚われていることの反映でもある。どれだけ情報が増大し、蓄積し、氾濫したとしても、人間がそれに助けられて一層「真実」へ近付くということは有り得ない。どんなに多くの「情報」に取り囲まれていても、人間がそこから選び取る「真実」は、自己の立場や利益に資するものでしかないのだ。そうした認識が、ジョン・ポールの禍々しい「犯罪」を支え、駆動させる主因となっている。「人々の眼に映らない、悲しみ」は問題にならない。この異様な「無関心」が結果的に「虐殺の文法」に基づく「正義」を、抗い難い誘惑として成立させているのである。

 愛国心と戦争が結び付き得ること、言い換えれば「愛情」が「暴力」を招くということ、こうした不快な反転の倫理的な損益について、明確な方針や規範を打ち立てることは難しい。別に作者は、そうした問題に具体的な処方箋を出すべく、この小説を書いた訳ではあるまい。彼は純粋に「現代」という世界に刻み込まれ、過剰なまでに露頭しつつある諸問題を、或る特殊な境遇の中に埋め込み、生々しいリアリティを附与したに過ぎない。いや、問題に答えを出さないことを咎めるような文章になってしまったが、誤解しないでもらいたい。「虐殺器官」は優れた小説であり、その世界で問い詰められている主題の重要性は言うまでもない。その主題に答えを出すのは小説の任務ではなく、私たちの具体的な「実存」に課せられた役割であるに決まっているのだ。

 

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)